ポツンと一言だけ言わない習慣

人前で話をするのが仕事の一つである。だが、いわゆる「古典的な弁論」は苦手だ。ぼくにとって弁論という行為はパフォーマンスにしか見えない。そこに聴衆に聞いてもらう、理解してもらうという意識に動かされた説明は見当たらない。生真面目に言うなら、話し手はパフォーマーであってはいけない、考えを伝えることを最優先しなければならない。

研修や講演の後の交流会や懇親会で話をせよと言われることがある。これも苦手である。さっきまであれほど聴衆に向けて話していたのに、宴席で挨拶をしたり乾杯の音頭を取ったりする段になると気が進まなくなる。ギャラが出ないからではない。結婚式に招かれたら、ギャラがなくても、いや、それどころか、祝儀をはずんで話をしている。来賓としてスピーチをするのは好まないし、適材適所だとも思わないが、やむをえない社交だと割り切って引き受ける。ところが、一仕事の後に、話すという一仕事に付き合ってくれた同じメンバー相手に、仕切り直して挨拶や乾杯のスピーチをすることにまったく気乗りしないのである。

乾杯

ある時、乾杯の音頭役に指名された。さっきまで講演していた講師が、この席でも挨拶して乾杯はないだろうと言い、誰か別の人に頼んでほしいと司会に言った。司会は承知しない。「じゃあ、挨拶抜きなら」と妥協し、司会もうなずいた。全員がグラスを持ち上げたのを見計らって、いきなり「乾杯!」と告げた。司会が慌て、「すみません、何か一言お願いします」と言うから、もう一度言い直した。「一言だけ言います。乾杯!」 笑いが起こり、場は白けずに済んだ。


ポツンと一言しか言わなかったこのケースは例外。儀礼色の強い場面ではことば少なめだが、何が何でもコミュニケーションせねばならない時にはこんな薄情な態度は取らない。コミュニケーションとは「考えや意味の共有」である。わかりやすく言えば、きちんと説明しないと伝わらない行為である。そんな場面でポツンと一言だけ言って幕引きする度胸はぼくにはない。ここで言う度胸とは不親切な厚かましさだ。語る場合のみならず、書く場合もポツンができない。たとえば、誰かの名言を引用する時、その名言のみで分かるはずもないのに、説明を加えずに文中にポツンと置けないのである。

一冊の本の、ある文脈から切り取られたことばは――たとえそれがよく知られた定番の名言であっても――一つの形式命題にすぎない。その名言が心に響くと思うのはすでに知っているからである。文脈無き名言は、意味も脳内を素通りして単なるこけおどしに成り果てている。ポツンと出てきた「我思う、ゆえに我在り」は何を語るか。わからない。ポツンと出した筆者もたぶんよくわかっていない。

根が饒舌にできているせいか、いやお節介な性分のせいか、ぼくは名言や諺の類を引用して孤立状態にできないのである。不親切だと思うからだ。釈迦に説法になってもいいから、意味を明らかにしたいし私見を加えたい。そうしなければ、知の見せびらかしに終わるではないか。このブログで〈名言インスピレーション〉というカテゴリー名のもと文章を書くことがある。おいしい名言だけをどこかから持ってきてポツンと示して「さあ、どうだ!?」などと大見得を切ることができない。知っていればその名言の生まれた背景も説明するし、気づいていることや解釈を過剰なまでに書く。お節介と書いたが、愚直と言うべきかもしれない。

さほど吟味もせずに、誰かの言をあたかも文の装飾品のように扱う文章に出合う。省エネ作文もほどほどにしてもらいたい。名言を引用して知らん顔できるほど偉くもなければ権威もなく、せいぜい「ペンは剣よりも強し」とやせ我慢するのが精一杯の弱者という自覚があれば、言を多く費やすしかない。言い過ぎた冗漫よりも、言い足りない怠慢こそを恥ずべきである。

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proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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