本になった少年
ある村に記憶力にすぐれた少年がいた。両親は十一歳だと言っていたが、長老によれば十歳だった。名前はテル。テルは村に起こった日々の出来事はもとより、村人全員の戸籍の諸々、村に伝わる故事、動植物の名前や生態などすべてを丸暗記していた。幼い頃から昔話が好きだったので、長老の所に出掛けて行っては一字一句間違うことなくすべて記憶し諳んじることができたという。
テルの家は裕福ではなかった。それどころか、大工の父親は大工とは名ばかりの生来の怠け者だった。父親の放蕩三昧に耐えてきた母親は、純朴だけが取柄の、これといって目立ったところのない女だった。テルは村でただ一つしかない初級学校に籍を置いていたが、弟と妹の世話や小さな畑の手伝いに日々追われてほとんど通っていなかった。
テルの家に本は一冊もなかった。両親はテルが学問に興味があることを承知していたが、父親はそのことを好ましく思っていなかった。暇さえあれば訳の分からないことを暗誦しているテルの姿を見て、父親はよく怒鳴ったものだ。
「いい加減にしないか! そんなものはいくら覚えても飯の種にはならん。さっさと大工見習いでもやれ!」
安物の強い酒をあおりながら父親は罵声を浴びせかけた。テルはその父親を見て悲しくなった。しかし、決して憎むことはなく反発もしなかった。叱られると、父親の大工道具の手入れや畑仕事に取り掛かった。そうしながらも、父親に聞かれぬように、長老に教わった話をつぶやいていた。
テルは偉い人になりたいと思っていた。そのためにどうしても本が読みたかった。耳から覚えるばかりだから、自分で文字を読んで覚えてみたいと思っていた。
(ああ、本が欲しい。ぼくのこの目で字を読みたい)
知識への興味はつのるばかりだった。
ある日のこと。母親の用事で隣り町に使いに行くことになった。何度か行き来したことのある単調な光景が続く一本道である。往復だけで半日もかかる道のりで、十歳そこそこの少年にはきついはずだったが、テルの目にはいつもあらゆるものが珍しく映っていた。小金持ちの主人宅で用事を終えて帰ろうとしたテルに、主人は駄賃として10エルシス硬貨を二枚くれた。小遣いなどほとんどもらったことのないテルに硬貨は輝いて見えた。
「いいかい、テル。お前が正直者だということは知っている。だけどな、親父には一枚だけ渡せばよい。もう一枚は内緒だ。お前の好きなものを町で買って帰ればいいぞ」と主人は言った。
きちんと礼を言ってテルは往来に出た。10エルシスで母親に生地を、弟と妹に菓子を買って帰ろうと思った。いつも用事が終わるとまっしぐらに村へ帰るテルだが、まだ日が高いので、町の知らない場所をほんの少し歩いてみることにした。村とは違っていろんな店が立ち並んでいる。ふと、本屋の看板が目に入った。恐いものに近づくようにしてテルは本屋の店先に立ち、中を覗き込んだ。二枚の10エルシス硬貨の輝き以上にまぶしい光景だった。知恵の泉が湧いているように思えた。
(本だぁ。本がいっぱいあるぞ!)
テルは我を忘れていた。店に引き込まれ貪るように背表紙に触り始めた。薄汚れた小さな丸い手で一冊の本を引っ張り出してページをめくる。アルファベットは読めたし直感で単語も理解できたが、なにしろ適当に選んだ本だから知らない言葉だらけだった。しかし、いま本を手にしている喜びは至上のものであった。
その本を元に戻し、テルは他の本の背表紙を追った。高い位置に置かれていた一冊の本に目が止まり、その本を背伸びして手に取り、夢中になって読みふけった。十分に意味がわかるはずもなかったが、もし店主が声を掛けなかったら日暮れまで読み続けたに違いない。
「坊主、えらく気に入ったようだな」と店主が言った。
テルは立ち読みを咎められるのではないかと身構えた。それでも、その本を元に戻せない。本の重みがずっしりと手に伝わってくる。その本を買って帰り、父親に隠れて読んでいる姿さえ浮かんできた。
「この本が欲しいんだけど、これはいくら?」とテルは尋ねた。ポケットに手を入れ10エルシス硬貨が二枚あるのを確かめた。
白髪頭の店主は眼鏡を外してテルが差し出した本を見て言った。
「ほほう、まだ10歳かそこらなのに大したもんだ。でもなあ、この本は少年には無理だ。あと5、6年経たないとわからんだろうな。ちょっと待ちなさい」
そう言うと、店主は椅子から立ち上がり奥の書棚の方へ歩き始めた。テルは店主の背中に向かって叫んだ。
「これがいい! これが読みたいんだから!」
テルの必死の声と真剣な目つきに店主は苦笑いをした。しかたがないかという表情を浮かべた。
「そうかい。お前さん、いい心意気だ。名前は何と言う?」と言って椅子に座り直した。
「テル。テルだよ」とテルは告げた。
「それはそうと、テル、この本はお前さんの小遣いじゃ買えんだろう」と店主は言った。
「大丈夫さ。お金はあるから」とテルは胸を張った。
「そうか。25エルシスだが、20にしてあげよう」と店主は言った。
「20!? それは……」と言いかけたテルに、店主が「ほらね、この本は値が張るんだから」とつぶやいた。
「20は無理だよ。20は持ってるけど、10しか使えないから」とテルはみるみるうちに悲しい表情になった。
「いいかい、テル、10だとあっしに儲けはないよ……」
店主はそう言いながら、今にも泣き出しそうなテルの落胆ぶりを見逃さなかった。
ひっそりとした本屋の中で店主とテルが黙ったまま向き合っている光景は、往来から眺めるとちょっと奇妙な巡り合わせに見えただろう。テルはポケットの中の10エルシス硬貨を汗ばんだ手で握りしめながら言葉を失い、店主はどうしたものかと思案して黙るしかなかった。やがて店主は自分に向かってつぶやくように静かな口調で話し始めた。
「テル、いいだろう、10だけ置いて行きな。この本はお前さんのものだ。さあ、いいから……。だけどな、本というのは見てくれや拾い読みするだけじゃわかるもんじゃない。どこで手に入れた金か知らないが、お前さんの思うほどためにならんかもしれん。むだ遣いになるかもしれん。持って帰って何日もかけて読めばいい。気に入らなければついでの時に返しにきなさい。その時には10エルシスも返してあげよう。もし気に入ったら、残りの10をあっしにめぐんでやってくれや」
テルは何度も礼を言った。大きな声でありがとうを繰り返した。
日暮れまでに帰らないと母親が心配する。テルは一目散に一本道を脇目もふらずに走った。生地のことも菓子のことも忘れていた。生地と菓子の代わりになった本を大事そうに小脇に抱えて、テルは駆けた。
大工道具の手入れと畑仕事は相変わらず毎日の日課だった。ほんのちょっとした合間を見つけてテルはこっそりと本を読んだ。隅から隅まで何度も読んだ。知らない言葉は長老に教えてもらった。読まない時は本を納屋に隠していた。駄賃の残りの10エルシスを渡してからは父親は機嫌を損ねることは少なくなったが、万が一本を見つけられたら、ひどいことになるとテルは恐れていた。
十日ほど過ぎた頃にはテルは本に書いてあることはすべて覚え諳んじることができた。テルの暗唱ぶりに感心した長老はご褒美に5エルシスの小遣いをくれた。この5エルシスとこれまで自分でこつこと貯めた5エルシスで10になる。テルは隣り町に行くことにした。母親に隣り町に使いに行く用事がないか尋ねた。うまい具合に、母親はテルに用事を頼もうと思っていた矢先だった。テルはポケットに二枚の5エルシス硬貨を入れ、本を大切に小脇に抱えて出掛けていった。
本屋に入ると本の匂いがした。テルはこの前と同じように心の昂ぶりを覚えた。
「おじさん、ぼくだよ、覚えてる?」とテルは店主に声を掛け、「約束した10エルシスを持ってきたよ」と誇らしげに言った。
店主は笑顔もなく、ただ眼鏡の奥のやさしい眼差しだけを光らせた。テルは息を飲んだ。しばらくして、店主は脇に抱えた本に目をやり口元をほころばせて言った。
「たしかテルだったかな……。お前さん、その本を全部読んだのかい? おもしろかったかい?」
「全部読んで、全部覚えたよ」とテルは口を一文字にして胸を張った。
「全部覚えた……。そうか、なんて賢い子なんだ、お前さんは。たまげた」と店主はつぶやいた。そして、続けた。
「それなら、もうその本はお役御免だな。すべて覚えて暗唱できるんなら、もう本などなくてもいいだろう。頭の中に本が入ってしまったんだからな」
そう言うと、店主は引き出しから10エルシスを取り出して、テルの手に握らせた。
「この前にお前さんが払った10だ。今持ってきた10は受け取らない。その代わり、すっかり覚えてしまったその本を置いていきな」と店主は言った。本を受け取った店主は背後の書棚に向かい、一冊の本を取り出して埃をぬぐった。
「お前さんにはたまげたよ。うんと本を読めばいい。この本を持っていきなさい。また覚えたら返しにくればいい」と店主は言った。
テルは目を輝かせて本を受け取った。「読んでいいの?」としか言えなかった。その本をしっかり小脇に抱えて踊り跳ねるように帰って行った。母親の用事のことは忘れてしまっていた。
帰り道、テルは「頭の中に本が入った、頭の中に本が入った」と何度もつぶやいた。
テルのこんな日々はその後何年も続いた。店主は代金を受け取らずにテルに本をあてがい続けた。テルはすっかり大きくなっていた。読んだ本は百冊に達しただろう。そのすべてを覚えていた。十歳の頃に読んだ本さえも一字一句間違いなく暗唱できた。文字通り百冊の本が頭の中に入ったのである。
本を読み耽った数年間、テルは家族以外の誰ともほとんど会話をすることがなかった。テルの少年期の日々は本とともにあった。世間から離れ本の中に閉じこもっていた。テルの世界は本そのものであった。もちろん誰の目にもテルは人間の姿に見えていたが、すでにテルは人間ではなかった。世間をまったく知らない、考えることのできない本そのものと化していた。
岡野勝志 作 〈1970年代の短編習作帖より〉