知をまとめる

今日は珍しくほとんどもの言わぬ一日だった。原稿用紙にして10枚分くらいの以前書いた文章を元にして、新たに15枚分ほど書き下ろして編集する作業に没頭していた。経験のあるテーマだから書くのにさほど苦労はしなかったが、まとめるのに手間取った。つくづく思うのだが、まとめるという仕事は一筋縄ではいかない。それは、部品を単純に組み立てるのとは違う。部分の足し算では済まないのである。

漢字一文字で「知」と現わせば、知識以外の知的要素が含まれるような気がする。「きみの知識は……」と言うのと「きみの知は……」と言うのとでは暗示されるものが違うだろう。したがって、「知をまとめる」というのは知識を束ねるだけに止まらない。そこには概念化があり要素化があり適正配列がありカテゴリー化があり相互参照がある。うまく言えないが、俯瞰的に見晴らすようなネットワーキング作業が求められる。

フランシス・ベーコンが「知は力なり」と書いたとき、ラテン語では“Scientia”だったから、明らかに「知識」のことだった。もっとも知識だからと言って断片とはかぎらない。部分を寄せ集めた全体はつねに部分の総和以上だからである。あることについて知っている。別のことについても知っている。この二つを統合したらそれぞれの知以上に理解が深まる可能性はあるだろう。だからこそ、知の編集に意味がある。

ところで、ショーペンハウエルがベーコンに異議を唱えている――「知は力なり。とんでもない。きわめて多くの知識を身につけていても、少しも力を持たない人もいるし、逆に、なけなしの知識しかなくても、最高の力を発揮する人もいる」。残念ながら、ショーペンハウエルの反論は空を切っている。なぜなら、なけなしの知識ですごい力が発揮できるのなら、それこそ「知は力なり」の何よりの証拠だからだ。


ほとんどの事の始まりや話の始まりは、導入自体としてはシンプルだ。誰かが「何々の件で……」と言い出す時点では、内容がわかるはずもなく、反応も気楽である。ところが、話が本題に近づいてくると何となく骨太なことに気づく。それは樹木にたとえたら幹のようなものである。幹では理解不十分だから枝葉の情報を求める。その枝葉で分かるつもりが、思いのほかおびただしく、また多岐にわたっているので、統合しきれなくなり途方に暮れる。話が果実や根に広がってしまえばもうどうにもならない。最初の「何々の件ってもっと簡単じゃなかったのか……」という思いがよぎる。

知ろうと思えば情報や知識が増える。分かろうと努めた結果、逆に話が複雑になり混沌とし、知の洪水から逃げ出したくなる。情報や企画や戦略を「まとめて欲しい」という仕事の依頼をよく受けるが、まとめるというのは依頼者が想像するほど簡単な仕事ではない。気が付けば、同輩にも後輩にも難しい話や複雑な話に首を突っ込むのを嫌がる者が増えてきた。歳のせいばかりではないだろう。知識を身につけることよりも、身につけた知識をまとめて活用するほうが実は厄介なのである。まとめるほどの知識がない人間のほうが、だからお気楽なのだ。

推論

さっき書き終えた文章は論理の話であった。論理的に考えるということも知のまとめ作業とほとんど同じである。前提1という知識と前提2という知識を踏まえて(まとめて)、個々の知からは出てこない結論を導くからだ。知識は一個の断片としては大したものではない。むしろ、そんなものに拘泥していては衒学的趣味の域を出ない。知は広がりを得て、また統合によって役に立つようになる。しかし、「知は力なり」だ。力には功罪がある。力を善用するには知を律することを忘れてはならない。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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