西田幾太郎は「事実には主語も客語もない」と言った。いま、ぼくの右手にコーヒーカップが置いてあって、指はパソコンのキーボードを叩いている……左手には引用した西田の一行が書いてあるページが開いており、そのページはぼくの愛用のシステム手帳に綴じたもの……と、適当に机回りの事実を描写してみたが、ここに書いたありようで事実は存在していない気がする。少なくとも、ここに書かなかった以外の存在の仕方があってもいい。いや、そもそも事実などは存在せず、ぼくが主客関係を決めて見えるものを勝手に解釈しているだけのことかもしれない。
そう考えた上で疑問が生じる。目の前の状況として見える事実があいまいなのか、それとも、事実には節理があるが解釈する側の認識構造があいまいなのか……。文法に則って主客の関係を描こうとするのは事実の明晰化努力ではないのか。いや、人間以外の存在は何もかもがもともと明瞭であって、認識と言語がそれらをあいまいにしか捉えられないのではないのか。机の端で床に落っこちそうになっている辞典を引き寄せる。某所から譲り受けた百冊ほどの中の一冊、『あいまい語辞典』。こんなことを考えたのはこの辞典がきっかけだった。
「あしらう・あいさつ」という見出しがある。はっきりと意味がわかっているつもりだが、あいまい語なのだそうである。あしらうは本来「取り扱う、応対する、受け答えする」だから、良いも悪いもない。ところが、「プラス面を表面に出しながらハラの底ではマイナスに取り扱っている」と著者の芳賀綏は言う。社交上の儀礼を尊重する日本人は、あしらいを定型化し、それがあいさつになっているという見解である。たしかに、誠意のこもっていないあいさつを交わされることがある。メールや葉書の末尾に必ず「感謝」と書く人がいるが、もはや常套句であってみれば、受け取るこちらも感謝されているという実感に乏しい。
定型化されたあいさつはメッセージ性に乏しく、意味はすでに形骸化している。言い過ぎなら、あいまいと言い換えよう。朝のあいさつは丁寧なご機嫌伺いの「おはようございます」。昼は「こんにちは」、夜は「こんばんは」に限られ、おはようございますに比べると味わいに欠ける。「おはよう」には格上のニュアンスがあって使いづらい時がある。かつてコメディアンのトニー谷は「おこんばんは」とあいさつしたが、単純なギャグではなくて、「こんばんは」では芸風上ぶっきらぼうだったのではないか。
なお、英語では、good morning、good afternoon、good evening、good nightとそれぞれ朝、昼、夕、夜に対応し、いずれにも「良き」という共通の修飾語が付いている。概念レベルも一致している。フランス語も同様で、朝のjourに、夕方のsoireに、夜のnuitのそれぞれに良きという意味のbonが付き、イタリア語もbuongiorno、buona sera、buona notteとほぼ同じ用法。ぼくの知る欧米語はどれも「良き何々」とあいさつしている。日本語は良き朝ではなく、早い朝と告げる。こんにちはもこんばんはも単に時間帯を示すだけだ。
どの時間帯にどのあいさつをするかに関する厳密な決まりはない。正午になった瞬間、おはようございますをこんにちはに変えるものでもないだろう。意味もあいまいなら使い方もあいまい。あいまいではあるが、あいさつを交わさなければ不自然な場面が出てくるし、将来の関係に陰りがさす場合もある。あいさつを交わすことから逃れるのはむずかしい。あいさつだけに限らない。日常会話に始まり、会議、文学、広告、報道、さらにはアイコンに到るまで、表現はつねにあいまいさを内蔵している。言を尽くしても意味が明快になるわけではない。ことばの量とわかりやすさは比例しない。「すべて物の色、形、また事の心を言い諭すに、いかに詳しく言ひても、なほ定かにさとりがたきこと、常にあるわざなり」と本居宣長が説いた通りである。
ふつうに考えれば、ことばや記号に意味を乗せるのはコミュニケーション(意味を分かち合うこと)を目論むからである。どんなメディアでもどんなジャンルでも、メッセージの意味を理解できることがあり、たとえそれが表現者の意図通りではないにしても、わかったつもりにはなれるのは、コミュニケーション機能があるからだ。しかし、あいまいさを乗り越えられる場合とそうでない場合がある。ある特定の人々にはコミュニケーションとなり、その他の人々にはディスコミュニケーション(意味が分かち合えないこと)になる。わかる人にはわかり、わからない人にはわからない。まるで暗号や隠語みたいだ。あいまいだからと言って、明瞭なことば遣いを心掛けることがまずいわけではない。ただ、あいまいさを背負っているという自覚は必要である。