構想について

構想が危うい。その最たる事例が昨年露わになった。新国立競技場の無様で後味の悪い顛末がそれだ。白紙撤回によってわが国の構想力、構想人材の次元の低さが世界に晒された(世界がどれほどの関心を抱いていたかは別にして)。国家プロジェクトにしてこの体たらくである。ましてや事業におけるささやかな取り組みにどれほど構想力が生かされているか、疑問視せざるをえない。

構想は案外出番の多い術語だ。見直してみようと、遠回りは覚悟の上でジャンバッティスタ・ヴィーコ(16681744)を読んでみたことがある。イタリアの哲学者ヴィーコは言う、人間の知性は仮説することにあること……発見し創造する人間の本性的認識能力が構想力(ingenium)であること……それは、遠く隔たったものの間によく似たものを見出す能力であること……云々。

手触り実感もない大きな現実をぼんやりと眺めていても構想たりえない。また、当てもなく未来を洞察しても何かが見えてくるわけでもない。「もし~ならば」という仮言によって何かを見つけよう、何かを生み出そうとする強い意志が不可欠だ。「遠く隔たったものの間によく似たものを見出す能力」とは関連付ける能力、あるいは何らかの関係を発見する能力のことだろう。これとあれは本来違うなどと、融通のきかない分別をしているかぎり、もしかして存在するかもしれない類似に気づく余地はない。


社会の多様な現象はことばによって把捉される。ありきたりのことば遣いで済ましていてはいけない。たとえば少子化というテーマに「子育て」しかなく、地域活性化というテーマには「イベントや誘致」しかなく、サービスの主役には相変わらず「顧客満足」という四字熟語が居座っているようでは、構想が更新されることはない。経済と言えば、発展と成長、そして規模の拡大。それだけが経済でないことはもう十分にわかり切っているはずではないか。前例に縛られているかぎり、構想を練ることばも陳腐なまま錆びつくばかりである。

現象をマクロに見ることを構想と思い込むのは錯覚である。構想はもっと身近な対象を起点とする。ぼくたち一人ひとりは外界の諸要素を嫌と言うほど仕事や生活に内面化してきているはず。しかも、別の誰かと違う方法で。誰もが外界とつながった固有の日常的発想を持ち合わせているのである。その個人的な発想を未来へ、世界へと拡張してこその構想だ。構想したからと言って何もかもうまくいくわけではないが、それ以外に新しい可能性を探る方途は見当たらない。

ドングリはバーチャルな樫の木

〈マクロ〉な樫の木を春先に見て〈ミクロ〉な秋に実るドングリに思いを馳せるのが構想だと信じられてきた。そうではない。枯葉に混じった〈ミクロ〉なドングリの実から数年後の〈マクロ〉な成木を想像することに構想の面目躍如がある。「ドングリの実にはバーチャルな樫の木が宿っている」という言い回しがあるが、小なるもの、日常的なもの、身近なものからの視点が構想の出発点であることを示している。

無理やり押し付けられたり期限に追われたりしながら大きな課題と格闘する日々……手も足も出ないから、やむなく資料を渉猟しウェブに没我する情報収集の日々……誰がやっても結果に大差はない。こんな作業は構想から程遠いのである。次の角を曲がればその向こうに新しい景色が見えるかもしれない……この種に適量の水を注ぎ光を当てれば見たことのない鮮やかな花が咲くかもしれない……こんな希望と予感が張り詰めてこそ構想が動き出す。「小さな現実」を前提してこそ大いなる仮想が意味を持つことを忘れてはならない。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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