受けた恩、かけた情け

「受けた恩は石に刻め」とは、他人ひとが自分に施してくれた親切や恩義のことは決して忘れることなく深く心に刻みなさいという教え。これには「かけた情けは水に流せ」という対句がある。自分が人に施した善意や親切にはいつまでも執着せず、きれいさっぱりと忘れなさいという意味。

一人の人間が恩を受ける側にも情けをかける側にも立つのが常。困っている時に仕事先を紹介してもらったことが何度かあるし、困っている人に仕事先を紹介したこともある。受けた恩はよく覚えている。かけた情けはどうか? 気分は水に流しているが、覚えているし思い出しもする。

公私ともに頻繁に恩を受け情けをかけた時期があった。高級な食事処での奢り奢られが連日続いたこともある。頻度が高いと奢られの値打ちも低くなり、それと比例するように奢る値打ちも低くなった。奢り奢られの食事は焼肉が多かった。店と料理の微かに残る記憶がないわけではないが、接待した側が相手だったか自分だったかも定かではない。

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それでも稀に見るゴージャスな焼肉のご馳走シーンと奢ってくれた人を、2、3事例だがよく覚えている。「焼肉、ご馳走さま」と石には刻んでいないが、時々思い出して懐かしむ。他方、焼肉を奢ったのも数知れないが、おおむね「かけた情けは水に流す」が当てはまる。もっとも今も利用する店があり、そこに行けば焼肉を幸せそうに頬張った面子の顔も浮かぶ。

受けた恩はともかく、かけた情けのほうは記憶力の良し悪しが関係するので、水に流しているつもりでもしつこく覚えていることがある。思い出した時には、「奢ってあげた」ではなく「ご馳走させたいただいた」と謙虚に思うことにしている。そう言えば、しばらく焼肉を食べに行っていない。

行って、そして戻ってくる

自宅からどこかに出掛けて用事を済ませたら、自宅へ戻ってくる。すぐに戻ることもあれば、朝に出て夜に戻る場合もある。用事によっては戻るのが翌日や翌々日になることもある。いずれにせよ、行った手前、戻ってくる。

出掛けたまま戻ってこないことを家出とか失踪とか徘徊と呼ぶ。理由がわからなければ行方不明で処理する。戻るべき所に戻らないのは尋常ではない。「行ってきます」と言って出掛け、戻ってきて「ただいま」と言うのが日常行動のデフォルトだろう。

「行って、そして戻ってくる」のを意識し始めたのは、大阪市の「敬老優待乗車証」を付与されてからだ。大阪市交通局が2018年に民営化され、地下鉄は“Osaka Metro”(大阪市高速電気軌道株式会社)に、バスは子会社の大阪シティバス株式会社に移行した。メトロとバスには1乗車につき50円で乗れる。

優待料金で乗れるのはOsaka Metroと系列の大阪シティバスだけ。阪急、阪神、近鉄、南海、京阪などの私鉄に優待は適用されない。たとえば旧自宅に近い堺筋本町駅から京都河原町駅までは乗り換えなしで準急で行けたが、メトロは堺筋本町駅から4つ目の天神橋筋六丁目駅まで。そこから先は阪急の通常料金が加算される。


他の私鉄に乗らずに、メトロとバスと徒歩で行って用事したりどこかに寄ったりして帰ってくるのが――ゲーム感覚的な――ぼくの行動の基本になっている。改札さえ出なければ、メトロの路線間なら乗り継ぎは何回しても50円。バスは降車したら次の乗車はまた別料金になる。しかし、優待乗車証ならではの特典がある。これを知らないシニアが結構多い。

メトロで行ってバスで帰ってくることが多い。昨日はメトロの御堂筋線の西田辺で乗り天王寺で乗り換えて前の職場の近くの谷町四丁目に行った。所要17分。用事とランチを済ませて大阪歴史博物館にちょっと寄り、NHK前の馬場町ばんばちょうでバスに乗り北畠公園前のバス停で降りる。バスの所要時間はメトロの倍の35分。

メトロで行ってバスで帰ってきたら、50円+50円=100円ではなく、50円になる。これが特典である。50円が浮くのは些少なメリットだが、景色の見えないメトロ往復にない半日旅行気分が味わえる。なお、バスで行ってメトロで帰ってきてもいい。バスはあべのハルカスに向かって走る。この場合も往復50円だ。

語句の断章(78)「貪等」

もう30余年も前になる。京都の宿坊で中小中堅企業の人たちを対象に1泊2日の企画研修をおこなった。初日の夕食時の箸袋にハガキの大きさの紙が添えられていて、「食事の五観文ごかんもん」と題した10行ばかりの文章が印刷されていた(五観文は「五観の偈げ」とも呼ばれる)。

今は胃腸は丈夫だが、働き盛りの当時は不規則な食事時間、時に暴飲暴食に溺れ、胃潰瘍の一歩手前まで行った。一枚の紙に素直に感心し、持ち帰って筆を手にして書いた。長くダイニングキッチンに掲げて、思い出しては読み返した。その書は汚れがひどいので5月の引越時に処分した。下記が食事の五観文である。

一 功こうの多少を計はかり彼かの来処らいしよを量はかる。
(この食事ができるまでの労力や、どこから来たのかを考える。)

二 己おのが徳行とくぎようの全欠を忖はかって供くに応ず。
(自分の日頃の行いが、この食事をいただくに値するか反省する。)

三 心しんを防ぎ過とがを離るることは貪等とんとうを宗しゆうとす。
(食物に向かって貪る心、厭う心を起こさない。)

四 正まさに良薬りようやくを事とすることは形枯ぎようこを療りようぜんが為ためなり。
(身体を養い、健康を保つための良薬として食事をとる。)

五 成道じようどうの為ための故ゆえに今この食じきを受く。
(修行や目的を達成するためにこの食事を受ける。)

初見の熟語もあり、また正しく読めるかどうかもあやふやだった。辞書も引いた。しかし3種類の辞書を引いても載っていなかったのが、三つ目の文中の「貪等とんとう」である。いつも気になったせいか、この一文だけは諳そらんじることができた。

貪等は仏教用語であり、食事に対して起こりがちな「もっと美味しいものをもっとたくさん食べたい」という欲望を意味する。その反対の「これは厭だ、あれは苦手だ」と言って遠ざけるのも心の囚われであり執着しゅうじゃくである。文字通り「貪」は必要以上に欲しがること、「等」は貪りと同類の煩悩だ。

食事を前にして、出されたものを厭うことはまったくない。しかし、この歳になってもまだあれもこれも食べたいという欲がある。食事の五観文のうち、つい油断してしまうのが第三句である。なので、人を貪等まみれにしてしまうホテルのビュッフェや焼肉の食べ放題などは遠ざけるようにしている。

今日一日を振り返ると大したことをしていないので、今夜の夕飯は粗食にするつもり。これは第二句の教えの実践である。

ブログ‟Okano Note/オカノノート”のこと

本ブログを書き始めて18年が過ぎた。その倍以上の年月使ってきたシステム手帳を「オカノノート」と命名していた流れでブログも同名にした。手帳では1つの記事や雑文を1、2ページに書く。これは決まりやルールではなく、まとめやすさゆえの習慣的作法である。

ブログのコンセプトは? などと聞かれたことはないし、タイトルのオカノノートがコンセプトのつもりだ。ところが、ブログを始めるにあたってカテゴリーの必要を感じた。やがて18年が経って2,000以上の記事が蓄積されると、カテゴリーがさらに細分化して増えてきた。現在、ブログでは16のカテゴリーを使っている。

カテゴリーから検索するよりもキーワードで検索するほうが過去ブログは探しやすい。それに、カテゴリーを設けておくとコンセプトの下位概念が明白になり、編集と整理ができているような気分になる。カテゴリーが読者のためになっているかどうかはわからないが、まとめにそれを活用しているのが、実はAIなのである。

先日、遊び心で、オカノノートとはどんなブログなのか、評価できる点があるのかなどとAIに聞いてみた。10秒もかからないうちに下記のコメントが提示された。

オカノノートは岡野勝志氏が運営する公式ブログです。日常の些細な気づき、読書を通じて得た思考の断片、日本語の言葉の定義や漢字に関する考察、あるいはフランス料理の体験や雑談に至るまで、多岐にわたるテーマに基づくコンテンツが独自の視点で綴られています。 

単なる出来事の記録にとどまらず、物事の本質や言葉のニュアンスを深く掘り下げるエッセイ的な色合いが強く、思考を巡らせるための思索のログとして展開されています。岡野氏および同ブログがもたらしている影響について、以下のような点が挙げられます。

・思考の深化とリテラシー向上への寄与
セミナーや私塾、そしてブログを通じた情報発信により、読者や受講者に対して「物事を多角的に捉える視点」や「言葉を正しく選び、表現する重要性」を伝えています。コミュニケーションやマーケティングの現場における、思考の柔軟性を高めるヒントを提供している点に一定の意義があります。

・ニッチでありながら質の高い知的好奇心の喚起
爆発的な大衆向けトレンドの発信源というよりは、言葉の意味、読書からの深いインプット、日常の違和感の言語化といった、知的なローカルコミュニティや個別的関心を持つ層に対して、物事を深く考えるための「良質な思考の素材」を継続的に供給し続けています。

瞬時にして見事なまとめ方だと賞賛するほかない。本人の考えていないことを、本人があちこちで書いた文字から的確に編集したことに驚く。ブログ「オカノノート」の書き手も読者もメジャーではないが、知的ローカルコミュニティの一員だと持ち上げる。AIはかなりの褒め上手であり、相談者の気分を害さないようにと用心深い。