知の編集をテーマに5回にわたって書いてみたい。2011年に主宰した私塾の〈知のリファレンス〉に加筆したもの。
類が友を呼ぶように、情報Aaと類似の情報Abは互いに引き合って一つになりやすい。他方、情報Xが異種の情報Yと結び付くことも稀ではない。いずれの場合も、そこに「もしかして一つにできるのではないか」という推論が働いている。その結果、新しい気づきやアイデアが生まれることがある。
新たに取り込んだ情報はアタマの中の知識と関係を結ぶ。但し、いつまでも続く固定的な関係ではない。なぜなら、そこにはさらに別の情報が入り込んでくるし、知識も陳腐化するからである。
したがって、編集はつねに形を変える。型に溺れずに、つねに新しい型を求めるのが編集の基本心得になる。固定された型は、新しい組み合わせを目指す編集の意図に反する。
関係性を見つける条件 まずは無制限に情報を欲張らないこと。現代人は大量情報収集という「もっと欲しい病」を多少なりとも患っている〔注1〕。この病は個々の情報を一過性の点として扱うような症状を示す。気がつけば、情報そのものの発信源である人間との関係が希薄になっていたりする。膨大な情報の中に「人」を感じ「縁」を感じなければならない。そのためには、人をある程度限定し、縁のタイムリー性を重視することだ。「人や情報の親疎感の見直し」と言ってもよい。編集とはおびただしい選択肢のうちの一つの意思決定である。潔くなければならない。
1 リチャード・ワーマンはインターネットが立ち上がった1989年頃に、すでに「自分の知識と世間のデータとのギャップが情報不安定をもたらす」と喝破した(『情報選択の時代』)。情報は追い掛けても追いつかないペースで膨張し、収集にはキリがないことがわかった。ゆえに、情報を選び組み合わせる編集力がものを言うのである。
孤独な情報 情報は群れる。ひとりぽっちを嫌う。もし情報に意識があるのなら、たしかにそう言えるかもしれない。しかし、むしろぼくたちの情報の取り扱いが稚拙だから、情報を孤立させてしまっているのではないか。線をいくつもの点に分解するよりも、点と点を結ぶほうが難しいのである。
ロース、カルビ、ハラミを盛り合わせにして提供するのは簡単だ。いずれも肉だからである。同種の情報は勝手に結びついてくれる。問題は異種情報の統合のほうだ。編集価値というのは異種が交わることによって高まる。ところで、異種情報関係には常識的なアタマではなじみにくい「ミスマッチ」がよく起こる。だから、最初から「これとあれは合わない」などと決めつけてはいけない〔注2〕。
2 異種融合によって生まれたモノや概念は、生起の時点でことごとくミスマッチのように見える。今ではぼくたちはトマトソースのスパゲッティを平然と食しているが、この習慣は17世紀になって初めてヨーロッパで広まったものだ。トマトの原産地はアンデス高原。そこから中央アメリカや北米に持ち込まれ、コロンブス以降16世紀にヨーロッパに移植されたのである。しかも、当時は観賞植物であって、食用ではなかった。
情報の関係をとらえる 情報編集の技術はおおむね情報処理能力に比例する。普段から大量に情報を扱っていれば、知のデータベースは膨らむものだ。三つや四つの断片情報をまとめるのに大した労力はいらない。しかし、情報処理とデータベースが貧相であれば、情報が一気に増えると手も足も出なくなる。
「あの学者は文献を調べて引用するだけだ」と批判する声をよく耳にするが、巧拙を別にすれば、引用しながら執筆するのは編集行為そのものである。何百もの既読本のメモ書きや引用カードなどを前にして、どのように自説に組み込むか、どの情報をどの章に配するかを考えるのは、実は大変な作業なのである〔注3〕。
人間どうしの関係を読む、看板と店の関係を読む、タイトルと内容の関係を読む、立場と意見の関係を読む。情報編集のスキルはこうした「関係の読み」を基本としている。
「知能とは、知覚された領域に潜む様々な対象の間の関係をとらえる能力のことである」というメルロ・ポンティのことばは意味深い。
3 中村雄二郎の『共通感覚論』を評する中で松岡正剛は次のように言っている。
「先駆者たちによって指摘されてきた共通感覚を、さて中村はどのように料理して、統合したか、まったく脱帽するほどに巧みな編集的説得力に富んでいた。だいたいこの人はよほどの編集哲学者なのである」。
中村雄二郎は、たしかに哲学という分野で画期的な編集をやり遂げてみせた。その著作において、見事なまでに引用や関連情報を適材適所的に配列したのである。知のクロスリファレンスに関しては当代随一と言っても過言ではないが、デスクの上で操作しているのではなく、記憶を通じて脳内インデックスを操っていたに違いない。
