夜明け前に東の空を眺める。まだ夜の帳は下りたまま。しばらくすると、白み始める。周囲の闇に明るさの階調がゆるやかに滲み出す。暗さと対比された仄かな光が、実際以上に明るく見える。暗さが残っていてこその夜明けだ。
直線ばかりが集まる所では、一本の直線はほとんど注意を引かない。直線は曲線に混じった時にひときわ強さを感じさせる。直線と曲線は明るさと暗さの対比に通じるところがある。
何でも肯定していると、一つ一つの肯定が薄っぺらになる。否定のフィルターがかかると、肯定の意味は鮮やかに浮き彫りになる。あることの肯定は、おおむね相反するものへの否定の裏返しだ。否定のない所では、肯定の真意を量りかねることがある。
誰かが、おもしろい話を聞いて笑った。その様子に何か不都合があるわけではないが、もし「おもしろいから笑った」などと口走りでもしたら、ちょっとがっかりしてしまう。「おもしろい→笑う」という、一見自然な導出ゆえに、逆にそこから先の展開が見えてこないのだ。当たり前の一言なのに、凡庸の異様さが空気を支配する。
「おもしろいから不安になった」とつぶやけばどうだろう。「おもしろすぎて涙が出た」と言うよりもずっと奇妙である。奇妙ゆえに一瞬意図が飲み込めない。ことばに裏切られてつながらない。だからこそ逆説的な新鮮味を覚える。そして一歩踏み込んで、語の連なりから生まれるところに関心を向けてみる。この逆説に実像が隠れている可能性を期待してはまずいだろうか。
実像を素直に再現するのは写実だけの専売特許ではない。接続詞の前と後がつながっても素直とは限らない。論理や常識を逸脱したように見えるデフォルメやアマノジャクが実像の扉をこじ開けるかもしれないのだ。ありそうもないことへの試みを経ないで「ありそうなこと」を肯定するのは、実像の一面に光を当てているにすぎない。想像力を怠けさせてはいけないのである。
「人間の構想力は、明るい光のもとよりも、暗がりのうちでしっかりと働くものだ」(イマヌエル・カント)
