
知人からメール。「私、携帯を変えました。ガラケーです。メッセンジャーは見れません」。
スマホからガラケーに変わった。変わったのは本人が変えたからである。携帯電話会社の仕業ではない。
さて、国語の基礎をおさらいをしておこう。「変わる」は自動詞で、「変える」が他動詞。「ライトアップの光の色が変わった」とつぶやくとする。因果関係的には誰かがスイッチを操作したから変わったのだろうが、関心はそこにはない。これに対して、「部屋の灯りをLEDに変えた」なら、自分が意図的にそうしたことを伝えている。その時、自分は傍観者ではなく、変えた当事者である。
時代は巡る。巡って変わる。世界は動く。動いて変わる。自分の意思とは関係なく時代と世界が変わり、釣られるようにして自分の生き方も変わる、いや、変わらざるをえない。自分以外の力で生き方が変えられることには抗えない。けれども、ほんの少しでいいから自発的に変わる余地を残したいと願う。知らないうちに生き方が変えられるのではなく、はっきりと自覚して生き方を変えたいのである。
生き方などと言うと、人生観や仕事観を連想しがちだが、そんな大それた話ばかりではない。トーストに塗るのをバターからジャムに変えることも、メガネや小銭入れを変えることも、なにげなくつつましやかながらも、どこかで生き方につながっている。自分の主体性を発揮して変化を起こしたいのなら、まずは暮らしの中の小さなモノや習慣を変えることから始めるのがいい。
歳をとると生き方が変えづらくなる。勝手知ったやり方に頑なにこだわる。それでもなお、意思と無関係に、変わらざるをえない場面に遭遇する。変えるのは面倒、今のままのほうが楽だ、しかし変えられてしまう。どうしたものか。ジレンマに苛まれるくらいなら、自らの生活の一部分を変えるほうがよほどましだろう。変えるという意思が生きていることを実感させてくれるからだ。日々小さな変化を自ら進んで取り入れる。それは臨機応変かつ軽やかに生きることと同義なのである。
私、髪形を変えました。
私、散歩道を変えました。
私、万年筆のインクを変えました。
私、人との付き合い方を変えました。
私、部屋の模様を変えました。
私、愛読書を変えました。
この程度のことを変えても、別に人生の根本が180度転回するわけではない。ほんのささやかな揺らぎ程度にすぎない。しかし、「私が何かを変える」という他動詞的意識を強く働かせるうちに、「私が変わる」という自動詞的行為が導かれる。「私、携帯を変えました」とぼくに伝えた知人、それによって本人がどう変わるのか。熱いまなざしで注目するつもりはないが、変化がどのように生活に波紋を起こしたのか、今度会う時に聞いてみようと思う。「スマホをガラケーに変えた日から、ガラケーで私が変わりました」と言うだろうか。