思いつくままに、春

❡ 岸辺のこの・・場所のこれ・・がこんな・・・色になると、もうすぐ春。経験上そうである。「どこの何がどんな色?」と詳しく聞かないでほしい。

❡ 2020年の今頃も、2021年の今頃も同じことを考えていた、春になったら「岡野のお喋りコラム」を始めようと。これまで書いてきたコラムが急に喋り出すようなトーク番組。世間一般のこと、時事トピックス、アートのこと、街のこと、本のことなどのお喋り。2022年の今年、春になったらできるのだろうか。

❡ いくつかの連想がつながって、ある歌に辿り着いた。そして記憶は十数年前まで遡った。ある分野の専門家たちが所属する某協会があり、その協会の事務局長から年間セミナーの企画とコーディネートを依頼された。会員は高額の年会費を納めていた。事務局長は紳士で、みんなに「局長」と呼ばれ親しまれていた。ただ、会費に見合った還元が十分にできておらず、不満を口にする会員もいた。

ある日、会員A、B、Cの3人と局長とぼくの5人で食事をした。食後、ほろ酔い気分のAが「カラオケスナックはどう?」と言い出した。場所を変えるだけで、誰も歌わないだろうと思っていたら、乾杯直後に常連客のAが歌い、隣席にマイクがリレーされた。Bが歌い、ぼくも歌うことになった。残る二人はCと局長。Cは自分に回ってきたマイクを局長に手渡す。歌が苦手そうな局長が無理やり歌わされた。

局長がマイクを置いた。Cが入れた曲のタイトルが画面に出てイントロが流れ始めた。夏木マリの『お手やわらかに』である。この歌をメンバー随一のエリートCが歌うとは……。何度も聞かされているBが「Cさんは、これを替え歌でやるんです」とぼくに耳打ちした。歌詞を目で追いながらCの歌を聴く。どんな替え歌に仕上がるのか。

♪ 私の負けよ お手やわらかに
今夜は逃げないわ
悪魔のようなあなたの腕に
抱かれるつもりなの

マジメに歌うのがおかしい。笑いをこらえる。でも元歌通りで、全然替え歌じゃない。

♪ 少々くやしい気もするけど
あなたにはとうとう落された
一年も二年もふったのに
こうしてつかまった

まだ元歌通りに歌ってる。どこで変化するのか。

♪ お手やわらかに お手やわらかに

まだ変化なし。歌はもう終わる……。

♪ 泥棒よ あなたは

Cは最後の「あなたは」を「局長」に替えて、「♪ 泥棒よ 局長」と歌った。ワンフレーズを入れ替えただけなのに、「会費泥棒の局長につかまったオレたちの悔しい思い」が何となく伝わってきた。

一人になってからの帰路、不思議なおかしさの余韻がずっと残っていた。「私の負けよ、お手やわらかに……真剣に聴いたのは初めてだが、なかなかいい曲じゃないか」と思った。季節はすでに春が告げられていたが、まだ少し肌寒さが残る三月だった。

味の表し方・伝え方

料理の話をした時に「どんな味だった?」と聞かれるのが一番困る。味を思い出しながらことばを選んでいるうちに、相手が焦れて「おいしかった?」と聞き直す。おいしかったら「おいしかった」と答える。情けない返事だがしかたがない。ところが、この返事に相手が納得顔することがある。儀礼で聞いているのだから、答えなんかどうだってよかったのだ。

「おいしい」で味が伝わるか。では、もっと具体的に「塩味が効いていた」とか「甘酸っぱい」とか言えば、相手が疑似体験できるのか。味や食感を事細かに説明することはできる(実際、ソムリエのワインの説明はかなり饒舌だ)。しかし、伝わるかどうかは別問題。個々の断片情報を統合して首尾よくイメージをつかんでくれる人はめったにいない。

食事処でドラマが展開する『孤独のグルメ』では、松重豊演じる主人公の井之頭五郎が一口食べるごとに〈内言語〉でつぶやく。「ほう、こう来たか……」とか「おー、スパイスが口の中で広がっていく……」というコメントの類が、食べる表情と相まって味のニュアンスをよく伝えてくれる。「おいしい」で済ましているのが恥ずかしくなる。


「パスタは3種類からお選びいただけます」とメニューに書いてあった。「シェフのおまかせショートパスタ」を選んだ。出てくるまでどんなパスタかわからない。出てきた。食料品店で見たことはあるが名前は知らない。もちろん初実食である。どんな味でどんな口当たりか……後日これを誰かに伝えるのは簡単ではない。

こういう時、味ではなく、似たものを持ち出すのがよい。「マカロニを縦に半分に切ったショートパスタ。ソースがよくからみ、マカロニよりももちっとしてやわらかい」。マカロニを持ち出すだけで伝えやすくなる。ちなみに、「マカロニを縦に半分に切ったパスタ」と入力して検索したら、Googleもピンときたようで、「スパッカテッレ」だと教えてくれた。

類似を持ち出すのは本居宣長おすすめの表現話法である。『玉かつま』の一節を引く。

すべて物の色、形、また事の心を言ひ諭さとすに、いかに詳しく言ひても、なほ定かにさとりがたきこと、常にあるわざなり。そは、その同じ類ひの物をあげて、その色に同じきぞ、何の形のごとくなるぞ、と言へば、言多からで、よくわかるるものなり。

「色や形や特徴をことごとく細々と説明するよりも、類似のものを挙げて色、形を見せればことば少なくしてよく伝わる」というようなことを書いている。写真で見せれば済むことが多いこの時代、対比できるものを一言添えるだけで写真以上のプラスアルファが伝わる。もちろん、類似のものを知っていることが前提。食の知もないよりはあるほうがいい。

創作小劇場『セミコロンとコロン』

某大学のある学生がエイゴの授業中、担当の助教にセミコロンとコロンの違いを尋ねたところ、その助教が「ほぼ同じだよ」と答えた。これが問題視され波紋が広がった。セミコロンとコロンをテーマにしたセミナーが企画された。

セミコロンとコロンが「ほぼ同じ」という発言が問題であるのなら、何が違っているのかを説明する必要がある。説明を申し出る関係者が現れず、また適任者も見つからなかった。残された切り札は一つ、〈文法書世界〉の権威であるセミコロン博士とコロン教授へのお願いだ。ノーを覚悟の上、辛抱強い交渉が続けられた。最終的にはノーがイエスに変わった。そして、セミナーが実現した。公開の場でお二人の肉声が流れたのは初めてのことである。セミナー冒頭の約10分をここに掲載する。


セミコロン(;)博士  セミコロンと申します。小生はカンマ(,)とピリオド(.)の役割を担う者です。しかしながら、カンマよりはやや強く、ピリオドよりはやや弱い立場だと自覚しています。敢えて言えば、機能はピリオドに近いかもしれません。

コロン(:)教授  ピリオドを二つ持つのでよくピリオドと間違われます。しかし、ピリオドの代わりに私を起用する場合は二つの文章が強く関連していることが条件になります。ピリオドのようでピリオドでないのが私の特徴。あ、申し遅れました、私の名はコロンです。

セミコロン(;)博士  小生も二つの文章をつなぎます。文章や比較的長めの句を、接続詞を使わずにつなぐことが多いです。たとえば、「今日はランチに出掛ける予定だ;何を食べるかはっきり決まっているわけではないが」という具合です。

コロン(:)教授  二文に絡む点では私も同じですが、概要を伝える前文を受け、その概要の要素を紹介する文章にリレーします。たとえば、「あのホテルのレストランは3種類のランチを提供している:和食と中華と洋食である」というのが一例です。

セミコロン(;)博士  今コロン教授が話した3つの単語が句になる場合があります。そして、それらの句の中ですでにカンマが使われていたら、句と句を区切る箇所にカンマを入れてしまうと紛らわしくなりますね。その時こそが小生の出番です。また、コロン教授の協力を得ることもあります。一例を示しましょう。「ランチの注文内容は次の通り:営業部、中華弁当5個;研究所、洋食弁当7個;役員、特製松花堂弁当4個」。

コロン(:)教授  セミコロン博士が示された例とやや似た機能が私にもあります。大きな概念を伝えたのちに、具体的な代表例を示すというパターンです。「残業のある日は少なからぬ社員が夜食の手配を希望する:昨夜は8人から申請があった」。

セミコロン(;)博士  文末が括弧で終わる文章が稀にあります。その時に小生がちょっと仕事します。こんな具合です。「彼女はプレゼント用にチョコレートを買った(高額のベルギー製商品);翌日、無事に彼に手渡すことができて幸せだった」。

コロン(:)教授  会話形式で話者のあとに台詞を続ける場合はたいてい私がいます。文献や証言を引用する時にも引用文の前に入ります。

T部長:近くにオープンしたピザ屋のランチがおいしいらしいね。
Y主任:一昨日行きましたよ。リーズナブルですしね。
T部長:一昨日の今日で悪いけど、付き合ってくれよ。おごるから。
Y主任:よろこんで。ピザは大好物ですからね。


【追記】 収録された元の音声はエイゴである。音声から書きおこした文章をニホンゴに訳出した。加えて、お二人の了解を得て、例文の一部をニホンゴ読者が理解しやすいように書き直している。なお、セミナーはこのあと約1時間続いた。「質問には答えない」というのが出席の条件だったので、セミナー終了直後に「ごきげんよう」と言うなり、セミコロン博士とコロン教授は謝礼も受け取らずに会場を後にした。おそらく〈文法書世界〉へ戻られたと思われる。

言い換えの実験

今となっては、「たらちねの」や「ぬばたまの」などの枕詞にほとんど出番はない。かと言って、死語になったわけではない。「正月にたらちねの・・・・・母に小遣いをあげた」とか「ぬばたまの・・・・・黒髪を失って櫛無用」などと、おどけたり冗談言ったりする使い道がある。ギャグやパロディなら古いことばでも生き残ることが可能だ。

使う人はいるが理解できない人もいるために、共有しづらいことばがある。たとえば、「土壁つちかべ」と言ったら、若い人に「それ、何?」と返されるというケース。また、今の実情に合わなくなった古いことばもある。たとえば、ほとんどの人がコーヒーを飲んでいるのに、「喫茶・店」は昔の呼び名のまま粘っている(「百貨店」もこの同類である)。

かつて頻繁に使われたことばがやがて絶滅危惧種となる。ついには意味も失って消えてしまう。ごく一部のことばは新しい表現を得て何とか生き延びる。「きみ、遅れているよ。響きも不自然だよ」と、時代と現実がことばにクレームをつける。こうして新語がいくつかの実験を経て、その時代に合う言い換えパラフレーズがおこなわれるようになる。


「土壁って何ですか?」と聞かれて、説明するのはたやすくない。苦しまぎれに「土塀どべい」と言い換えた。同じように「土塀って何ですか?」と聞かれる。「土を使って作る塀だよ」では説明になっていない。土壁を「竹の骨組みや瓦を挟むように土を塗り込んだ壁」と描写しても、その試みは空しい。土イコールearthアース、壁イコールwallウォールと英訳して「アースウォール」などとシャレても「地球の壁」になってしまう。土転じて泥沼と化す。

喫茶店のメニューが紅茶ではなくコーヒーが中心なら、カフェと言い換えるのがトレンドで、実際そういう店が増えた。しかし、今風の日本語に直すのは難しい。コーヒーショップなどと言ったら昭和に逆戻りだ。レトロの雰囲気を求めて「珈琲館」と言い換えれば、チェーン店になるし、時間を大正時代まで巻き戻してしまう。

コーヒーでのおもてなしなのに「粗茶でございますが……」には違和感を覚える。コーヒーなら「粗珈そかでございますが……」と言うべきだろう。しかし、「えっ、ソカ?」と怪訝な顔をされる。時代や現実に合った言い換えはむずかしい。いつか機会があれば、「はかなし煎じものにござりますが、あお・・によしブルー・・・マウンテンを召し上がれ」と実験してみようと思っている。もちろん出すのはブルーマウンテンもどきだ。

ランチ処の現実と空想

🍽  或る中華料理店

この店では昼でも夜メニューが注文できるが、おすすめランチ定食はおおむね5種類。隣りのテーブルに小太りの中年男が座り、悩んだ末に「ラーメン/半チャーハンセット」を注文した。こちらに一瞥してぼくが食べている「上海焼きそば定食」と天秤にかけたようである。

「上海焼きそば定食はめったにメニューに載らない。食べるなら今日だ。ラーメン/半チャーハンなら明日でもいい」。男は一度はそう考えたに違いない。だが、「もし初めての上海焼きそばにがっかりしたらどうしよう。もう二度と立ち直れず、ここへ来なくなるかもしれない」と男は不安になった。こうして、リスクを避けるために常連はいつものランチという安全策を選んだのに違いない。なお、この店の半チャーハンは他店の普通のチャーハンとほぼ同じ量である。男の小太りの原因の一つだと思われる。


🍽 或るスリランカ料理店

アンブラ、ダルバート、ミールス、タ―リーなど、インド/ネパール/スリランカ料理の違いが認識でき、これにビリヤニも加えて、メニューのローテーションが組めるようになった。十数店を巡った結果、行きつけの店も4、5店に絞れた。メニューと店のマトリックス表がかなり充実してきた。しかし、上には上がいる。カレー通が「碩学せきがく」に至るまでに費やす金と流す汗と試行錯誤のエネルギーの総量は、ランチタイムにうまいカレーを食べたいという程度のぼくの熱量をはるかに凌駕する。

老舗のスリランカカレーの店で見た二十代半ばの男を思い出す。当時、ぼくはアンブラ、ダルバート、ミールス、タ―リーの違いがよくわかっていなかった。男は席に着く前に厨房に向かって「アンブラ」と告げた。つぶやくような小声とスムーズな振る舞いが「通」を感じさせた。テーブルに運ばれたアンブラを横目で見た。まさか、こう来るとは……想像を超えていた。人が食べる料理がおいしそうに見えたら後日必ず注文する。それがぼくの流儀。

アンブラは三度景色を変える。一、バナナの皮に包まれて出てくるアンブラ。二、皮を開けると具材が整然と並ぶアンブラ。そして三、よく混ぜ合わされて美味なるカオスに化けるアンブラだ。どこの誰だか知らないが、朝昼晩にカレーを食べ続けてきた結果、あの男が出来上がったに違いない。店側を緊張させる雰囲気を漂わせる客だった。おそらく昨日のランチもアンブラ、そして今日のランチもアンブラだったのだろう。〈写真〉バナナの皮に包まれて出てくるアンブラ。初めて注文した者は皮を開けてそこに広がっている具の景色に目を見張る。


🍽 或る蕎麦屋

ざるそばでもかけそばでもトッピングし放題。特にワカメが無料というのがいい。但し、この店は重大な問題を抱えている。券売機がシニアにやさしくないのだ。たとえば、「ざるそば」ボタンを押し、数秒間戸惑ってから「大盛」ボタンを押すと、後者の分は支払処理されず発券もされない。両方を押したという情報はカウンター内にいる亭主には伝わっているらしく、「ざるそば」の券を出すと「お宅の大盛分の料金はここでもらうよ」と亭主が言う。操作に手間取って二つ目のボタンを押すのが遅くなると、券売機は二つ目のオーダーを受け付けないのだ。券売機トラブルがよく起こるこの店をぼくは「みずほ蕎麦」と呼んでいる。

語句の断章(31)惜敗率

冬季五輪のアイスホッケーの試合を観戦していた先週のこと。シュートが外れたり防がれたりするたびに解説者が「惜しい!」と叫ぶ。シュートは2、30本打って1本入るかどうかの確率だから、いちいち「惜しい!」と言ってるとキリがない。スポーツやその他の勝負事では、うまくいかなかったり負けたりする時はいつも惜しいのである。

小選挙区に適用される「惜敗率」の英語翻訳をチェックしてみた。どれも苦しまぎれの文章のような訳だった。簡潔でこなれた英語フレーズにならないのだから、わが国固有の発明と言ってよい。惜敗率について、少し説明をしておく。

ある小選挙区で最多得票した当選者の得票数を分母とし、敗れた候補者の得票数を分子とする計算式の率のこと。たとえば、当選者5万票の場合、4万票の落選者の惜敗率は80パーセント、1万票なら20パーセントになる。当選者が一人だけの小選挙区では僅差でも次点以下の候補者は全員落選になる。しかし、落選者が比例代表で重複立候補していれば、惜敗率次第では復活当選できるのである。上位の落選者を差し置いて、下位の落選者が復活することも稀にある。


惜敗とは言うものの、復活当選すれば負けたことにはならない。惜敗であろうと惨敗であろうと、ぼくたちの生きる社会では普通は「負けは負け」である。しかし、政治の世界では「負けるが勝ち」になる。勝つということが二重構造になっているわけだ。トーナメント形式のスポーツには一度に限って敗者復活戦のチャンスが与えられるものがある。しかし、プレーオフに出て勝つことが条件である。一方、惜敗率で救済される立候補者は再選挙無しに負けを勝ちにできる。

「善戦もむなしく惜敗」と称えられようが、スポーツの世界でも実社会でも負けである。ところが、国政選挙では「善戦」が「敗北」の事実よりも優先され、惜敗率というマジックで生き返る。前回の衆院選では惜敗率20パーセントの候補者が比例代表で復活した。惜敗ではなく大敗だったにもかかわらず。

惜敗率とは悪知恵である。敗・者の負け惜・しみが文字通り「惜敗」となって、どさくさまぎれで勝ち組になる抜け道にほかならない。この救済策を法律が担保している。

冬ごもらない暮らし

今住んでいる地域は都会度が高いので、手付かずの自然の風景に乏しい。乏しいが「まったくない」わけではない。よく目を凝らせば自然の断片を感じさせるような空間が所々にある。大阪の都心にいると「冷え冷えとして寒い」と嘆くことはめったになく、終日冬ごもることもない。冬ごもらない・・・・・・暮らしができる。

朝、部屋から西の空を眺める。窓越しだから窮屈で見通しにくい四角い視界である。建設ラッシュでタワーマンションが聳え立ち、空は年々狭くなっている。外に出ると視界が少し広がった。雲はマンションのはるか高くにある。その日に限って、流れ行くはずの雲が急いでいないように見えた。こっちの目線に付き合って留まっているようだった。

「雲を遏とどむ」という表現がある。流れてくる楽曲や歌声があまりにも美しいので、雲が聴き惚れてしまう。流れるのが当たり前の雲がしばしそこに留まるというのだ。雲にドビュッシーの『雲』を聴かせてみれば、はたして留まって耳を傾けるだろうか。


年末に父が他界し、今週末まで喪に服すことにしている。どなた様とも飲み食いはもちろん、雑談程度のお付き合いも控えてきた。かと言って、じっと自宅にこもり続けているわけではない。普通に仕事をしているし、休みの日には冬ごもりなどせずに1万歩、1万5千歩くらい街歩きをする。

川岸、公園、庭園、プロムナードなどは、一応わずかな自然と調和するように工夫されているように思う。緑の多い中之島公園やバラ園は近いのでよく行く。この時期、バラは一本も植えられていない。養生している芝生が青くなる頃にバラが一斉にここに移植される。バラの華やかな彩りもいいが、それぞれの花の色・形と名前の響きとの似合いをチェックするのもおもしろい。

花を愛でたら幹や枝にも目を配る。通りへ出て造形っぽい街路樹を眺める。何十年も街歩きして見慣れているはずなのに、これまで気づかなかった何かに気づく。と言うわけで、今年の1月、2月は例年に比べて寒いが、なるべく冬ごもらないで外に出る。自宅にいるよりは気づきも発見も多い。

仕事の合間の読み物

ここ一、二年、仕事がよく途切れる。コロナのせいで得意先がテレワークにシフトし、当初の段取り通りに仕事が進みにくくなった。予定していた作業ができず、チェックを待つ日が長くなり、手持ちぶさたの時間が増えた。しかたがないから、普段できない整理をしたり、ブログを書いたり本を読んだりする。

小説は、たとえ短編でも、仕事の合間の読書には向かない。間断なく読んでストーリーを追えてこその小説だ。途切れ途切れでは読んだ気がしない。もっとも、小説は30代半ばを最後にあまり読まなくなったので、自宅にいてもめったに手に取らない。1960年代から80年代までは、近代と現代の小説は、日本と欧米を中心に、中南米まで守備範囲を広げてよく読んだ。あらすじはほとんど覚えていない。

よく読んでいるのは随筆のほうである。一つの断片が数ページ程度なので拾い読みにちょうどよい。古典小説とはあまり相性がよくないが、『枕草子』『方丈記』『徒然草』の三大古典随筆は一応読んだ。あらすじなどというものはない。しかし、断片的に一節を記憶していたりする。


西洋にはパスカルの『パンセ』のような思想・哲学のエッセイもあるが、おおむね平易な文体で書かれるのが随筆だ。題材は風物の観察や身近な体験や見聞であり、著者が感じるまま、時に筆任せにしたためる。何か学んでやろうなどと意気込まなくてもよく、忘れて元々の気分で気楽に流し読みできる。

「意到筆随いとうひつずい」という四字熟語がある。「意到いいたって筆随ふでしたがう」と読み下す。あまり知られていないし、普通の辞書には収録されていない。詩文を作る時にあまり小難しく考えずに筆を運ぶという意味だ。著者は腕組みして時間をかけていない。心のおもむくままにすらすらと書いている。だから読み手もそんな波長に合わせて読めばいい。

以前、池波正太郎の『男の作法』と『男のリズム』をたまたま読み、その後、プロ並みの腕前の絵を添えた随筆がいろいろあるのを知った。池波の本はBOOK-OFFの100円コーナーによく出るので、見つけるたびに買い求めた。仕事の合間の読み物としては理想の本で、気づけば十数冊読んでいる。「随筆が気に入ったから小説も読もう」とは思わない。池波の小説は一冊も読んでいない。『雲霧仁左衛門』は知っている。NHKで観ているから。

今日は机の上に『東海林さだおアンソロジー  人間は哀れである』を置いている。時間が空く予定だったが、今しがた仕事が動き出した。

ぶん、ブン、分

その時々の心の状態や感じている様子を気分という。気分が良いとか悪いとか、気分が快いとか不快とか。つまらないことだが、なぜ「分」を付けるのか、気になっていた。

「○分」という二字熟語は書きだせばキリがないほどいくらでも思い起こせる。

一分いちぶ、五分ごぶ(五分五分というふうに使う)、八分はちぶ(村八分の意)。親分と子分で取分とりぶんが違う。自分の本分、身分や職分、それに性分しょうぶん。季節の区切りの春分と秋分。そうそう明日は節分。成分は水分、糖分、塩分。多分、当分はこのまま。大分だいぶに半分に幾分。細分しても寸分狂わない。微分に積分。昨年の今時分じぶんは何していた? 断捨離という処分。 

気分のように程度を表現する「分」がある。全体ではなくて一部を示す「分」がある。割り当てられるとか見合うという意味の「分」もある。分は「分ける」だし「分かる」でもある。捉えどころのない大きなものは小さく分ける。分けると分かりやすくなる。それ以上分けられなくなると、その先のことは分からなくなる。


一年をどのように区切るかで感じ方が一変するように、全体は同じなのに、分節のしかたが変われば違ったものに見えてくる。一本のダイコンやレンコンも一杯のタコやイカも、切り分け方で違ったものになる。

「ピザ1枚ください」
「切り分けは8ピースでよろしいですか?」
「8ピースだと多すぎて一人で食べ切れないから6ピースで」

お気に入りの小話だ。油断して聞き流すと納得してしまう。分けるとはナイフを入れてカットして食べやすいサイズにすること。何ピースにカットしようが、焼きあがったピザ1枚の大きさが変わるわけではない。しかし、「分」のマジックで全体が違って見える。

こんな話を書いているうちに、4種類のチーズで焼き上げるクワトロフォルマッジが食べたくなってきた。6ピースにカットしてもらい、各ピースを三口で品よく食べるとワインがうまくなる。

様々な食材に出合う

 

バルセロナはランブラス通りのボケリア市場。

今日はウサギの話。バルセロナのボケリア市場でそのまま吊るして売っていた。写真も撮っているが肉食観に劇的な影響を及ぼしかねないので、ここでは掲載しない。現地の子どもたちはその吊るしを見てもまったく平気だし、親が買って調理した肉をおいしく食べる。

スペインやフランスの市場に行くと、子豚も鴨もウサギも調理されずにそのままの形で売られている。ウサギは毛皮のまま後ろ足を結んで吊り下げられている。つまり、頭が下で耳が垂れた状態だ。処理された肉もあるが、ほとんど一羽売りだ。ペットとして飼われていたウサギではない。食用に飼育されたかなり大きなウサギで、「ラパン」と呼ばれている。ウシやブロイラーがそうであるように、ウサギもウマもハトも――食材になる動物はすべて――食用として肥育されているものだ。

小さい頃、「♪兎追いし彼の山 小鮒釣りし彼の川」というあの歌はまず耳で聞いた。意味もわからず、聞こえたまま「ウサギおいしい」と思った。食べたことがなかったが、おいしいと歌うのだからおいしいのだろうと思った。「こぶな」もまさか小鮒などとは想像がつかず、「昆布の何か」だろうと思っていた。


小学3年頃、ウサギを飼っていた。当時の大阪市内にはまだ田畑も残っており、その田畑を少しずつ埋め立てて新しい住宅が建ち始めていた。だから、家の前の畑のそばに小屋を作ってウサギを育てていた。首輪をつけて散歩もさせていた。ウサギの好物のオオバコはそこらじゅうに自生していた。

年末のある日、飼っていたウサギが消えた。親が「逃げた」とか「盗まれた」と言っていたので、いなくなったことはつらかったが受け入れた。数年後、今もウサギを常食している地方があることを知り、もしかして大人たちの胃袋に消えたのではないかと疑った。町内の誰かがさばいて、雑煮の具に使ったのではないかと。古来、ウサギをニワトリだと言って食べていた日本人だ、ぼくが可愛がっていたウサギが食材になっていたとしても不思議はない。

小学校の高学年ではウサギ狩りイベント付きの遠足があった。みんなで一斉にウサギを追って捕まえウサギ汁にしようというものだ。小山の下から上へ追いかけるので捕まらない。ウサギは前足が短く後ろ足が長いので、上るのは得意なのだ。結局一羽も獲れなかったが、ウサギ汁と称したそれらしきものが器に入って出てきた。事前に漁師が獲ったものという説明だった。ウサギ肉だったとすれば、あれが初めての実食になる。

スペインではウサギ肉はパエリアに使われる。パエリアは元々農家の料理なので、米と狩猟したウサギの肉をスープで炊き込むのは理にかなっている。想像以上に小骨が多い。東京のフランス料理店では野ウサギのソテーを食した。育てたラパンと違って、クセが強いのでニンニクやハーブが欠かせない。食感は地鶏などとさほど変わらない。

「ウサギを食べるなんて!」と言う人もいるが、そんなことを言い出せば、「ウシを、ブタを、ヒツジを、トリを食べるなんて!」と言わないといけないし、「回転寿司でサカナを食べるなんて!」とも言うべきだろう。魚を誰よりも深く愛するさかなクンは、魚の絵も上手に描くしおいしそうにきれいに食べる。食育の理想形だと思う。なお、好んでウサギを食べようとは思わない。せっかくこの地に来た、しかもたまたまメニューに載っている……これも何かの縁ではないかという感じで注文する。この時期ならイノシシもエゾシカもメニューにあればいただくことになる。