番狂わせへの期待

ブログを書いているくせに、あまりインターネットで検索しない。必要がある時はもっぱら各種辞典で調べている。従来から仕事の現場ではよほどのことがないかぎり調べない。仕事の一つである講演や研修の最中に調べていたら奇妙である。オフィスにいても同じことだと思う。仕事とはアウトプットすることにほかならない。調査が本業でもないかぎり、仕事中にインプットしているようでは修行が足りぬ。なので、めったに調べものをしない。辞書類や参考文献は自宅のほうが充実している。インプットは人目につかぬようにするものだろう。

「番狂わせ」の語源が気になった。四の五の言わずにウィキペディアを手繰れば書いてあるのかもしれないが、こういうことに関してぼくはいささか保守的である。知らないことについて調べるのだから、当然初見の情報に出くわす。知らないのだから信憑性を問える力も資格もない。がせねたに騙されるかもしれない。同じ騙されるのなら、匿名的ウィキペディアよりも編集責任者が明記されている辞典類のほうがましである。「ウィキペディアにこう書いてあった」と紹介して間違っていたら恥さらしだが、「広辞苑によれば」と言っておけば、仮に怪しげなことが後々に判明しても、岩波書店の責任にしてしまえばよい。

と言うわけで、気になった「番狂わせ」を広辞苑で引いてみた。「①予想外の出来事で順番の狂うこと。②勝負事で予想外の結果が出ること」とあった。この程度の定義なら想定内、わざわざ調べるまでもなかった。関心はこの表現の語源なのだが、他の辞書でも見当たらない。いまこうしてブログを書きながら、画面の上のほうのグーグルバーで検索したら、さぞかし諸説がぞろぞろ出てくるだろうとは思う。だが、触手を伸ばさない。知らなければ知らないでいいのだ。知らなければ、脳トレを兼ねて類推すればいい。

広辞苑にもあるように、番狂わせの「番」は「しかるべき順番や順位」のことだろう。つまり、その順通りであることが秩序(または正統)、その順が狂うことが混沌(または異端)。ちなみに、英語では混沌・混乱のことを“upset”と言うが、まさにこの「アップセット」が、試合やゲームでの予想外の敗戦や結果を意味している。番狂わせとは、正統派にとっては「あってはならないことが起こってしまうこと」であり、異端分子にとっては「絶対にありえない功を成し遂げてしまうこと」なのである。


勝つことを絶対視されている側が、番狂わせに期待を抱くはずがない。番狂わせを歓迎するのは、負けて当たり前の弱者、愉快・痛快を求める傍観者、あるいは秩序崩壊によって利に浴することができるギャンブラーたちである。先のワールドカップでの番狂わせと言えば、スイス対スペインの試合が真っ先に浮かぶ。シュート24本を乱れ打ちしたスペインが0-1で敗北したあの試合である。そのスペインが優勝したのだから、たしかに大番狂わせのレッテルは正しい。あの試合の前に「番狂わせはない」と言えば、それは疑いもなくスペインがスイスに「万有引力の法則」ほど確実に勝つことを意味したはずだ。しかし、リンゴは木から落ちずに空へと上がってしまった。

実は、番狂わせはぼくたちの想像以上によく起こっている。なぜなら順番や順位や優劣評価が本来ファジーだからである。あるサッカー通が言った、「サッカーというのはそういうゲームなんだ。他のスポーツに比べて、番狂わせが起こりやすい」と。先日の日本対アルゼンチンもそうだったのか。と同時に、基礎体力もなくシュートも打たなければ番狂わせはありえないだろうとぼくは思うのだ。実際、スペインの3分の1ではあるが、スイスは8本もシュートを打ったのだ。そのうちの一本が決まったという次第である。

実社会での仕事の場面はスポーツ以上に状況が複雑である。だから、番狂わせの頻度が高まる。しかし、サッカーの「基礎体力とシュート」に相当するものを決定的に欠く弱者に番狂わせは絶対にやってこない。この二つに相当する資質だけはつねに磨いておかねばならないのだ。言うまでもなく、この二つは職業ごとに異なる。

ところで、番狂わせの概念などまったく持ち合わせていない、冷徹な存在がいる。彼にとっては番狂わせも何もない。ただひたすら勝つべき者が勝つと予告する。何を隠そう、あのドイツのタコ「パウル君」のことである。

情報はなかなか「知」にならない

数えたことはないが、年間延べ何千人という人たちに話を聞いてもらう。「延べ」だから、ぼくの話を十回近く聴く人もいる。言うまでもなく、同じ話を十回も聴いてくれる落語ファンのような人はあまりいない。つまり、ぼくの話を十回聴く人は、十種類のテーマの話を聴いてくれている。「プロとはいえ、異なったテーマの話を準備して、いろんな対象に話をするのは大変でしょう」とねぎらっていただくことがあるが、聴くことに比べれば話すことなどまったく大変ではないと思っている。

アウトプットの前にインプットがある。記憶力の良し悪しが問われる前に「記憶したかどうか」が問われる。何もせずに表現上手などということはない。どこかで表現を仕入れていなければ上手にはなれない。人が何事かを成している前段階では必ず何事かの仕入れがある。そして、前段階なくして次の段階がありえないように、聴く(あるいは読む)という認知段階は知的創造力に決定的な影響を及ぼす。わかりやすく言えば、学ばなければ使えるようにはならないのである。


だが、インプットとアウトプットのこの法則はなかなか成立しない。なかなか成立しない関係を法則と称すること自体おかしな話だが、必ずしも矛盾ではない。法則というのは「ある一定の条件のもとならば、つねに成り立つ」ものだから、裏返せば、「ある一定の条件を満たさないと、成り立たない」ものであってもよい。「多種多量の情報は知力の源になる」――この法則が成立するためには、(1) 取り込まれた点情報どうしが対角線を結び、かつ(2) 推論という思考の洗礼を受けることが欠かせない。

理屈上、知力10の人が取り込める情報は10である。この傾向は加齢とともに色濃くなる。つまり、ぼくたちは自分の知力でわかる範囲の、都合のよい情報だけを選択するようになる。人の話を聴いても知っていることだけを聴く(これを確認と言う)、本を読んでも納得できることだけを読む(これを共感と言う)。つまり、知らないことやわからないことを拒絶しているのだ。

もうお気づきだろう。この論法だと、人は永久に進化できないことになる。情報や知を「ことば」に置き換えてみよう。生を受けた時点でのことばの数はゼロ。知力ゼロだから何を学んでもゼロということになる。しかし、実際、乳幼児はゼロをに、2に、24にというふうに累乗的に語彙を増やしていく。知力が10であっても、その倍の情報をどんどん取り込んでいく。ある年齢までは、情報に接すれば接するほど、よく身につき知になっていく。


生きることが関係しているから、必死に情報と情報を結びつける。行間を読み文脈を類推する。知っている5つの単語で一つの知らない単語をからめとって理解しようとする。これによって、先の法則が成り立つのである。ところが、こうした対角線を引き未知を推論する努力を怠るようになってくる。自分が出来上がったと錯覚するのだ。

結論から言うと、いい大人になって思考力が身についていないと、いくら学んで情報を取り込んでも知にはならないのである。先ほど年齢と関わると書いたが、ここで言う年齢とは思考年齢である。だから、二十代・三十代であっても、いくら勉強しても知が拡張しない症状は起こりうる。