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腕組みよりもペン
諺にはさまざまな含みがあるから、どんな場合にでも「その通り!」と納得するわけにはいかない。たとえば「下手な鉄砲も数打てば当たる」。このセオリーに一理を認めるものの、下手は何度やってもダメだろうとも思う。下手を少しでも改善してから場数を踏むほうがいいような気がする。
同じく「下手」を含む諺に「下手の考え休むに似たり」がある。これにも頷く時と首を傾げる時がある。大した知恵のない者が考えても時間ばかり経つだけだという意味だが、たしかに思い当たることが多い。しかし、それなら下手な者に思考は無用ということになってしまう。よく考えるよう努めれば下手が上手になることもあるのではないか。
ほとんどの諺に対して共感と反発が相半ばする。だが、一種の法則のように容認できる諺も、数は少ないが存在する。その一つが「案ずるより産むが易い」だ。あれこれと想像して心配するくらいなら、さっさと実際にやってみるほうが簡単だというこの教えは、他人を見ていてもぼく自身の経験を踏まえても、かなり信頼性の高い鉄則である。ただ残念なことに、とりとめのない時間が無駄に過ぎてしまった後に、この諺を思い出すことが多い。その時はたいてい手遅れになっている。
案ずると産む。案ずるがビフォーで産むがアフター。失敗したらどうしようと遅疑逡巡していても時間だけは過ぎていく。失敗しようが成功しようが決断を迫られた状況にあれば動くしかない。下手も上手も関係ない。考えてもしかたのない対象に執着せずに、その対象そのものを体験してみる。これは、〈莫妄想〉に通じる教訓である。
ニュアンスは若干変わるが、案ずると産むを「幻想と現実」や「計画と実行」などと読み替えてもよいだろう。ぼくは「腕組みとペン」に置き換えている。物事は考えてからおこなうものと思っている人が大勢いる。考えてから書くのもその一つだ。アイデアが浮かんでからそのアイデアを書き留めるというわけだ。しかし、考えたからといってアイデアは易々と浮かばない。ほとんどの場合、腕を組んだまま時間が過ぎていく。
一本のペンをハンマーのように重く感じることがある。いや、ペンを手に持つ気さえしないことがある。すぐ目の前の机の上の一枚の紙への距離がはるか彼方の遠景に見えることもある。そこへ辿り着こうとしても足腰が動いてくれない。やむなく腕を組んで、ひとまず考えようとする。しかし、実は、これが逆効果で、苦しさから逃れても重苦しさがやってくるだけ。産むよりも案ずるほうに逆流してしまうのだ。産むとは、軽やかにペンを握り颯爽と紙に向かうことである。そこに諄々と文字を書き連ね付箋紙の一片でも貼れば、脳が刺激を受ける。行き詰まったら「腕組みよりもペン」なのである。
文字にしてわかること
目を閉じて腕を組み考えている。傍からは考えているように見えるだろう。だが、目を開けて腕組みをほどくと、明瞭な考えを巡らしていた痕跡が何一つないことに気づく。何だか渺茫とした平原をあてもなくさまよってきたかのよう。つかみどころのないイメージはおびただしく現われては消え、消えては現われた。ことばの断片だって見えたり隠れたりもした。一部の語は響きもした。しかし、考えていたつもりのその時間のうちに豁然とした眺望が開けていたのではなかった――ということが後でわかる。
考えるということは雑念を払うことではない。むしろ、雑多なイメージや文字の群れを浮かばせては、その中に紛れ込み、そこから何かを拾い出して結んだり、ひょいとどこかへ飛び跳ねたりすることだろう。ぼくは沈思黙考という表現を好むが、現実の思考にはそんな落ち着いた趣はない。もちろん瞑想とはさらに距離が隔たる。雑念を払おうとする瞑想は、ものを考えるという行為の対極に位置すると言ってもよい。
考えているプロセスは、実はぼくたちにはよくわかっていない。また、考えたことと紙の上に書いていることはまったくイコールではないのである。腕を組んで考えたことのある部分は漏れこぼしているし、いざ書き始めたら考えもしていなかったことを綴っていたりする。考えたことを書いていると思っているほど、考えたことと書いていることが連動しているのだろうか。むしろ、書いている今こそが考えている時間であり、次から次へと現われる文字の群れが思考を誘発している気さえする。
あることばや漢字がなぜこのように綴られ発音されているのかが急に気になり出すことがある。さっきまでふつうに使っていたのに、ふと「ぬ」という文字が変に見えてきたり、「唐辛子」が人の名前のように異化してきたりする(「変」という文字が変に見えてくる話を以前書いた)。今朝は「一」が気になり、これを「いち」と読むことがさらに気になり、その一に「人」や「品」や「点」や「匹」がつくことがとても奇妙に思えてきた。それで、目こそ閉じはしなかったが、ぼんやりと「一」について考えていたのである。
ふと我に返れば、まっとうなことを考えてなどいなかったことがわかった。考えているつもりの大半が「ぼんやり時間」なのだろうと思う。試みにノートを取り出して「一人」と適当に書けば、何となくその文字に触発されて「一人でも多くの人」という表現が浮かんだので、そう書いた。そして、「一人でも多くの人に読んでほしいと語る著者の本心が、一人でも多くの人に買ってほしいであったりする。読まれなくても買ってもらいさえすればいいという本心。では、ぼくたちは、一人でも多くの人に本心からどうしてほしいと思い、どうしてあげようと思っているのか。明文化は一筋縄では行かない」と続けた。
ペンを持って紙の上を走らせるまではそんなこと考えてもいなかった。いや、考えていたかもしれないが、言語的には何一つ明快ではなかった。おそらく、「一」という対象に意識が向けられて、かつて考えたり知ったり経験したりした脳内のことばやイメージが起動したのだろう。そして、リアルタイムで書き、その書いている行為がリアルタイムで考えを形作ったと思われる。「下手の考え休むに似たり」に通じるが、文字化せずに考える時間は凡人にとっては無駄に終わる。とりあえず書く。書くという行為は考えるという行為の明快バージョンと見なすべきかもしれない。