イタリア紀行32 「その名も美しい樹木」

アルベロベッロⅠ

アドリア海に面するプーリア州は、イタリア半島のアキレス腱から踵の部分にかけて細長く横たわっている。ここではオリーブ畑とぶどう畑が台地を埋め尽くす。オリーブもワイン用のぶどうも少雨と荒地には強い。このプーリア州にあって一番の観光名所になっているのが世界遺産アルベロベッロだ。アルベロ(Albero)は「木、樹木」、ベッロ(bello)は「美しい、すばらしい」。くっつけると「美しい樹木」という意味になる。

美しいかどうかの感じ方は人それぞれだろうが、たしかに広場や住居の所々に樹木は見える。ところが、地名の由来云々よりも、旅人は独特の形状をした住居群に尋常ではない好奇心を示す。円錐状にとんがった屋根がおびただしく立ち並ぶ光景を遠目に眺めると、まるで樹木が密生する林のように見えてくる。アルベロベッロを紹介する文章のほとんどは「不思議な街」や「お伽の国」という表現を使う。まったくその通りだが、映画やイベントのためにわざわざこしらえたのではないかと錯覚してしまいそうだ。

不思議の屋根をもつ住宅は街中に密集しているが、バスで街に近づく道中もオリーブやぶどう畑の丘陵地に同じ形状の農家が点在している。円錐形ドームを乗せたワンルームの建物はトゥルッロ(trullo)と呼ばれる。部屋が二つ以上になると複数形でトゥルッリ(trulli)という一軒の民家になる。石の建築文化としては特異の存在である。なにしろ良質な石灰岩が豊富に掘り出せるので、住居にもふんだんに石材を使える。しかも、すごいのは、切り出した石をモルタルやセメントを使わず、ただ積み上げるだけの構造なのである。

こんなスタイルの住宅はいったいどこからやって来たのか? 「メソポタミアあるいは北アフリカからクレタ、ギリシアを経て南イタリアに伝わったとする説が有力で、実際、語源的にも〈trullo〉はギリシア語の「ドームをもつ円形の建物」を表わす“tholos”に由来するとされる」(陣内秀信『南イタリアへ!』)。かと言って、起源は古代まで遡るわけではなく、16世紀半ば以降に発展してきたらしい。 

なお、このイタリア紀行はまだ続くが、これまで不十分な描写も多々あったかもしれない。今回のプーリア州について関心があればイタリア政府観光局のサイトをご覧いただきたい。そのついでに、他州にアクセスすれば、これまで取り上げた都市についても詳しく知ることもできる。

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アルベロベッロ市街へのバスからの光景。オリーブ畑が延々と続く。
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やがてトゥルッリの小集落や農家がぽつぽつと見えてくる。
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あちこちに切り石がぶっきらぼうに積んであったりする。
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遠景にアルベロベッロの街が浮かんでくると、まるで玩具の街のような奇妙な印象を受ける。
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人々が生活する地区、アイア・ピッコラ(「小さな麦打ち場」という意味)。
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屋根が積んであるだけとはにわかに信じがたい。
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アイア・ピッコラはおおよそ東西250m、南北200mの地区で400のトゥルッリがある。
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観光ルートにはなっておらず、住宅地を見て歩くという感覚である。
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アイア・ピッコラ地区から見渡す、もう一つのトゥルッリ集落、モンティ地区。
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ドームの屋根の先端にはピナーコロという小尖塔がついている。様々なデザインがあり、それぞれの家を象徴している。

イタリア紀行31 「肩肘張らない世界遺産」

フェッラーラⅡ

「次回のイタリア紀行はどこですか?」 一ヵ月ほど前、この紀行が一週間とんでしまった時にある人に尋ねられた。「フェッラーラのつもりだけど……」と答えた。なぜ「だけど……」かと言うと、フェッラーラのネガフィルムがデジタル変換できておらず、間に合うかどうかわからなかったからだ。案の定、一週間空いてしまった。おまけに、取り上げたのはフェッラーラではなく、ピサのほうであった。

尋ねた彼はフェッラーラの場所をよく知らなかったが、「あ、『フェッラーラ物語』という映画がありましたよね」と、さもぼくがその映画を知っているかのようにことばをつないだ。イタリア紀行などというものを書いているものの、さほどのイタリア情報通ではない。まず映画そのものをあまり見ない。イタリア映画もよく見逃している。1987年の映画で彼自身がストーリーをほとんど覚えていない。調べてみた。『フェラーラ物語 / 金縁の眼鏡』というタイトルである。あらすじだけからの想像だが、この映画を観てからフェッラーラを訪ねていたら、だいぶ印象が変わっていたに違いない。観ていなくてよかったし、今から観たいという気分にもならない。いつも思うことだが、旅の予備知識はあるほうがいいのかなくてもいいのか、あるほうがいいのなら多いほうがいいのか少なくてもいいのか……実に悩ましい。

悩ましいと言えば、海外地名の表記だ。“Ferrara”を「フェラーラ」と表記するか、本ブログのように「フェラーラ」とするかの選択に悩む。上記の映画の邦題もウィキペディアでも「フェラーラ」だが、手元のガイドブックをはじめ専門書や紀行文では「フェッラーラ」が多いのでそれに従った。イタリア語では同じアルファベットが二つ連続するときは、直前の音に「小さなツ」をくっつけて拗音化すると現実の発音に近くなる。“Ferrara”“rr” なので、直前の “Fe” を「フェ」と発音する。“Cavallo” (馬)は「カヴァロ」、“Spaghetti” は「スパゲティ」になる。

この日は月曜日だった。カテドラーレや広場はまずまずの賑わいを見せていた。ここは自転車の街と聞いていたし、駅前でも溢れんばかりの台数を目撃していた通り、歩行と走行が入り混じる。しかし、中心からほんの少し離れてちょっと横道に入ると一気に閑静な趣に変わる。時折り颯爽と通り過ぎていく自転車。身のこなしがかっこよく見えるのは、舞台装置のせいか。

これまでの紀行で繰り返し「中世の面影」や「時代の香り」や「文化の名残り」をはじめ、これらに類する表現を多用してきた。そういうことばをこのフェッラーラに流用できないこともない。しかし、「ルネサンス期の市街とポー川デルタ地帯」が世界遺産登録されているフェッラーラに「古色蒼然」は感じられない。ここは古代色や中世色の濃厚な他のイタリア都市とは違って、近世的に洗練されている印象を受ける。そして、それが現代にも連なっていて、肩肘を張らない日常生活光景と上手に共生しているように思われる。いい街――それは“decente”という形容詞が近かった。「ほどよく抑制のきいた」というニュアンスである。 《フェッラーラ完》

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実に落ち着いた街路の遠近感ある構図が気に入った。
fe (9).JPGのサムネール画像
通りごとに道の色合いが微妙に変わる。
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鉄道駅までの帰路で現れた豪邸。かつての貴族の館か。
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しゃれたバール、さりげなくしつらえられた路肩。
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エステンセ城から南へほんの100メートル歩くと、トレント・トリエステ広場に出る。
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市庁舎、大聖堂、ドゥオーモ美術館が建ち並ぶ。
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なんともゆったりした広場の石畳を人が歩き自転車が自由に走る。
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大聖堂のファサードはロマネスクとゴシック様式が混在するデザイン。教会の軒下を利用して商店が並んでいる。

イタリア紀行30 「 ルネサンス期の宮廷都市」

フェッラーラⅠ

2004年の欧州紀行ではややハードな旅程を組んだ。関西空港からオーストリア航空を使い、ウィーンに2泊、空路ローマへ向かい2泊。次いで、ペルージャ(1泊)、フィレンツェ(4泊)、ボローニャ(3泊)へと鉄道の旅。復路はボローニャからウィーン、そして関西空港へ。機内を含めて13泊。フィレンツェ滞在中にシエナとピサへ日帰り旅行した。今回のフェッラーラへはボローニャ滞在中に出掛けた。フェッラーラはボローニャからはとても便利で、ヴェネツィア方面に列車で半時間ちょっとの立地。

当時知人がローマに住んでいた。在住30年の日本人男性である。その彼が親切にも全旅程のホテルを予約してくれた。ローマで彼に会い、お礼にランチをご馳走させてもらった。その後に向かうフィレンツェのお薦めレストランやシエナの情報も教えてくれた。ついでとばかりに、ボローニャ近郊の日帰り旅行について尋ねてみた。「パルマかフェッラーラのどちらかに行くつもりにしている。どちらがいいだろうか?」

生ハムのブランド「クラッテロ」やパルメザンチーズで世界に名を馳せるパルマに以前から心を動かされていた。しかし、機内でガイドブックをめくり読みしているうちに、パルマの知名度の足元に及びもしないフェッラーラに、無知ゆえの好奇心が芽生え始めていた。知人はまったく逡巡することなく、「二択ならフェッラーラですよ。いい街です」と答えた。この即答で行き先は決まった。

「すごい」に類する感嘆とは無縁だったが、知人の言う通りいい街だった。しかし、さらりと「いい街」と言ってのけられる街などそんなに多くはない。ルネサンスはフィレンツェの専売特許のようによく語られる。だが、フィレンツェにメディチ家というパトロンがいたように、当時のイタリアの他の都市にもそれぞれ有力者がいて独自のルネサンス文化の発展を支えていた。フェッラーラにはエステ家が1264年から1597年まで300年以上君臨していた。

「最もルネサンス的な都市と言われているのは、フェッラーラ公国であって、フィレンツェではない」と『イタリア・ルネサンス』(澤井繁男著)には書かれている。さらに、同書はスイスの歴史家ブルクハルトの言も引用して、「フェッラーラがヨーロッパ最初の近代的な都市」とも付け加える。帰国してから知ったことだが、「いい街」は「どえらい街」だったことがわかり、そぞろ歩きと軽めのランチをしてさっさとボローニャに帰ってきたのが惜しくなった。二都を追いかけると必ず心残りのツケが回ってくる。

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何の変哲もない駅前光景。おびただしい自転車が目立つ。
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市街へのカヴール通りは並木道。
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無限回廊を思わせる城内の通路。
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エステ家の居城「エステンセ城」。現在は市庁舎。堀に囲まれ4本の塔が建つ。
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柱の装飾。「ご苦労さま」と声を掛けたくなる。
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レストランでラヴィオリを食べながら騎馬像を見る。
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道幅の広い街の中心街では、人と自転車が忙しく行き交う。

イタリア紀行29 「揺るぎないブランド」

ピサⅡ

どんなにありきたりな連想であっても、ピサと言えばやはり斜塔なのである。それは、パリと言えばエッフェル塔であり凱旋門であるように、あるいはローマと言えばコロッセオでありトレビの泉であるように、たとえ御上りさんとからかわれようと、やむをえない観念連合なのだ。日光の東照宮、奈良の大仏も同様である。

マルチタレントでありながら、一芸に秀でると他の一流の芸が陰に隠れてしまって機会を損失する。有名観光地にはこんな贅沢な悩みがつきまとう。傾いた一本の塔のせいで、観光客は一時代を画した海洋都市の側面に、あるいはヨーロッパでも名立たる学園都市の側面に目をやるのを忘れる。何を隠そう、このぼくがそんな典型的な旅人だった。フィレンツェ発の列車に乗り遅れて1時間ロスしたとか、雨が強くて歩けなかったとか、いろいろ言い分もあるが、何をさしおいても「斜塔さえ見ておけば」という心理が働いていたのは事実である。

ジェノバやヴェネツィアの海軍に勝利したほどのピサだ。世界最強とまで謳われた海洋都市の名残が街の随所で見られるらしい。それらのことごとくをぼくは見逃している。また、ピサは大学の街でもある。ボローニャ大学(1088年)やパリ大学(1100年代)よりも時代は下るが、1343年にピサ大学は創立されている。ガリレオ・ガリレイは17歳で入学し、25歳の時に母校で数学の教鞭を執り始めた。

トスカーナの都市の写真をふんだんに掲載しているガイドがある。その中のピサのページを見るたびに、鉄道駅と斜塔の往復にバスを使ったのを悔やんでしまう。混みあったバスの車窓から垣間見るだけでわくわくしたのも事実だ。だが、歩くべきだった。旅の記憶は脳だけではなく、足底から身体全身にも刻んでおかなければならない。そう痛切に思う。

最後にミラコリ広場の建造物の話に戻る。あの広場、そして洗礼堂、大聖堂、鐘楼のある斜塔の配置は当時のピサの格と富裕度を如実に示している。これまで取り上げてきたシエナのゴシック建築やフィレンツェのルネサンス建築と並んで、「ピサ様式」は建築の世界に独自の地位を築いた。最先端の建築・土木技術によって傾斜する世界遺産が保たれているが、あと三百年は大丈夫との推定だ。珍しくもピサでは斜塔にも市庁舎の塔にも登らなかった。多種多様な都市の断面に触れていない分、傾く斜塔が目に焼き付いている。 《ピサ完》

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城壁跡が残るミラコリ広場。
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同じく広場の別の一角には土産の屋台が立ち並ぶ。すべての土産物が 斜塔をモチーフにしていることは言うまでもない。
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土産店で買った、手のひらに乗るサイズのミニチュア。どこででも売っているキーホルダーよりましだと思った。この時以来、行く先々でこの種の模型を買うことにしている。もちろん、この模型の距離関係はでたらめである。
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ドゥオーモ(大聖堂)。右後方に斜塔、左側に離れて礼拝堂がある。実物はもっと白っぽいが、雨でグレーに変色して見える。
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斜塔は撮影場所によっては威風堂々、真っ直ぐに立つ。
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小雨の合間に広場周辺の街角を足早に巡る。

pisa (26).JPGバス通りから眺める礼拝堂。後景に歴史、前景に現在というこの構図がとても気に入っていた。後日、その理由の一つが判明した。
「過去=背景」「現在と未来=前面」という関係が成立している。時間と空間の関係が常識に適(かな)っているのである。こうした状況に置かれたとき、私たちは、「美」や「落ち着き」「居心地のよさ」を感じるのではないだろうか。 (民岡順朗著『「絵になる」まちをつくる  イタリアに学ぶ都市再生』)
街が絵になる決め手はキャンバスにあり。「歴史のキャンバス」と「可変の現在」の組み合わせが価値を生むのだ。

イタリア紀行28 「傾斜角3.97度の実感」

ピサⅠ

田舎からやってきて都会にたまげるのが「御上おのぼりさん」。だから、御上りさんということばは、大都会の大阪からトスカーナの人口9万人弱の街を訪ねる人間には、本来なら当てはまらない。

しかし、都会度を示す指数は人口だけではない。ぼくの知るかぎり、イタリアの人口10万都市よりも日本の人口5万都市のほうがはるかに都会度が高い。つまり、ほとんどの日本人観光客の目には、イタリアの有名観光地は「こぢんまりとしたアコースティックな街」に映っていなければならない。にもかかわらず、日本人の誰もが小さなイタリアの街にあって御上りさん気分にさせられてしまうのはどういうわけか。

たしかに、絵葉書や書籍などで見慣れた名所旧跡を眼前にして御上りさんに変身していくことがある。その名所旧跡に入ると、魔法にかけられたように中世やルネサンス期にタイムスリップしてしまう。そして、いったん時代を遡ってしまうと、イタリアの街は歴史的に成熟した都会に見えてくる。ピサもそんな街の一つだ。そのうえ、ここには見覚えあるすごいのが建っているのだ。驚嘆の声を発したのち、斜塔を支えるポーズで写真に収まりたくなる御上りさんの気持はよくわかる。

残念ながら、ぼくが撮った写真に人間と斜塔のお茶目なコラージュはない。当時は大ぶりの一眼レフを愛用していたし、おまけにその日は強めの雨が降っていた。数年ぶりにアルバムを見たら、被写体のバリエーションの少ないこと! 撮り収めた写真のうち半分が斜塔ではないか。やっぱり御上りさんと化していたようだ。

バスで10分くらいのところだったらいくらでも歩く。鉄道駅からピサの斜塔までもちょうどバスで10分。だが、バスに乗るともったいないほど、雰囲気のある道すがらの市街地だ。「どこかで見た覚えのある川だ」と思ったら、それがフレンツェを上流にするアルノ川。もう一本、セルキオ川がここに合流して、リグリア海につながる。ピサは海に面した街であり、古来から軍事的・商業的海洋都市としての映えある歴史が長い。

フィレンツェから列車でピサへ向かったその日、イタリア滞在通算20数日目にして初めて経験する雨だった。駅で降りてバスを待った。あいにくの雨、バスもやむをえない。不安そうにぼくの前を行き来する夫婦。夫のほうが「このバス停はタワー行きか?」と英語で尋ねてきた。「タワー」、もちろん「斜塔」のことを言っている(塔はイタリア語では「トーレ」という)。こっちだって、初めて来た街、待っているバス停が正解という確信などない。が、不思議なものだ、自分より不安そうな異国の人が聞いてくると、結構自信が湧いてくる。「ええ、ここです。ぼくも乗ります」と答える。十数分後、無事ドゥオーモ広場前に到着した。

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ピサーノ親子が設計に携わった洗礼堂。少し先の斜塔の影響で撮影の構えが斜めになっている。
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初めて見る実物だが、見慣れた懐かしさがこみ上げる。
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荘厳な大聖堂内部。10世紀のパレルモ海戦の戦利品で装飾されている。
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斜塔に登るつもりも、塔内見学は一回40人ずつ。1時間以上の待ち時間を告げられあきらめた。洗礼堂のドーム上部へ上がり、雨中の大聖堂と斜塔を眺める。
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想像以上に傾いている斜塔。釣られてカメラも傾くので、実際の傾斜角3.97度の倍くらいに思える。脳が錯覚を修正しようとしてざわめき、少し乗り物酔いしたような気分になる。

イタリア紀行27 「歴史が描き出す風景」

ベルガモⅡ

この街を訪れた前年に、ベルガモが生んだガエターノ・ドニゼッティ (1797-1848)の歌劇 “L’Elisir d’amore” (愛の妙薬)を偶然にもCDで聴いた。また同時期にNHKラジオイタリア語講座でも歌詞を読んでいた。少しは親近感があったわけである。CDではアディーナという娘に心を寄せるネモリーノを偉大なテノール歌手ホセ・カレーラスが演じている。このオペラの舞台はバスク地方の村で、北イタリアの都市とは関係がない。さきほど久々に聴いてみた。ベルガモにも合っているような気がしたが、もちろん勝手な連想である。 

風景というのは地形がつくり出す。しかし、自然に任せた地形だけなら、ぼくたちが目にする風景はさほど変化に富むことはないだろう。塔に登れば地上とは異なるパノラマが広がる。見えざる地形を塔が人為的に演出してくれるのだ。同じように、城塞や城壁跡の遊歩道は歴史が置き忘れていった風景を描き出す。ベルガモがヴェネツィア共和国に支配されていなかったら、城塞は生まれなかったかもしれない。すると、ベルガモの小高いチッタ・アルタの街もきっと別の姿に見えたに違いない。

「ベルガモは偏屈な街である。よそものにひどくよそよそしい。あんまりよそよそしいのでかえって面白い。住むとなると大変だろうが、よそよそしさを味わいに訪れてみるのも見聞を広めるのにいいと思う」(田中千世子『イタリア・都市の歩き方』)。こんなベルガモ人像があるらしい。これはイタリア人全般、とりわけ店舗の女性スタッフには当てはまる気がする。イタリア人には陽気で愛想がいいというイメージがつきまとうが、意外に人見知りをするというのがぼくの印象だ。

しかし、塔に登るまでに会話を交わしたベルガモ人は、フレンドリーで饒舌なまでに親切だった。レストランで給仕をしてくれた女性と、塔の下で切符を売っていたおじいさんだ。さらに塔から下りてきて、コッレオーニ礼拝堂を地上から眺めて以降も何人かのベルガモの人たちと接点があったが、誰一人としてよそよそしくなかった。むしろ街全体が気位の高いよそよそしさを感じさせるのかもしれない。

小高い丘に繰り広げる颯爽とした風景を歴史が刻んだように、ベルガモの凛とした空気も都市国家興亡の歴史の残り香に違いない。 《ベルガモ完》

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博物館で買った4枚綴りの絵はがき。中央のドニゼッティとゆかりの人物が一枚に一人配されている。
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地上から見上げると別の圧倒感で迫るコッレオーニ礼拝堂。白とピンクの大理石をふんだんに使ったファサードが見事。
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建物の玄関や柱の台などに見られる獅子の像。獅子はヴェネツィア共和国の象徴。ベルガモが1428年以来ヴェネツィアに支配されていた証である。
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しばし歩を止めて歴史が描く風景のノスタルジーに浸ってみる。
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地形に沿って蛇が這うようにくねる城壁の曲線。眼下にはベルガモのもう一つの顔、チッタ・バッサの街並みが見える。

イタリア紀行26 「遊歩が似合う小高い丘」

ベルガモⅠ

ミラノの次にどの都市を取り上げるか思案しているうちに二週間が過ぎた。いや、正確に言うと、だいたい決めていたのだが、候補の街に出掛けた当時、ぼくはまだデジカメを使っていなかった。その街について書いて写真を添えるには、まずカラーネガフィルムをスキャナで読み込まねばならない。だが、写真の取り込みに想像以上の時間がかかってしまった。簡単だろうと思っていたが、上下左右反転になったりで手間取った。

ようやく画像変換でき、いざ書き始めようと思ったら気が変わり、ミラノ滞在中に訪れたベルガモを取り上げることにした。ベルガモは2006年に旅したのでデジカメで収めている。実は、この紀行をシリーズで書き始める前に、スローフードというテーマで一度ベルガモを取り上げた。名所の固有名詞も知らず、しかも半日観光しただけなのに、帰国してから妙にイメージが育ち始め、思い出すたびにゆったりした気分になる。写真とメモと現地版のガイドブックを照合させながら回顧しているとつい最近旅したような錯覚に陥ってしまう。

ベルガモはミラノから北東へ列車で約1時間。列車はベルガモ・バッサのエリアに着く。バッサ(Bassa)は「低い」という意味。この丘の麓は近代の風情である。そこからバスとケーブルカーを乗り継げば小高い丘のベルガモ・アルタへ(Altaは「高い」)。ここが中世からルネサンス期にかけて繁栄したエリアだ。時間があれば、バッサとアルタの両方を比較しながら徘徊すれば楽しいに違いない。「多忙な旅人」ゆえ、一目散にアルタへ。着いてしばらくの間はたしかに早足気味だったが、ゆっくりランチの後は刻まれる時間のスピードが減速した。

ベルガモ・アルタは城壁に囲まれているが、南北1キロメートル、東西2キロメートルとこじんまりしていて迷うことはない。ローマ時代にできたと伝えられるゴンビト通りをまっすぐ行けばヴェッキア広場。建物一つをはさんでドゥオーモ広場。二つの広場を囲むようにラジョーネ宮、市の塔、図書館、コッレオーニ礼拝堂、サンタ・マリア・マッジョーレ教会が建つ。軽度の高所恐怖症ながら塔を見れば必ず登るのがぼくの習性。塔の入口でチケットを買う。窓口のやさしい老人曰く「セット券になっているから、いろいろ見学できる」と言う。その「いろいろ」がうろ覚えだし、いくら払ったのかも覚えていない。

塔からの景観を眺めたあとは、もうガイドブックには目もくれず足の向くまま遊歩した。オペラの作曲家ガエターノ・ドニゼッティの生まれ故郷であることくらいは知っていたが、それ以外はほとんど知識も持ち合わせず、迷う心配のない城壁沿いを歩き城塞を見たり歴史博物館に入ったり。知名度の高い街に行くと、知識に基づいて名所を追体験的に巡ってしまう。もちろんそれも旅に欠かせないが、知識不十分の状態で視覚的体験から入ると自分なりの「名所」が見えてくるものだ。それらの名所を後日調べてみる。その名所がマイナーであれば追跡調査は不可能であるが、写真の光景と、そこに居合わせた事実はほとんど記憶に残っている。

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ベルガモ・バッサの鉄道駅からバスに乗る。雨上がりのベルガモ・アルタの丘は霞んでいる。バッサの市街地はこのように道幅も広く交通量も多い。
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ケーブルカーでアルタへ。『フニクリ・フニクラ』〈Funiculi funicula〉は19世紀のイタリアで生まれたケーブルカーで山を登るときの歌。
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ゴンビト通りを歩く人はみんなゆっくり。全長300メートル、急ぐこともない。決して賑やかではないが、風情のある店が立ち並ぶ。
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ヴェッキア広場のアンジェロ・マイ図書館。
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塔に登るときにセットで購入した歴史博物館の入場チケット。
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ラジョーネ宮に隣接する塔。耐震性的にはきわめて不安な構造のように思いつつ階段を登った。
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晴れ間が出てきた街の景観。
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ロマネスク様式のサンタ・マリア・マジョーレ教会は12世紀の建築。手前のドームの建物はコッレオーニ礼拝堂。
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礼拝堂の全体像。大理石の嵌め込み模様や彫刻がしっかりと施されている。

イタリア紀行25 「天才の本領ここにあり」

ミラノⅣ

現地の3時間ツアー(50ユーロ)に参加すれば、『最後の晩餐』を見学できることを知ったのは後日のこと。事前予約していれば8ユーロだから、恐ろしいほど割高になる。名画を見そびれたのは残念だが、想定内でもあり、やむなし。とは言え、来た道をそのまま引き返すのも芸がない。サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会から南に数百メートルの『レオナルド・ダ・ヴィンチ記念国立科学技術博物館』に行ってみることにした。これは想定外の行動である。

多才なレオナルドの創案になる機械仕掛けの模型やゆかりの品々が数多く展示されている。モナ・リザや最後の晩餐に見るレオナルドもいいが、マルチタレントにこそレオナルドの本領が発揮されている――そんな印象を強くした。展示品と同程度にわくわくしたのは、博物館の構造。広々とした回廊や地下通路もあり、階上へ階下へ行き来し中庭にも出てみる。見学順もよくわからずまるで迷路のよう。ガイドブックによれば、11世紀の僧院の建物を極力生かす趣向を凝らしているそうだ。

中高生にとってこの博物館は格好の学習教材ゆえ、課外授業の団体が目立つ。さっきまで中庭でタバコをふかしていた男子が、展示を説明する先生に耳を傾けてノートを取っているのは不思議な光景だ。日本ならタバコを吸う高校一年生が社会見学中にノートを取るなどありえないだろう。ちなみに、イタリアでは16歳になれば喫煙はオーケーである。しかし、健康増進法によりレストランや公共の場での禁煙は浸透し、大人の間では一箱800円以上もするタバコ離れが進んでいる。

展示を見ているぼくのところに数人の男子学生が近づいてきて、「日本人?」と尋ねる。うなずくと、一人の少年が別の少年をくるりと半回転させてTシャツの背中を見せた。「これは日本語? どういう意味?」と聞く。そこには筆文字で「少年」と書いてある。イタリア語で少年は、“bimbo” “bambino” “ragazzo”と三種類くらいの言い方がある。目の前にいる156歳の少年にはragazzo(ラガッツォ)がふさわしいが、わざと幼児っぽいほうを告げてやった。「それはね、bambino(バンビーノ)だよ」。仲間は爆笑し、みんなでTシャツの男子を「バンビーノ、バンビーノ」とからかった。

そのあと迂回して、地下鉄なら一駅ちょっとの距離を歩いてスフォルツァ城へ向かった。スフォルツァ家の居城でありミラノ公国を象徴する要塞である。レオナルドもこの城の建築に関わったという。

ミラノに4泊したものの、丸二日間はベルガモとルガーノへ出掛けたので、見逃した名所・名画は数知れず。初日にとんでもないイタメシを食わされたが、二日目、四日目と夕食で訪れたSabatini(サバティーニ)には大いに満足した。二度とも給仕してくれたのは初老のアンジェロ。二度目に行くと名前も覚えてくれていた。レオナルドの最後の晩餐は拝めなかったが、ミラノ最終日の晩餐は極上の時間となった。 《ミラノ完》

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元僧院というだけあって落ち着いた佇まいの博物館。
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ひっそりとした地下展示通路は人気もまばら。ここならシャッターは切りやすそう。というわけで馬車の実物大模型を撮影。
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近代だが、自転車のセピア感は十分。前輪にもスタンドがついているのがおもしろい。レオナルドゆかりなのか単なる近代技術の紹介かはわからない。
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スフォルツァ城の前門。四方のすべてがしっかりと堅牢な城壁で囲まれている。1466年に完成。 
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スフォルツァ城の北西には広大なセンピオーネ公園が広がる。
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城内から見る壁。人と比較すればその高さがわかる。
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ミラノでの「最後の晩餐」に選んだ前菜。二十種類を越える料理からワンプレート分、好きなだけ盛り付ける。

イタリア紀行24 「レオナルド・ダ・ヴィンチ」

ミラノⅢ

数年前の横綱格ほどではないにしても、ここ十年ほどイタリア観光は人気番付の上位をキープしている。少し下火にはなったが、タレントを起用したイタリア都市を探訪するテレビ番組も相変わらずだ。ちなみに、日本のみならず世界で一番人気の国はフランス、都市はパリである。

そのパリでもいいし、ウィーン、フランクフルト、アムステルダムを経由すれば、主要なイタリアの都市へ行ける。しかし、関西発で直行できるイタリアの都市はミラノのみだ。したがって、ほとんどのパッケージツアーはミラノ→ヴェネツィア→フィレンツェ→ローマという順になり、帰路もミラノ発となる。ところで、ミラノを東京に類比する人がいるが、ぼくにはそうは見えない。やや派手めのファッション、下町のカフェにたむろするヤンキー風のお兄さん、建物や壁の落書き、服飾・繊維産業などから大阪市を連想してしまう。実際、ミラノと大阪市は姉妹都市の関係にある。

ルネサンスの主役であり歴史上の大天才であるレオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)。私生児説もあるが、幼少の頃に実父セル・ピエロ・ダ・ヴィンチに引き取られた事実があるので、正しくは「婚外児」と言うべきだ。わが国ではレオナルド・ダ・ヴィンチのことを「ダ・ヴィンチ」と言うが、イタリアでは苗字での呼称は稀で、ふつうは「レオナルド」と呼ぶ。「ダ・ヴィンチ」はもともと「ヴィンチ村の」を意味し、やがて前置詞と固有名詞が一体化して「ダ・ヴィンチ」という家名になったようである。

レオナルド・ダ・ヴィンチゆかりの街をフィレンツェと決めつけてはいけない。ここミラノも同程度に縁が深い。フィレンツェで思うような活躍ができなかったレオナルドは30歳の頃ミラノへと旅立った。当時のミラノはスフォルツァ公が君臨して活力があった。この地のサンタ・マリア・デッレ・グラティエ教会でレオナルドは1497年の45歳の時に『最後の晩餐』を完成させる。ジェノヴァ出身のイタリア人コロンブスがアメリカ大陸を発見したのがその5年前である。

前々回にも書いたが、この年の仏伊紀行では当初ミラノに滞在する予定はなく、『最後の晩餐』鑑賞の予約はしていなかった。団体ツアーなら予約の手配などしなくてもいいが、個人の場合は何から何まで自分で手続きをしなければならない。予約をしていないからたぶんダメだろうと心得ながらも、観光のシーズンオフだし、万に一つの幸運を授かるかもと淡い期待をかけていた。ドゥオーモ前のカフェでエスプレッソを飲み、店のスタッフに聞いてみた。「レオナルドの最後の晩餐を見たい。ここから教会へは歩けるか?」 ご機嫌な顔をして彼は「ああ、レオナルドの絵。歩いても半時間もかからない」と言い、指を示しながら道筋を教えてくれた。

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ドゥオーモ前のカフェで道をたずねたが、教わったほど簡単ではなかった。路面電車に沿い西へと歩く。
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広場をいくつか横目にし、建物を見ながらぶらぶら。
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さほど迷わずに、やがてマジェンタ大通りに入る。
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赤茶色のクーポラ。これがサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会だった。
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この建物が『最後の晩餐』への入口であり受付。「三ヵ月後なら予約できるわ」と呆れ顔で告げられた。 
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心残りながらも、教会の建物と壁色を存分に眺めてから帰る。

イタリア紀行23 「ドゥオーモ――象徴の象徴」

ミラノⅡ

それぞれの都市には本山のようなポジションを占める大聖堂がある。これをドゥオーモ(Duomo)と呼ぶ。イタリア全土にはそう呼ばれる教会が百十いくつかある。スタンプラリーをしたわけではないが、数えてみたら、これまで17カ所の街のドゥオーモを訪れていたことがわかった。

すでに紹介したシエナ、フィレンツェ、オルヴィエートのいずれにもドゥオーモがある。それぞれに荘厳で華麗だ。しかし、スケールにおいて、このミラノのドゥオーモの右に出る大聖堂は他のイタリア都市には見当たらない。いや、それどころではない。これは世界最大のゴシック建築でもあるのだ。1813年に完成するまでに要した年月は気の遠くなるような5世紀! 室町時代の初めから江戸時代末期まで建設していたことになる。

ミラノを象徴するものはいろいろある。前回のヴィットリオ・エマヌエーレⅡ世の名を冠したガッレリアもその一つだが、レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』を擁するサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会やミラノ公国時代から残るスフォルツァ城もある。食ではリゾットとカツレツが有名だ。世界の三大ファッションであるミラノ・コレクションに、サッカーのACミランにインテル。ローマのコンドッティ通りをはるかにしのぐブランド街は数本の通りに集中する。だが、ドゥオーモはこれらの名立たる象徴の上座を占める。ミラノの「イメージ収支」がマイナスのぼくではあるが、ドゥオーモの存在には土下座するしかない。

ドゥオーモは工事中だった。屋上にもエレベータか階段で昇れるが、見送った。2001年には屋上から尖塔を目の当たりにした。ちなみに尖塔の数は135本。次いで、ミラノ市街地からアルプス連峰まで眺望した。ミラノはロンバルディア州の州都で、イタリアではほぼ最北に位置する。スイス国境に近いので、よく晴れた日にはアルプスが見えるわけだ。

ミラノはローマに次ぐ大都市で、人口130万人。地下鉄網はローマよりも充実している。大都市とは言うものの、中心市街地に様々な機能が密集しているので便利だ。たとえばミラノ中央駅からドゥオーモまでは直線距離にして2.5キロメートル。ドゥオーモからサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会までは2キロメートルほどなので、行きも帰りも歩いた。健脚なら有名スポットへは難なく確実に歩ける。ミラノにかぎらず、イタリアの都市はすべて、日本人の感覚からすればコンパクトにできている。

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ファサードは長期修復工事中(200610月当時)。鋭い尖塔がゴシックの特徴。
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モザイクの紋様が床を彩る。
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聖堂内は荘厳な空気で満ちている。
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ドゥオーモは真下から見上げて良し。
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見る場所・角度によって形状を変える巨大なオブジェ。ミラノ随一の象徴だ。
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ミラノ風料理の象徴、巨大なカツレツ。以前ローマで食べた一品とは別物だった。脂身の少ない赤身のビーフなので胃にもたれない。口当たりはまろやか。