イタリア紀行29 「揺るぎないブランド」

ピサⅡ

どんなにありきたりな連想であっても、ピサと言えばやはり斜塔なのである。それは、パリと言えばエッフェル塔であり凱旋門であるように、あるいはローマと言えばコロッセオでありトレビの泉であるように、たとえ御上りさんとからかわれようと、やむをえない観念連合なのだ。日光の東照宮、奈良の大仏も同様である。

マルチタレントでありながら、一芸に秀でると他の一流の芸が陰に隠れてしまって機会を損失する。有名観光地にはこんな贅沢な悩みがつきまとう。傾いた一本の塔のせいで、観光客は一時代を画した海洋都市の側面に、あるいはヨーロッパでも名立たる学園都市の側面に目をやるのを忘れる。何を隠そう、このぼくがそんな典型的な旅人だった。フィレンツェ発の列車に乗り遅れて1時間ロスしたとか、雨が強くて歩けなかったとか、いろいろ言い分もあるが、何をさしおいても「斜塔さえ見ておけば」という心理が働いていたのは事実である。

ジェノバやヴェネツィアの海軍に勝利したほどのピサだ。世界最強とまで謳われた海洋都市の名残が街の随所で見られるらしい。それらのことごとくをぼくは見逃している。また、ピサは大学の街でもある。ボローニャ大学(1088年)やパリ大学(1100年代)よりも時代は下るが、1343年にピサ大学は創立されている。ガリレオ・ガリレイは17歳で入学し、25歳の時に母校で数学の教鞭を執り始めた。

トスカーナの都市の写真をふんだんに掲載しているガイドがある。その中のピサのページを見るたびに、鉄道駅と斜塔の往復にバスを使ったのを悔やんでしまう。混みあったバスの車窓から垣間見るだけでわくわくしたのも事実だ。だが、歩くべきだった。旅の記憶は脳だけではなく、足底から身体全身にも刻んでおかなければならない。そう痛切に思う。

最後にミラコリ広場の建造物の話に戻る。あの広場、そして洗礼堂、大聖堂、鐘楼のある斜塔の配置は当時のピサの格と富裕度を如実に示している。これまで取り上げてきたシエナのゴシック建築やフィレンツェのルネサンス建築と並んで、「ピサ様式」は建築の世界に独自の地位を築いた。最先端の建築・土木技術によって傾斜する世界遺産が保たれているが、あと三百年は大丈夫との推定だ。珍しくもピサでは斜塔にも市庁舎の塔にも登らなかった。多種多様な都市の断面に触れていない分、傾く斜塔が目に焼き付いている。 《ピサ完》

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城壁跡が残るミラコリ広場。
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同じく広場の別の一角には土産の屋台が立ち並ぶ。すべての土産物が 斜塔をモチーフにしていることは言うまでもない。
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土産店で買った、手のひらに乗るサイズのミニチュア。どこででも売っているキーホルダーよりましだと思った。この時以来、行く先々でこの種の模型を買うことにしている。もちろん、この模型の距離関係はでたらめである。
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ドゥオーモ(大聖堂)。右後方に斜塔、左側に離れて礼拝堂がある。実物はもっと白っぽいが、雨でグレーに変色して見える。
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斜塔は撮影場所によっては威風堂々、真っ直ぐに立つ。
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小雨の合間に広場周辺の街角を足早に巡る。

pisa (26).JPGバス通りから眺める礼拝堂。後景に歴史、前景に現在というこの構図がとても気に入っていた。後日、その理由の一つが判明した。
「過去=背景」「現在と未来=前面」という関係が成立している。時間と空間の関係が常識に適(かな)っているのである。こうした状況に置かれたとき、私たちは、「美」や「落ち着き」「居心地のよさ」を感じるのではないだろうか。 (民岡順朗著『「絵になる」まちをつくる  イタリアに学ぶ都市再生』)
街が絵になる決め手はキャンバスにあり。「歴史のキャンバス」と「可変の現在」の組み合わせが価値を生むのだ。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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