古代の健啖家たち

恒例の古本の初買い。置き場のことを考えれば慎まねばならないのだが、7冊買ってしまった。飲み食いが活発になる年末年始にぴったりの一冊は『シーザーの晩餐 西洋古代飲食綺譚』。実に凄まじい本である。

シーザーにまつわるエピソードなどわずかだが、巧妙に題名を選んだものだ。「古代の晩餐」よりはよほど読む気がそそられる。ともあれ、この本は古代ローマ人の食習慣と古代ギリシア人の食生活をかなり深く掘り下げている。

これまでにこの種の本を何冊か読んでいるが、一般庶民の食生活よりも富裕層の健啖ぶりに紙数が割かれる。そのほうが読者は度肝を抜かれる。ローマ人が饗宴で食べていたものを一覧すると、美食とゲテモノが交錯しているのがわかる。珍奇なる食と言うべきか。

ローマ人は今の日本人と同じく、タレのかかった鰻の蒲焼やマグロを食べていた。牡蠣も養殖して生食していたこともわかっている。肉類や昆虫はほぼ何でも食べていた。クジャク、カタツムリ、ヤマネ、ガチョウのフォアグラ、イヌ、ネズミ、セミ、イナゴ、アオムシ、イノシシ、シカ、ウサギ、タヌキ、ゾウ、ライオン、ラクダ……列挙したらきりがない。


牛肉よりは豚肉を好んだ。一度に一頭しか産まない牛よりは豚のほうが安く手に入ったからだ。醤油もちゃんとあった。しょっつるのような、「ガルム」と呼ばれる魚醤がそれ。調味料のレベルは料理のレベルに等しい。当時手に入るかぎりの食材と調味料で美味珍味を追求したのだが、食性の広さは現代の比ではなかったように思われる。

宴会と言えば、「卵に始まりリンゴに終わる」というのが常識だった。卵料理だけで20くらいあり、鶏卵のみならず、クジャクの卵も使った。卵の次にはレタス、オリーブ、ざくろ、桃を銀の皿に盛り付け、そこにヤマネの丸焼きを乗せる。蜂蜜とカラシがまぶしてあったそうだ。次いで、蟹、大海老、ザリガニの肉団子等々。以上が第1のコース、つまり饗宴の序章なのだから開いた口がふさがらない。ふさがらない口へと料理が次から次へと運ばれる。

ところで、ヤマネはリスやネズミのような小動物だ。これを人工的に繁殖させていたのだから、ローマ人の健啖には欠かせない珍味だった。素焼きの壺の中で数匹を飼う。運動不足の状態にしてクルミやドングリをしこたま与えて肥らせた。ヤマネという響きだけでも異様だが、今でもその食習慣が引き継がれている地域があるらしい。

ローマ人が食べた珍味で経験した食材が二つある。一つはザリガニ。広島産の養殖ザリガニをフランス料理で経験した。もう一つはフィレンツェのレストランで注文したコロッケ。肉には豚の乳房のミンチが使われていた。言われなければ素材が何かはわからない。おそらく、ローマ人も同じだったろう。彼らは食材の「名前」を食べていたのである。そして、たぶん、現代のぼくらも名前によって味覚を確かめている。

面倒くさい諸事

面倒くさがりの建築家は耐震性データをごまかす。かつて鉄骨を何本か抜いた男もいた。
調味料の加減が見た目アバウトな料理人がいるが、別に面倒くさがってはいない。一流の料理人はめったなことでは面倒くさがらない。

面倒くさがりの内科医は許容範囲だが、面倒くさがりの外科医はご免こうむる。少々頭が悪くてもいいから、手先が器用でマメできめ細かいのがありがたい。

雷が鳴って雨が降りそうな気配。そんな夕刻に急な客が遠方よりやって来た。急というのは自分の都合が奪われることを意味する。それだけでは済まない。時刻が時刻だ、食事に誘わざるをえない。

「おお、久しぶり。どう、焼鳥にでも行く?」と言ってはみるが、その言い方がかなり面倒くさそうだと自覚する。

ちょっと勉強すれば修士や博士にはなれるが、勉強だけでは紳士にはなれない。年代物のスーツ、蔵書、万年筆、ユーモア、話術、知性、教養、コモンセンス等々が必須である。もしロンドンで紳士になろうとするなら、これにどもる口調と暇とこうもり傘を足さねばならない。紳士になるのは面倒くさいのである。

「二十歳前後はどんなことをしていたのですか?」と、おそらく愛想で聞いてきた。これは困った質問であり、もし真面目に答えるならかなり面倒くさいことになる。と言うわけで、次のように返事しておいた。

「その頃はよく詩を作っていたなあ。十九歳の時に書いた詩集を読んでみるかい? 恵まれない天才が紡ぐ言葉の金糸、まるで魔法がかかったような文字列を?」 
「ええ、機会があったらぜひ!」
尋ねたくせに、幕引きが早い。

几帳面な禿とルーズな禿がいる。几帳面な禿には禿としての矜持があり、全体構想が緻密である。てっぺんからつま先まで細部に配慮して禿をケアし、メンテし、見せようとする。カツラなどもってのほかだ。

頭部だけで何とかしようとする禿は面倒くさがりである。面倒くさがりだからカツラという一発勝負に出る。そして、ずれる、むれる、ばれるという三重苦を背負う。

積極的引きこもり

引きこもりは1990年代に社会問題化して現在に至る。社会問題化してからは、自宅・自室に閉じこもり、外界や他人と接点を持たずに孤立的生活を続ける意味になった。しかし、引きこもるという選択はいつも消極的とはかぎらない。

外出して歩けば何かが見える。世間や他人と交われば何かを学ぶ。しかし、そうしなければ何も見えず何も学べないわけではない。一時的であるなら、引きこもりには外出や交わりとは別の何かが見えるし学べるはずである。


台風21号に続いて24号である。少なく見積もっても同程度の被害が予想されるという。21号の日はオフィスで仕事をしていた。昼過ぎにさっさと帰宅して安全を期した。数時間後だったら暴風雨に削ぎ飛ばされた枝木を見舞われていたかもしれない。

自宅であれ避難所であれ、今日は積極的引きこもりが消去法的選択肢である。晴耕雨読に倣って本を読む。駄文を書く「雨書」でも、音楽を聴く「雨聴」でもいい。その代わり、次の晴天日には倍働くことにしよう。

ところで、わが国の平均雨天日は年間約120日。三日に一度読書できれば御の字だ。但し、降雨の地域差があるため、北陸では180日の雨読日があるが、広島のそれはわずか85日である。晴耕雨読説が正しければ、読書量が2倍以上違うことになる。

〈白〉の時間

青については少々饒舌気味にこれまで語ってきた。気温34℃の今日の昼下がり、〈白〉が浮かび上がる。机の上にずしりと置かれた広辞苑を繰る。「しろ【白】」の項の筆頭に「太陽の光線をあらゆる波長にわたって一様に反射することによって見える色」という説明が出てくる。

「あらゆる」とか「一様に反射」などと言われると、さっき歩いてきた道すがらの眩しさがよみがえる。脳が暑さを思い出す。しかし、広辞苑は、語釈の後に「雪のような色」と言わずもがなの形容を付け足す。これで相殺できるというわけか。

ここ数日間、ノートは「何も書いたり加工したりしていない」。これも〈白〉だという。何もないことが〈白〉。頭がパニックになることを「頭が真っ黒になった」とは言わない。気が動転しことばを失う時、「頭が真っ白になった」と言う。


オフィスの冷蔵庫にはいただきものの白ワインがある。ボトルを立てるスペース不足のため、一段目の棚に寝かせてある。よく冷えている。ふだん頻繁な来客が、この暑さのせいでここ半月めっきり減った。夕刻の訪問者はもしかするとこの白にありつけるかもしれない。

盆休み中のオフィスは静寂そのものだ。白い椅子に腰かけて順番待ちの本を拾い読む。拾い読みでないと、長蛇の列が続いてさばききれない。拾い読みだけして、熟読の要ありと判断した本は横にのけておく。

まったくノイズのない環境は、逆に落ち着かない。iTunesに取り込んでおいたCDの音楽を新しいiPadにインストールして流す。三局目に流れたのは『マルシェの白い熊』。ヨーロッパのどこかの市場――と言っても、都会のそれではなく、小さな街か村のマルシェ――を勝手にイメージする。メロディラインがその雰囲気にぴったり。

曲が流れると本読みに集中できない。今日もまた無為に半日が過ぎるのか……。白旗を上げる前にささやかな抵抗を試みる。それがこの一文。〈白〉という、あまり縁のないテーマだが、数日ぶりに白いページが埋まった。

サンドイッチの昼

ランチに外出するのも危険な酷暑が続く。外気の狂気に殺気がみなぎる。即席ラーメンや焼きそばが3分で出来上がるように、3分も歩けば茹で脳ミソの一丁上がり。昨日と一昨日は外気に1分触れるのが限界だった。幸い、出張先の建物の目と鼻の先にサンドイッチを売りにしたカフェがあり、二日連続通った。

一昨日頬張ったのはハムとチーズのサンドイッチ。サイドメニューにオニオンリングとハッシュドポテトを付けた。これにアイスコーヒー。際立った特徴があったわけではないが、妙に心身が安らいだ。「出張で来ているんですが、明日も来ます」と勘定時に告げれば、「お待ちしています」と女性オーナー。


言ったことは実行するなどと肩肘は張らないが、素朴に気に入ったので昨日もドアを開けた。オーナーは当然覚えているから、メニューを差し出しながら「今日はいかがしましょうか?」と尋ねる。にわか常連気分。メンチカツとチーズのハンバーガーを指名した。サイドメニューはポテトサラダとブロッコリーサラダ。飲み物はやっぱりアイスコーヒー。一昨日は一昨日の、昨日は昨日のそれぞれの違った満足。いいランチタイムが過ごせた。

「今日お帰りですか?」
「ええ」(後ろ髪引かれながらとは言わない)
「またお願いします」
「”また”があれば一年後に……」と言って店を出た。

二日連続の一期一会。サンドイッチとハンバーガーが真昼間の灼熱を鎮めてくれた二日間。出先で味わえる日常感覚は貴重である。

雨読にならない日

仕事が一段落したので窓外に目をやる。雨は降っては止み、止んだと思えば降り始める。明らかに断続的なのだが、徐々に雨の途切れる時間が短くなっているようだ。仕事場を離れてもいいのだが、何をするにも気分が中途半端。本を読むにもコーヒーを飲むにも時間が中途半端。

外に出て雨中を歩いてわざわざ足元を濡らすこともない。どうせ帰宅途上で濡れる。いや、この時間ならではの何かが見え何かに気づくかもしれない。いやいや、ここに引きこもっていても見慣れた何かが目新しく見え、外では気づかない何かに気づくかもしれない。引きこもりにも意味がある。


ローマのカンピドリオ広場を思い出す。強い雨の降る日、コロッセオからフォロロマーノの遺跡を辿り、カンピドリオの丘に上がった。丘と呼べるほどの標高でない空間に広場がある。幾何学的な白線の模様が印象的だった。ミケランジェロの手になるこの広場の敷石の濡れようは不思議にして神妙だった。雨に映えるためには人工物の器量、度量、技量が欠かせない。

さて、駄文を綴っている間に時刻は午後5時を回った。エアコン25℃設定。エコモードでもないのに、軽く息をつきづらいほど室内が蒸している。夕暮れになる前に退散するか……。赤みのない、どんよりとした灰褐色の西空を憐れみながら帰るとするか……。

雨の日に気分を愉快に変えるのはたやすくない。数分間でも雨読しようと本棚から一冊取り出してページを繰ってみる。お気に入りのジョークなのに少しもおもしろくない。笑おうと前向きになれば、なおいっそう愉快が遠ざかる。ユーモアの神は傘を持たずに出掛け、どこかで雨宿りしているのだろうか。

ハンコ売りのおじさん

忘れた頃にやって来るおじさんがいた。大阪の北摂から来ている、と言っていた。来るのは年に一、二度。おじさんは「ハンコ屋です」と言って入って来るのだが、実はハンコ屋ではなくハンコ売りである。おじさんがハンコを彫っているのではない。パンフレットを見せて注文を取るだけである。

いったん会社を創業したらツゲや水牛や象牙の社印や銀行印を作り直すことはまずない。ぼくの会社の印鑑も31年前の創業時のまま。個人にしても、成人はほとんど実印をすでに所有している。認印を除けば、よほどのことがないかぎり実印は一生ものだ。

おじさんはハンコの話にさほど熱心ではなく、むしろ自分が描く絵を見せたがった。誰の目にも素人絵だとわかる代物。色紙に描いた水墨画や達磨図を鞄に入れていて、十数枚取り出して見せる。色紙の裏には2000-とか1500-とかの数字が鉛筆で書かれていて、おじさんは素人なのに売る気満々なのである。


何度も会話を交わしているので、おじさんはぼくが趣味で絵を描くことも消しゴム篆刻をしていることも当然知っている。作品を見せてくれと言うから、オフィスに置いていたのをいくつか見せた。見せればえらく感動するのだが、他人の作品に関心があるはずもない。話をすぐに自作に戻す。

ある日、まったくぼくの趣味に合わない色紙をあげると言い出した。いや、もらうわけにはいかないと返せば、では預けておくと言い換える。要するに、ハンコが売れないご時世に自分の作品を売り込みたいのである。人情に辛い人間ではないから、やむなく色紙を受け取り、裏の数字を見ずに「お小遣い程度で申し訳ないが……」と言って千円を差し出した。おじさん、千円札を躊躇せずに受け取った。

おじさんが最後に来てから十数年になるだろうか。当時七十代半ばだったはずだから、ご存命なら九十前後ということになる。おじさんが残した達磨図はとうの昔に手元から消えている。どう処分したかは覚えていない。マウスを使って十数秒で一筆書きしたのが上の作品だが、こっちのほうがいい味が出ている。

本の大移動

できそうにないことはしないという生き方がある。つまり、できることだけを淡々とおこなうということ。別段変わった生き方ではない。たとえば、旅行先で泊まる場所を確保するためにホテルを建設しようなどとは思わない。

他方、今まで経験していないこと、できそうもないことに敢えて挑んでみようという生き方がある。ガーデニングなどまったく縁遠い趣味だったが、ひょんなことから始めてみるなどという類い。もっとも、全く手も足も出ないことになると話は違ってくる。

できないことはしない、いや、できそうもないけれどやってみる。どっちが正しいかなどという話ではないし、二者択一に決める必要もない。状況に応じて、あるいはもっと適当に気分に応じてやるかやらないかが決まってくる。


今はできないけれど、できないからと言ってじっとしていては、いつまで経ってもできるようにならない、ひとつやってみようではないかと気分よく思える時がある。ところが、やってみればできそうなのに、迷っているうちになんだか億劫になってきて、できそうもないという空気に支配される。いや、できないのだと妙なふうに自己説得して「できそうもないからやめておこう」となる。

最近できそうにないことをやってみた。まず大掛かりな書棚をオフィスの一室に作り付けてもらった。かなりの出費になった。そして、大胆なことに、自宅の蔵書約4,000冊をそこにすべて移そうと決心したのである。単なる移動ではない。大移動である。半月以上かけて単行本中心にすでに1,500冊ほど運び込んだ。まだ道半ばだ。まだ単行本500冊、2,000冊近くの新書や文庫が書斎に残っている。

「車を一台出すので手伝いますよ」と言ってくれた人、一人や二人ではない。一度だけお願いして300冊ほど運んでもらった。一気に何千冊というわけにはいかない。すべて並べ終えるまでにダンボールに入れたまま放置することになるからだ。と言う次第で、毎日50冊ずつ自転車で運んでいる。書棚への並べ方にはぼくなりのこだわりがある。一日50冊程度なら小一時間で片付く。気長にあと半月、いや一ヵ月。できそうに思えなかった「一大事」をほぼ一人でせっせと実行中である。

少々遠回り

4月末から1日も休まずに6月を迎えた。一ヵ月以上休まなかったのは十数年ぶりかもしれない。心身の疲れに悩まされてはいないが、曜日感覚の喪失に少し戸惑っている。今日が金曜日であることはついさっき認識したばかりである。

ある刺激を与えて直接的な効果を得るという一ヵ月ではなく、辛抱強く結果を待つ迂回的な日々だった。格好をつけるわけではないが、久しぶりに一手先ではなく数手先ばかり見ていた。実際、一手先を実行するほうがうまく行ったはずのケースも多々あったが、遠回りなやり方にはそれなりの妙味もあって見直すところがあった。


リフォームしたオフィスに合いそうな成木を探していたが、その発想をやめて遠回りすることにした。オフィスなのにゴーヤの苗木を三鉢買ってきたのだ。ぼくの机は南の窓のそばにある。明るくていいが、これからの季節は陽射しが強い。ロールカーテンで遮光しても大した効果がない。7月、8月に向けてゴーヤに期待することにした。遠回りである。しかし、遠回りには近道にない愉しみがありそうだ。

この一ヵ月、今日やっておくほうがいい仕事を明日に任せ、特に急ぎでない構想を優先させたりした。こんなちょっとしたことでコペルニクス的転回が起こるはずはないが、日々の自分を見つめ直すきっかけになったような気がする。

仕事に直接役立つ知と技だけを学んでいては行き詰まる。たしかに人は仕事に生きる。しかし、仕事のみに生きているのではない。生を豊かにするには仕事の充実は不可欠だが、それだけでは不十分である。明日役立つことを今日仕入れないという少々遠回りな生き方は言うほど簡単ではない。何よりも勇気がいる。来週からは再び軌道修正することになるだろうが、この一ヵ月の遠回りな時間と経験は貴重であった。

蔵書と読書の関係

自宅の数千冊の蔵書をどうするかは数年来頭の痛い問題だった。ようやく解決のメドが立った。オフィスの一室を「書斎」兼「公開勉強室」兼「セミナールーム」に改造することにしたのである。現在、別注した書棚の取り付け工事の真っ最中。書棚用の板の数、80枚余り。職人さん二人で丸3日かかる。

言うまでもなく、本の数と読書量は比例しない。ある程度熱心に読書をしている時には本が読書行為の後を追う。しかし、読書習慣がなまくらになってくると、読みもしないくせに本だけを買う行為が先行してしまう。必然読まない本がどんどん増える。本を買うのも読書行為の一部なのだと自分を慰めることになる。

蔵書について考えるとは読書について考えることである。「読書? そんなの、本を読むことに決まっている」と言えれば簡単だが、「定義される用語が定義することばの中に含まれてはいけない」というパスカルの説に従えば、この定義はルールに反するのでアウト。「読」ということばが使われているからだ。とは言え、このような厳密な法則を徹底すると、権威ある辞典類の大半の定義は成り立たなくなってしまう。


読書とは「本の体裁に編集された外部の情報と、自分のアタマの中に蓄えられている内部の知識を照合すること」。ぼくが以前試みた定義だが、生真面目に過ぎるだろうか。この中の「照合」がわかりにくいかもしれない。広辞苑によれば「照らしあわせ確かめること」。えらく差し障りなく定義するものだ。そのくせ、さきほどのパスカルの法則には堂々と反している。

いろいろと考えを巡らしたが、やはり読書している時には本の情報と自分のデータベースを重ねようとしていると思う。重ならないなら、取り付く島がないほど難しくて面倒見の悪い本か、自分のデータベースが貧弱すぎるかのいずれかだ。たいていの書物と読書家の知識は、程度の差こそあれ重なる。重なる部分を確認したり記憶を新たにしたり、本に攻められて一方的に情報を刷り込まれたり、何とか踏ん張って持ち合わせの知識で対抗したり、コラボレーションしたり完全対立したり、好きになったり嫌いになったり……。照合とは、縁の捌き方でもある。

ともあれ、蔵書を収め公開する場は確保できた。しかし、このこと自体はそれ以外に何も意味しない。読書というものは、誰にでも同じ効能を約束してくれないし、読みさえすれば賢くなるというのも間違いだ。他人の頭から何かを学ぶよりも、自らの頭で文章を紡ぐほうがよほど思考の糧になる。書くという習慣の下地あってこその買って読む効能なのである。