「騙し」の構造

どんな意見でもひとまず受容することにしているが、こと現象となると、信じるか懐疑するかの二者択一しかなければ、懐疑から入るのを常としている。いったん盲目的に信じてしまうと、相当怪しく感じるようになっても、信じた己の正当性を否定しにくくなるからである。逆に、対象が何重もの懐疑のフィルターを潜り抜けたなら、それに共感して納得に転じることにやぶさかではない。

スピリチュアルが入っている人には申し訳ないが、超能力や超常現象は信じる者による独断的な定義だと思っている。別の者にとっては「トリックによる創作」という定義が成り立つ。科学絶対とはゆめゆめ思わないが、すべての現象は現代科学ですでに説明がついているか、現代科学で解明できていないかのいずれかである。後者の、解明できてはいないが、現実に起こりうるものは能力であり現象であって、わざわざ「超」や「超常」を被せる必要はない。

超能力の仕業とされていることのすべてをミスターマリックやナポレオンズやマギー司郎ならやって見せるだろう。自分がこの宇宙で棲息している事実以上に不思議な現象に未だかつて出合ったことはない。

「騙し」の構造について書評会で『人はなぜ騙されるのか』(安斎 育郎著)を取り上げたことがある。もう一度拾い読みしてみた。

本書では109の話が、第Ⅰ章 不思議現象を考える、第Ⅱ章 科学する眼・科学するこころ、第Ⅲ章 人はなぜ騙されるのか、第Ⅳ章 社会と、どう付き合うか、第Ⅴ章 宗教と科学の5章に割り振られている。サブタイトルに 「非科学を科学する」 とあるように、不思議や超常の仕掛けが次から次へと科学的に暴かれていく。なお、本書の示唆をぼくは教育的啓発としてとらえるようにしている。


スレイド事件
スレイドは交霊できる職業的霊媒であった。何も書いていない一枚の石板とチョークをテーブルの下に置いて、居合わせた人の先祖と交信して霊にメッセージを自動書記させた。錚々たる物理学者もみんな信じてしまった。
ある交霊会でロンドン大学の教授が、スレイドが交霊する前にテーブルの下から石板をひったくるという荒手を使ったら、そこにはすでにメッセージが書かれていたのである。

ノーベル生理学賞のリシェー教授と幽霊
心霊現象に否定的だった教授は、ある将軍の家で幽霊を出現させるのを目撃してから、一気に幽霊説に傾いていった。しかし、人間が幽霊に扮したかもしれないという疑問をまったく検証することはなかった。人は信じたいほうを信じ、信じたくないほうを疑わないという習性を持つ。

幽霊の写真
撮影霊媒で有名だったデーン夫人は、現像段階で早業のすり替えを暴かれた。誰もが騙されてきたのは、すり替えの小道具に 「讃美歌の本」 を用いていたからである。「神を讃える聖なる書物を、まさかインチキの小道具に使うはずがない」 というキリスト教徒の常識的道徳観が、詐欺師を見破る目を曇らせたのである。「奇術とは、常識の虚をつく錯覚美化の芸術である」。

こっくりさん
降神術の一種であるこっくりさんは、英語で 「テーブルターニング(机転術)」 とか 「テーブルトーキング(談話術)」 などと呼ばれている。大学生の頃、合宿などでよく興じたものだ。
十九世紀の科学者にとっては こっくりさんの解釈の足場を 「霊界」 に据えるのか、それとも 「理性」 の側にしっかりと足を踏まえるのかは、いわば思想の根本にかかわる問題だったのである。
こっくりさんは、答えはこうなるはず、こうあってほしいという 〈予期意向〉 と筋肉運動である 〈不覚筋動〉によるものであると解明された。

文化勲章受章者と死後の世界
岡部金治郎博士は、「動物の霊魂→五官で完治できない神秘→不生不滅の法則→魂の素→肉体の活性から非活性状態→……→魂が受精卵に宿る」という見事な(?)説を唱えた。生真面目な一方で、すべての根底に「人智の及ばぬ神秘」 という荒唐無稽が置かれている。死後の世界論どころか宗教なのである。
霊魂の存在などまったく証明されていない。ここにあるのは 「私は霊魂を信じる」 という前提のみである。科学と信仰が混同された典型的な例であった。

経験絶対化の危険性
しばしば自分の感覚器官でとらえた 「事実認識」 を絶対化し、厳密な検証もなしに、その命題が 「真」 であることを信じ込む。
「この目で見た」 「この耳で聞いた」 という体験がもつ説得力は非常に大きい。しかし、 「感覚器官は錯誤に陥りやすい 」ことを忘れてはいけない。

科学のブラックボックス化
科学は進歩しても、なかなか人間の意識の変革は思うに任せず、孔子の春秋時代からあまり進歩していないのではないか 。
現代人はWhyへの執着心よりもHowへの指向性のほうが強い。科学技術の成果がブラックボックスになったがゆえに、「なぜ」 が消え失せてきた。科学の時代であればこそ非科学的思考に陥る危険があるのだ。

錯誤と対象認識過程の省略
人間は、部分から全体を推定し、 時間を追って順番に起こった事象については、本当はそれぞれの事象が独立のものでも、「一連の事象」 として関連づけて理解してしまう。
大きさ、形、色、肌ざわり、香り、味などの性質を刷り込んで、リンゴを認知する。しかし、今度再認識するときは、これらすべての性質を再生するのではなく、二つくらい一致するだけで対象を認識するのである。


本書によれば、「信じよ、さらば救われん」 も 「為せば成る」 も 「念じれば花開く」 もすべて、非科学的ということになる。因果関係の吟味、二者関係の明確化、主観的願望と客観的推論の峻別などをおろそかにして結論を導くのは危ういのである。

UFOよりも46億年経過してもマグマがたぎる地球のほうが不思議であり、幽霊よりも一般的なオバチャンのほうが怪奇的である。超常現象をわざわざ創作しなくても、現実の現象だけで十分に不思議であり驚きなのである。

本日は本の日なり(後編)

10年近く前の会読会で『読書のすすめ』(岩波文庫編集部編)を書評した。著名人らの読書にまつわるエッセイをまとめた本。前編に続いて、後編の9人の読書観を紹介する。


📖 若き日にバラを摘め(瀬戸内寂聴)

「生きている人生の愉しみは、食べることと、セックスすることと、読書することに尽きるのではないでしょうか。」

ものをズバリ言う人だ。得度前の瀬戸内寂聴(旧名、晴美)をよく知っているので、うなずける。もっとも、いくら愉しいからと言って、三つの行為を同時におこなうことは容易ではなさそう。

📖 夏の読書(坪内祐三)

読書には教養主義的な――あるいは情報主義的な――読書と面白主義的読書があり、これら二つを合わせてなお越えていく読書があると著者は言う。

「どこかに連れ攫われてしまう読書。日常の中を流れている物理的な時空間とは異なる、もう一つの時空間を知るための読書。自分の内側に潜在的にしまいこまれている別の自分と出会うための読書。」

📖 隠れ読みの悦楽から(中野孝次)

人はそれぞれの置かれている立場によって、読んでいる一文に独自の感覚的反応を示す。著者は次の文章によって、どれだけ勇気づけられ、自分自身を取り戻せたかと述懐する。

「音楽であれ、恋愛であれ、人間の探求であれ、彼はつねに彼自身感じることを、自分の眼で正確に知るという点に帰ってくる。他人は考慮されない。他人は審判者ではない。」
(アラン『スタンダール』)

📖 読書による理解(中村元)

「読書から得られる楽しみも大きいが、読書によって得られた知識が自分の知識体系の中のいずれかの場所に位置を得たことを知る喜びは、非常に大きなもの。」

一つの単語が自分の語彙体系に入ってきて、体系そのものの磁場を変えることがある。一冊の本ならなおさらだ。人生観まで大きく転回させられた経験はないが、新しい知識が知識体系の中で核になったことは何度かある。

📖 〈面白い〉と〈わかる〉(中村雄二郎)

「〈わかる〉ことを中心にして書物を読むことには大きな落とし穴がある。」

すなわち、わかろうと思い、わかるだろうと目論んでいるから、〈わからない〉や〈わかりにくい〉に遭遇すると書物とのコミュニケーション断絶を感じてしまうのだ。わからない場面でめげずに読み続けるためには、愉快が絶対条件になる。

「ある種の辛抱づよさも読書には必要である。その辛抱づよさを支えるものは、ある本の内容を〈面白い〉と思うことによる関心の高さでなければならないはずである。」

📖 我儘な読書(松平千秋)

「好きな本、読みたい本を読む。」

強いられる読書よりも欲求のおもむくままの読書。好きで読めば身につく。好きでなければ身につきにくい。敢えて「読むぞ!」などと宣言しなくても、自然流に読める本がいいに決まっている。

📖 宝石探し(北村薫)

「本を読むというのは、そこにあるものをこちらに運ぶような、機械的な作業ではない。場合によっては作者の意図をも越えて、我々の内に何かを作り上げて行くことなのだと思います。」

「そこにあるものをこちらに運ぶような、機械的な作業」のような読み方は、学生時代の教科書によって身についてしまったのだろう。社会に出てその悪しき読み方から脱却するのに何年、いや何十年かかったことか。

📖 わが読書(中村真一郎)

「頭脳を、三年たったら無用のゴミの山に化するような本の読み方は愚の骨頂である。」

仕事に関係する読書ばかりしていた知人は、還暦になってはじめて空しさに気づいた。そして、腹立たしさを抑えることができず、それまでに読んできたビジネス本をすべて処分した。その後の20年間は主に古典に没頭したという。

📖 本の読み方(養老孟司)

「『くだらない本』というのは、わかりきったことを確認する意味しか持たない本のことであろう。」

講演の後に、「とても共感しました。私の思っていたことと同じです」と言ってくる人がいるが、「確認しただけだから、時間の無駄でしたね」と冗談ぽく返すことがある。うなずくばかりの本では楽しみ半減である。


ぼくの場合、読書してきたものが知らず知らずのうちにおおむね仕事のヒントなったように思う。つまり、関心が向いて深読みしたテーマが、幸いなことに仕事になったのである。仕事のために無理に知識を得ようとした読書はごくわずかである。今も、愉快な本を中心に、著者と対話するように読む。どうせ何冊読んでも記憶に残る知識などごくわずかなのだから、プロセスを重視する。

同じ趣味でも、読書とゴルフには決定的な違いがある。ゴルフの場合、運動や健康や付き合いなどの目的を掲げたとしても、取るべき行動は18ホールを仲間と競い最少打数を目指すことに変わりはない。打法や戦略は人それぞれだが、指向している内容は同じである。

では、読書の場合はどうか。これも目的や方法はいろいろあるが、18ホールや最少打数などの道標があるわけではない。ジャンルも読み方も千変万化する。要するに、読書はゴルフなどの趣味に近いのではなく、食べ物と同様に嗜好性の強い趣味なのである。偏食があるように偏読というものもある。ゴルフのアマチュアはプロの技術をお手本にすることが多いだろうが、読書ではプロの読書家の嗜好する珍味がアマチュアの口に合うとはかぎらない。

〈完〉

本日は本の日なり(前編)

二年前、オフィスの図書室兼勉強部屋を“Spin_off”と命名したが、実は別案があった。「本にちカフェ」というのがそれ。「本の日」と「本日ほんじつ」を重ねたもので、“It’s a book day today.”という英語のキャッチフレーズを作り、ドアの表示のデザインまで考えた。「本日は晴天なり」を捩って「本日は本の日なり」と訳せるかもしれない。

まとまった時間が作れたので、本を拾い読みしたり、主宰していた会読会のためにしたためた書評を読んだりしている。「本日は本の日なり」にふさわしそうな『読書のすすめ』(岩波文庫編集部編)の書評に新たに手を加えてみた。この本では37人の著名人がそれぞれ独自の読書論を寄稿している。そのうち18人を選び、今回と次回で9人ずつ紹介したいと思う。

ところで、最上の読書は、好きな本を好きな時に好きな姿勢で好きなページ数だけ愉しむのがいいということに尽きる。この歳になって、「いかに本を読むか」で悩むことはない。けれども、「読書家らはどんなふうに読んだのか」には少々興味があるので、時々覗いてみる。誰もが生活環境やキャリアによっていろいろな読み方をしていることがわかるが、少なからぬ共通項があることにも気づく。


📖 『ガリア戦記』からの出発(阿部謹也)

著者は現在をどのように生きるかと真剣に問い、生きるために不可欠なテーマを見つけようとするが、容易に見つからない。

「長い間考えたあげく、ついに何も考えず、何も読まずに生きてゆけるかどうかを考えてみた」。

そしてそれが不可能だとわかった。出合った一冊の本はカエサルの『ガリア戦記』だった。ぼくに「それを読まなければ生きてゆけない本」という選び方ができるだろうか。ちなみに、カエサルの『ガリア戦記』は本棚にあるが、なまくら読みしかしていない。

📖 読むことと想像すること(池内了)

「私にとって読書とは、それまでに未知であった世界を、想像しあるいは空想し、時には一体となって考えあるいは反発し、やがて既知の世界として私の中に沈めてゆく行為である。従って、たとえ実際に経験しない事柄でも、読むことと想像することによって限りなく近づき、私の中の世界の一事象とすることができると考えている。」

未知の世界のことを読むには辛抱がいる。知っていることを手掛かりにして知らないことに想像を馳せるわけだから。わからないという度々の状態に陥るのが嫌なら、読書を続けることはできないだろう。

📖 古典の習慣(大江健三郎)

「本を読むこと、とくに古典を読むことには、無意識的なものもふくめて全人格が参加している。それはひとりの人間の生きる上での習慣ともいえるものだ。」

全人格などと大それたことを言える自信はないが、読書が国語力だけで何とかなるなどとは思わない。歯を磨くことにしても、歯ブラシと歯磨剤だけで済むものではないのと同じことである。

📖 読書家・読書人になれない者の読書論(大岡信)

「本を読むという行為は、いついかなる場合においても、作者対読者の一対一の関係に還元されてしまう。」

「私たちは本を読む場合、必ずしも一冊全部を初めから終りまで読み通すとは限らない。ある場合には、ある本の一、二ページしか読まないこともある。そしてその一、二ページが、決定的に重要なことさえ多いのである。」

作者と読者の一対一の関係なのに、一冊を読み通さなくてもよく、一部齧るだけでもいいと言われれば安心する。ここが読書のいいところだ。もっとも、小説は別にして、たいていの本のテーマはもとより1ページか2ページで書けることが多いから、運よく開けたページが「さわり」であることなきにしもあらず。

📖 研究と読書(大野晋)

「読書とは眼鏡をかけて物を見るようなものである。多読家とは要するに次々と眼鏡をかけかえて行く人。眼は疲れて実は何もよく見えなくなるだろう。」

読まないよりは読むほうがいい。しかし、読まずに済ませる選択肢もある。いろいろと本を読んでも開眼するとはかぎらない。読書に親しむのはいいが、適度な距離を保つことも重要である。

📖 翻訳古典文学始末(加藤周一)

「私は日本語の美しさを、専ら本を読むことで覚えた。読みながらの、意味よりも言葉の響き。」

何が書かれているかばかりに気を取られると、語感や表現の豊かさを見逃すことがある。意自ずから通じなくても、何度も読み返してリズムの良さを楽しみたくなる古典がある。

📖 「読書をなさい」(京極純一)

「勉強のために本を読むことは、ふつう、読書とはいわない。」

「本を読むことは、想像力と感受性の世界のなかで、人間の可能性の広がり、善の能力から悪の能力までの幅の広さを経験することである。人間が自分を捨てて他者を愛すること、また、人間が愛する者と別れてひとり死ぬこと、こうしたことを経験する、これが読書である。」

何かを学んでやろうと思うと、必然ハウツーばかりを読むことになる。ぼくはハウツー本を読むことを読書などとは思わない。著者が言うように、読書は一つの経験的行為である。

📖 読書と友だち(坂本義和)

著者は終戦直後にカントの『純粋理性批判』を読み、「考えることを考える」ことの重要さを思い知ったという。

「国中が思考の短絡におちいっている時に、カントはその逆を私に示したのである。そこには、石造りの壮大なゴシック建築のような、驚くほど強固な思考力があった。」

📖 塩一トンの読書(須賀敦子)

このエッセイのタイトルは著者の姑(イタリア人)の「ひとりの人を理解するまでには、すくなくとも、一トンの塩をいっしょに舐めなければだめなのよ」にちなんでいる。ゆえに、

「本、とくに古典とのつきあいは、人間どうしの関係に似ている。」

〈続く〉

寄贈本と思い出と

最近、故人の遺志により蔵書の一部、およそ200を寄贈していただいた。

初めての出会いは故人Y氏が47歳でぼくが35だった。当時ぼくは広報・販促の小さな会社のサラリーマン。Y氏は香川県に本社を置く大手企業の子会社の次長として親会社の広報を担われていた。ある企業を介しての縁だった。委託されたミッションは海外向けのアニュアルレポートの英文コピーライティングと編集である。

気性は穏やかとは思えず、時折り苛立って少々ぶっきらぼうなことば遣いをする人だった。初対面ではぼくが信頼できるかどうか品定めしている様子だった。実力の程を試すような質問が本題の会話の随所に投げ掛けられた。若かったので体をかわすようなことはせず、自然流に答えようと努めた。それが結果的に人間関係で吉と出た。任務は精度を落とさぬように慎重に執り行い、満足していただけた。

ぼくは翌年退職して起業した。「前の勤務先であの仕事を引き継げる人材はいない。今年もお願いしたい」と連絡があった。仕事の当てもなく起業したので、ありがたい話だった。以来、その案件以外に諸々の仕事を出していただき、お付き合いは十年以上になった。クライアントの都合や社会状況に応じて仕事の縁はやがて途切れるが、途切れてから――Y氏が現役を退かれてから――それまでの仕事関係をリセットして、新しい交際が始まった。


たまたま香川で別件の仕事が発生し、毎年赴くようになった。連絡しては前泊日の昼や夜に会うようになった。最初出会った頃にぼくを値踏みするような口調やまなざしはすでに消え、早口ではあるが穏やかに物語る人に変わっていた。年に一回、会って何を話していたのかと言うと、本と読書のことばかり。談義は3時間、4時間と続いた。「岡野さん、シェークスピアはおもしろいねぇ……」と切り出すと、もう止まらない。シェークスピア講座に通っている話、DVD全巻で観劇した印象、ある作品の名場面の精細な描写……

シェークスピアが終われば小林秀雄、その次はドストエフスキーという調子。もちろん、Y氏が話し手でぼくが聞き手という役割分担だけではない。ぼくも最近読了した本の書評をする。「よくいろんなものを読んでいるなあ。おぬしの知見には感心する」などと褒めてくださる。「いやいや、読んだふりですよ。Yさんほどには熱心な読書人ではありません」と応じる。謙遜ではなく、本心からそう思っていた。なにしろ手に入れた本は一冊残らず完読されていたのだから。ぼくのなまくら読みとは次元が違う。

定年を機に、ビジネス本やハウツー本をすべて処分し、小説や詩、思想や哲学にのめり込んで貪るように読んでおられた。ぼくの読書観がきっかけの一つになったとおっしゃったが過分のお褒めである。201712月、酸素吸入装置を引っ張ってホテルまで来られ、干物専門の居酒屋でほとんど箸をつけず、ちびちびワインを含みながら、本や近況の話を交わした。翌201812月の出張時は病状悪化で会うことはままならず。出張から帰った一週間後に訃報が届いた。

亡くなる3週間前に、力を振り絞ってしたためたような筆致の手紙をいただいた。

「書籍の寄贈の件、後日、ジャンルにとらわれずセレクトして、僅かですが贈りたいと思っております……ご厚情に感謝するとともに、今回の欠席、お詫びいたします……今後もご交際のほどよろしくお願いします」。

結局、その「今後」はなかった。

昨年12月、奥さまから連絡をいただいた。蔵書の寄贈のことが気になっていたが、一年間ぼんやりして何も手つかずだった、云々。まもなく一回忌というタイミングで自宅を訪問し、お言葉に甘えて読書談義に出てきた作者の本を選ばせていただいた。書棚五段分。オフィスの図書室で所蔵している。

読んだ本の取り扱い

書店巡りをして本を買ったらブックカバーを付けてくれた。次のような宣伝文が印刷されていた。

「読み終わりましたらぜひお売りください」(TSUTAYA)
「家にある本、お売りください」(BOOK-OFF)

新刊であれ古本であれ、本をよく買う。買った本は読むか読まないかのどちらか。読まないのなら買わなければよさそうなものだが、読まなかったというのは結果の話。読む気があったから衝動買いしたのである。買った本はそれぞれおよそ3分の1の割合で分類できる。完読する本、拾い読みする本、まったく読まずに書棚に並べられる本。

読んでいない本を処分しないのは、気になるから置いているわけで、いつかは手に取って読もうという気はある。しかし、もし本を売るとなれば、読んだ本ではなく、読んでいない本だろう。BOOK-OFFの宣伝文句にある「家にある本」で買ったままそのままにしている本のほうが処分の対象になりうる。


文庫本と違って、単行本は置き場に困る。すでに読んだ本をダンボール56箱に収納していたことがある。もう30数年前のこと。大掃除の日に家人が誤って廃棄してしまった。不用だという判断をしたのも無理はない。ダンボールには、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』などのラテンアメリカ小説、ビュトールなどのお気に入りのアンチロマン小説を入れていた。読了した本が手元から消えて、ちょっとした寂寥せきりょう感に襲われたのを覚えている。意図に反しての処分だったが、本を処分したのはこの一件のみ。

数年前に『百年の孤独』を再読しようと思い書店に行った。まだ文庫化されていなかった。今も文庫になっておらず、間違って廃棄したのと同じ単行本しかない。しかも、当時よりも値段は上がっている(ちなみに、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』もまだ文庫化されていない。世界的ベストセラーになった小説はなかなか文庫にならないのである)。

以上のことからわかるように、ぼくは読み終わった本は捨てないし売りさばかない。気に入った本は二度読みするにかぎる。読んだからこそ、手元に置いて再読機会を待つのである。

表現と推敲

専門家はその道のことを知っている。ぼくらよりはよく分かっている。ところが、よく知っていて分かっていても、そのことを表現し他者に説明するとなると話は別。専門家の誰もがみな上手にできるわけではない。

分かっているがうまく言えない、あるいは、ことばにできない。これを〈暗黙知〉という。大人は子どもに自転車の乗り方のお手本を見せたり、漕ごうとしている子どもに手を差し伸べたりできるが、ことばで言い表そうとすると苦労する。できることと、それを表すことは別物だ。

しかし、説明してもらわねば素人にはわからない。手さばきでプロフェッショナル度を判断できる技芸や技能ならいいが、どんなに凄いのかが見えづらい分野のことは専門家その人に説明してもらわねば、チンプンカンプンなのである。


分かっているけれど上手く表現できないという専門家が実に多い。ほんとうに分かっているのだろうかとつい怪しんでしまう。そういう専門家が書いた文章を推敲して欲しいという依頼が多い(ちなみに、彼らは推敲などと言わず「リライト」と言う)。書かれていることの詳細はぼくにはよく分からない。何度も読んで理解しようとする。そして、彼らよりも専門性の低い人でも分かるように書き直す。時には大胆に加筆削除をおこなう。専門家は「とても読みやすくなった」とおおむね喜ばれる。

知っていることと表すこと。同一線上にあるのは間違いないが、必ずしもその二つは同期するものではない。知っているがゆえに、意味もなく一文が長くなったり、二つの異なった事柄を一文で書こうとしたりする。そんな書き方をしているうちに、文法や語用の間違いをおかす。分かりやすさのためには、文法的であることと論理的であることは外せない。

分かりやすさを追求するなら、表現の新鮮味や創造性をある程度諦めなければならない。逆に言えば、文章の妙味は脱文法的で脱論理的なところで生まれる。私事になるが、歌人の長男に「四季が死期にきこえて音が昔に見えて今日は誰にも愛されたかった」という短歌がある。「誰にも」ときたら続くのは否定形、つまり「愛されなかった・・・・」ではないか、と父であるぼくはつぶやいた。

下の句の『今日は誰にも愛されたかった』がこの12月、そのまま本のタイトルなった(谷川俊太郎・岡野大嗣・木下龍也共著、ナナロク社)。文に縛られない文。「法から芸へ」。今日も芸を押し殺して推敲作業するぼくには羨ましい。

翻訳文化考

自由、恋愛、哲学、情報、概念などの二字熟語は、明治維新後に英独語から翻訳された和製漢語と言われている。つまり、江戸時代まではこうした術語は日本語にはなかったのである。

おそらく複数の候補から原語の意味やニュアンスにふさわしいことばを苦心して編み出したに違いない。しかし、いわゆるやまと言葉に置き換えるという選択をせずに、漢語で造語したのはなぜだったのか? たとえば、“concept”は概念ではなく、「おもひ」でもよかったはずである。

その昔、枡に米や小豆などを入れ、枡から盛り上がった部分を棒でならして平らにして量っていた。あの棒は「斗掻とかき」と呼ばれていた。その斗掻きが中国語では「概」。概は「おおむね」とも読む。斗掻きで均して量っても粒の数が正確であるはずがない。その概を使って概念を造語した。「おおよその想い」という見立てであったが、概念という翻訳語は原語のconceptよりも硬くて難しく響く。


加藤周一は『日本文学史序説 』で次のように語っている。

日本人が日本の歴史や社会を考えるのに、参照の集団として西洋社会を用いる習慣を生んだ。(……)西洋文化に対する強い好奇心と共におこったのは、従来の日本における西洋理解の浅さに対する反省である。反省の内容は、翻訳された概念と原語の概念とのくい違い、輸入された思想的体系と人間とのつながりの弱さ、思想を生みだした西洋社会そのものについての経験の貧しさなどを含んでいた。

おびただしい西洋語が、西洋を手本とした明治時代以降の改革手段として編み出された。翻訳はその必然の手始めの方法であった。西洋語の概念がイコールの存在として和製漢語に置き換えられた。そして、フィロソフィーと哲学が、インダストリーと産業が同じであると信じ切ったのである。

わが国は今も翻訳大国である。しかも、個々に対応する彼我の単語がまったく同じであると錯覚して今日に到っているきらいがある。この単語ベースでの照合を基本としてきたことと外国語習得の苦手意識は決して無関係ではないと思われる。

ソシュール学者の丸山圭三郎の著書にわかりやすい話が載っていた。フランス語の“arbre”(アーブ)は日本語の「木」よりも意味が限定的で、「生えている樹木」のこと。しかし、“bois”(ブ)になると、日本語の「森」以上に意味が広く、林や木材や薪をも包括する。単語が状況や文脈によって意味を変えるのである。

このことから、まずモノが絶対的に存在した後にことばが目録のように一対一で当てはめられたのではないことがわかる。むしろ、ことばが意味を持ったがゆえに、モノがその意味を帯びて変化したと考えるべきだろう。言語間で示されるモノや概念には必ずこのような誤差が生じている。翻訳語の解釈や理解で心に留めておくべき点である。

落葉と木漏れ日びより

河畔に公園に街路に秋が巡ってきた。春夏秋冬にはそれぞれ均等に三ヵ月が割り当てられていると思っていた頃があった。幼かった。自然界の季節が暦に忠実にしたがうはずがない。

近年、秋が短くなったと実感する。二十四節気のうち、かつて秋が受け持っていた立秋、処暑、白露、秋分、寒露、霜降などの分節の違いは言うまでもなく、もっと大雑把に初秋や中秋や晩秋と言ってみても、移り変わりの機微には触れがたく、風景の色相の変化も慌ただしい。秋は遅れ気味にやって来て足早に立ち去るようになった。

上田敏訳詩集『海潮音』にヴェルレーヌの詩、「落葉」がある。

秋の日の
ヴィオロンの
ためいきの
身にしみて
ひたぶるに
うら悲し。

鐘の音に
胸ふたぎ
色かへて
涙ぐむ
過ぎし日の
おもひでや。

げにわれは
うらぶれて
こゝかしこ
さだめなく
とび散らふ
落葉かな。

声に出して読めば哀愁の趣にしんみりとさせられる。秋のどこに感じ入るか。気に入った情景を好きなように切り取って眺め、文字の音にすればいい。庭が自然の切り取りであるように、散策する人は散策路の光景を好きなように切り取って感覚の庭に移植すればいい。この詩では詩人は落葉の秋に感応した。


けちのつけようのない青天、落葉に一瞥だけくれて樹々を見上げる。木漏れ日の漏れ具合がちょうどいい。自分の影、枝葉を早々と落葉にしてしまった樹々の影を楽しむ。『日曜日の随想』という、これまた木漏れ日びよりにぴったりの本を繰ってみる。偶然にしては出来すぎの、仕組まれたようなシチュエーションが生まれる。

空気も光もよどむことなく流れている。せわしなくしていると流れは見えない。流れが見える貴重な刻一刻。自分が安らぎの時間と場所に身を置いているからこそ、移ろいの妙が感じられる。

先の詩の後に上田敏が注釈を記している。

仏蘭西フランスの詩は、ユウゴオに絵画の色を帯び、ルコント・ドゥ・リイルに彫塑の形をそなへ、ヴェルレエヌに至りて音楽の声を伝へ、而して又更に陰影の匂なつかしきを捉へむとす。

秋は色であり、形であり、声だと言う。絵画、彫刻、音楽。なるほど、芸術の秋である。

ことばのあれこれ


書名を見て、目次だけを一瞥して本を買う。買った本のうち、全ページ読むのが3冊に1冊なら上等。残りは拾い読みか読まずの本。

本編に目を通さないことはあっても、買う時点で絶対に読んでいる箇所がある。帯文がそれ。帯文でそそのかされて衝動買いした本は数え切れないが、帯文に負けない本文の本にはめったに出合えない。帯文だけの本を書いてみたい。

📝

「空気を読む」には強い意識が働いているが、「気配を感じる」はセンスかもしれない。空気ばかり読んで、気配をまったく感じない鈍感に気をつけたい。ちなみに、春は予感・・なのに、なぜ秋は気配・・なのだろう。台風の進路を読み・・ながら、考えている。

📝

長く情報誌の編集をしてきて、ここ数年はそのテーマで研修する機会がある。事例を集めているうちに、デザインと文章の型についてよく考える。

デザインには理があり、ある程度まで定型化は可能だ。文章も理を扱うが、日本語に型を定めるのは容易ではない。コンセプトという「想い」とのつながりからして、人それぞれに型はあるのだろうが、一般的な型というものはない。

保守的かもしれないが、文章あってのデザインであることは間違いない。デザインあっての文章ではない。これが情報誌づくりの基本。

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どなたかがテープから起こした原稿を読んで書き直す仕事がある。音声は聴かずに文字になったものだけを読む。

たとえば座談会。話者らはほとんど断定しない。「……とか」や「……と言える」や「……と思う」で言い終えることが多い。文末の動詞で意味を明瞭にしてくれない。ぼかしている、いや、ぼけている。照れているのか、自信がないのか、伝える気がないのか……。参加した人たちの文字になったことば遣いを推敲しながら、最近の発言は、勝負を避ける、やわなつぶやきばかりだと、ひとりつぶやいている。

本と読書の雑感

本と読書はイコールではない。読書は本のしもべ的行為にすぎない。読書は文字を相手にするが、本は文字だけを扱っているのではなく、読む対象として存在しているだけでもない。見て選び、装幀やデザインを楽しみ、紙の手触りを感じ、かつ所蔵して背表紙を眺めることができる多様な対象である。

本という存在は読書行為以上のものなのだ。したがって、買いっ放しの積んどく状態や書棚に並べっ放し状態を恥じるには及ばない。

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書くには表現語彙が、読むには認識語彙が必要。表現語彙が乏しくても、認識語彙はその数倍あるから本が読めるのである。

どんなビールの味かと聞かれて「うまい」としか言えない者でも、辛口、キレ味、サラミソーセージに合う、のどに沁みるという表現を認識することができる。書けないが読めばわかる能力が読書を可能にしている。

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読書の季節と言えば、秋ということになっている。いつの頃からか、1027日から119日の2週間が読書週間とされるようになった。この期間に文化の日が挟まれている。本など読む気がまったく起こらなかった夏場が過ぎてほぼ一ヵ月、脳もようやくクールダウンしてリフレッシュする季節だ。

しかし、読書週間・・に触発されても読書習慣・・は易々と身に付かない。暇人か書評家を除いて、普段読書に勤しまない者は2週間で23冊読めれば御の字だろう。読書週間だからと張り切るよりも、全天候型で少しずつ読むのがいい。

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どんな本も多かれ少なかれ偽書である。『偽書百選』は、かつて存在しなかった本をでっち上げ、一冊一冊の偽書に丁寧な書評を創作した作品。読んでいるうちに、偽書であるか「真書」であるかは本質ではなくなってくる。フィクションという作品もまさにそういう類。
『ジョークに笑えない戸惑い』という本を実在の著者が実名で書いたとする。それを「テレ・カクシー著、井伊嘉元訳」という偽名で発表したとしても、何が大きな違いなのかはよくわからない。

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読まねばならないという強迫観念から脱した時にはじめて読書の意味がわかってくる。三島由紀夫の『仮面の告白』、太宰治の『人間失格』、夏目漱石の『こころ』、コナン・ドイルの『シャーロック・ホームズの冒険』を読むべし、読み返すべしと誰かに言われても、言われるがままに読めるわけがない。

気まぐれに本を手に取り、時にはゆっくり、時には飛ばしながら読む。著者が一気に書き上げていない本を一気に読まなければならない理由などない。

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誰かに薦められるまま本を素直に読んでいては、読書の妙味を失うことになる。さて何を読もうかと迷いながら自ら選ぶ時に幸せになり、決断して買う時にさらに幸せになり、本に囲まれて背表紙を見てもっと幸せになる。やがて、幸せが極まって読み始める。ところが、読み終わったら幸福感が消えることがある。バカになっていたりすることもある。読む前の本は裏切らないが、読書は裏切ることがあるので要注意だ。