大岡信の『詩・ことば・人間』を読んでいたら、ぼくが時々感じるのとよく似た、ある「不思議な文字作用」について書かれているくだりがあった。
かねがね不思議に思っていること。
私だけの経験ではないと信じるが、辞書で同じ漢字がたくさん並んでいるページを眺めているとき、その文字がなぜかしだいにばらばらに分離して見えてくる。今様にいえば、その字がその字としてのアイデンティティをなくしてしまうのである。ヘンとツクリがばらばらに分離してしまい、統一体としての一個の文字とは見えなくなる。
それはあるいはゲシュタルト説風の説明をほどこしうる現象なのかもしれない(……)
ぼくの経験では、漢字のヘンとツクリがばらばらになることはない。しかし、ある日、新聞のコラムの文中に「変わった」というありきたりのことばを見た時、どういうわけか、これが変に浮かび上がってきた。変を変に感じたのだ。実際に「変、変、変、変、変……」と手書きで連ねてみると異様な雰囲気が漂ってきた。これが〈異化〉という知覚の作用なのではないか、と思った次第である。
よく知っているものが、ある日突然奇妙に見えるのを〈異化〉といい、奇妙に見えていたものを普通に感じるのを〈異化の異化〉という。こういう現象(あるいは知覚作用)が繰り返されると、〈異化の異化の異化の異化……〉というような、不思議この上ない体験をすることになる。
音声についてもよく似たことが起こると、大岡信は指摘する。同じ語を繰り返して言い続けると、抑揚や意味の転移、さらには音節の長さの変化も生じて、本来の語とは違う別の旋律を伴ってくることがあるのだ。たとえば「愛」を繰り返して「アイアイアイアイアイ」と発声してみると、「アイアイアイ」の抑揚の位置が変わって「アイアイアイ」になったり、アとイの順が変わって「イアイアイア」に転移したりすることがある。ここでの〈転移〉はぼくの場合の〈異化〉に似た作用だと思われる。
「ぬ」と「め」が相互に異化し、「ね」と「わ」が相互に転移する。あることばや漢字がなぜこのように象られ発音されているのかが急に気になり始める。書かれた文字も発せられた音も、繰り返し眺め耳にすればするほど――「変」や「愛」という漢字が本来の意味を失うように――原形や原音も揺らいでしまう。
試みに「アベアベアベアベアベ……」と念仏のように繰り返してみればいい。あの「アベ氏」という存在と意味が失われ、何をも表わさなくなってくる。本来意味をもつことばを無思考的に繰り返せば不感に陥るのだ。ことばのマンネリズムや陳腐化はこのようにして生じる。意味あることばではなく、意味のない惰性的な文字と音が、目障りな形と異様なノイズと化して脳を支配してしまうのである。