イタリア語を独習した頃

英語がある程度習得できたら、次はフランス語、その次はイタリア語と決めていた。本気で英語を独習しようと思ったのが19歳。一年も経たないうちに話し聴くことに不自由しなくなり、二十代半ばまでに英語を教えたり書いたりして生計を立てるようになった。

高校までに学習した下地があったので、期待以上の運用能力が身についた。当時はCDなどという便利なものがなかったから、機会は少ないがラジオやテレビを活用した。オープンリールのテープレコーダーに録音して何度も聴いた。音読にはそれ以上の時間を費やした。

さて、次はフランス語。と思いきや、まとめて勉強しようと思えば高額なテープセットを買うしかない。そんな余裕はなかったから、英語と同じように音読から入ろうとした。しかし、下地のあった英語のようにはいかない。音読するにもお手本に乏しく、英語に慣れた舌はフランス語の発音をかなり難しく感じてしまうのだ。あっさり諦めた。その次の予定のイタリア語を先にやってみようと一瞬思ったが、仕事も忙しくなり語学どころではなくなった。


二十年近く前に、ひょんなことからイタリア語を独習しようと思い立った。フランス語に比べれば、少しコツさえ摑めば音読できたからだ。「語学習得には音読」というのが信念だから、聴くよりも前に文章が読めるというのが絶対条件である。イタリア語は音読にはぴったりだった。当時すでに教本も音声教材も充実していたから大量学習もできた。

英国で出版されたイタリア語教本から始め、手当り次第に音読した。NHKのイタリア語ラジオ講座は気まぐれにしか聞かなかったが、テキストだけは45年間買い続けた。何度もイタリアに出掛け、20数都市を巡ったが、書くことを除けばあまり困ることはなかった。最後にイタリアを訪れてから早や10年になる。イタリア語からすっかり遠ざかってしまった今日この頃である。

蔵書の置き場がなくなった書斎から、ハウツー系の本や、もはや読むことがなさそうな小説、何かのためにと保管していた雑誌類などを引っ張り出し、処分することにした。かなりの量である。そこにお世話になったラジオ講座のテキストが数十冊含まれている。傍線やメモがおびただしい。少し懐かしくページを捲ったが、キリがない。他のことでめげそうになった時の励みになればと思い、学習の足跡だけでも写真で記録しておくことにした。

文章、一字一句

文章推敲の依頼をよく受ける。テーマに応じていろんな程度の推敲がある。手間暇は元の文章の質と出来次第である。今月依頼された文章は日本語も英語もひどいのが多かった。文字づらの表現だけを触って事足りれば作業も楽だが、理解不能な難儀な文章が多く、流れや筋まで見直さねばならなかった。文の構造まで手を入れたら、もはや推敲ではなく、一からの書き換えに近くなる。整体マッサージのつもりが、メスを手にして外科手術を施すようなものだ。

誰に読んでほしいのかがわからない。いや、そもそもどんな動機と理由で書いたのかがわからない。残念なことに、一音ずつ丁寧に楽譜を作曲するように、あるいは一筆一色ごとに丹念に絵を描くようには、ことばの一字一句が紡がれない。音楽や絵画に比べて、文章はこれほど安直に綴れてしまうのかと愕然とした。作曲はできない、絵は描けない、でも文章なら書けるのだとみんな思っている。

すぐれた音楽や絵画、彫刻や建築に「理」を感知することがある。まるで詰将棋のように、その方法以外に詰ませる手順や手の組み合わせがありえないかのように、作品が代替無き必然の完成型に映る。それに比べたら、ぼくたちのしたためる文章はなんと刹那的でいい加減なことか。


ことばの出番がもっとも多く、日常身近であるためか、手慣れた表現だと思い込み錯覚している。この文脈でこの概念を捉えるのはこの表現しかありえないという探究などふだんすることはない。いちいちそんなことをしていたら文など編めない。そこまで凝る必要などさらさらない、と思っている。もっとも、よく手を加えたはずの行政文書が魅力的であることなどめったにないが……。

しかし、俳人や歌人や作家でなくとも、この主題ならこう書くしかないと覚悟して仕上げるべきではないか。経験によって巧拙はあるだろう。それでも、最低限の工夫はできるものである。たとえそれが月に一度でもいい、今の自分に書ける最善と思えるような文章や表現を目指して、少々時間をかけて一字一句吟味することは無意味ではない。

一度書いてそれで満足ということなどまずない。それでこその推敲なのである。何度も何度も書いた文章を読み返さないといけない。たいていの読み手は一度しか読まないが、書き手は何度も読むことになる。たぶん終わりはない。期限というものがなければ、永遠に読み返し書き直すことになるのだろう。そういう過程を経て出来上がった文章とそうでない文章は一目瞭然である。上手であっても見直す。下手なら言うまでもない。下手が下手なりに見直した文章と下手が書きっ放しにした文章にも歴然とした差が現れる。

企画のことば

企画を読み下せば「たくらむ」になる。画とは構想の図であり、大まかなイメージと言ってもよい。樹木そのものであって、枝葉ではない。そのようなアイデアをことばとして編み出し、ことばで紡ぐのが企画案ということになる。

ところで、企画案の大半が現状分析に費やされ事実の羅列に終始することがよくある。そうなると、もはや企画と呼ぶにふさわしくなく、むしろ作業は調査に限りなく近づく。精度を重んじる調査のような企画は型通りの文章で綴られるのが常だから、きわめて事務的になり、面白味や創意工夫に欠ける。

生活実感のある生身の人間として個性と創意を発揮してこそ企画に味が出る。毎年何十何百という企画に目を通すが、そのほとんどが現状分析から導かれた事実を踏まえている。しかし、妥当かつ論理的に現状の問題を分析したまではいいが、出来上がった企画案は二番煎じであり、見覚えのある陳腐なアイデアの寄せ集めになっている。

現状を見るなと言うつもりはない。現状を観察しすぎるとアイデアが発展しづらくなるから注意を促しているのだ。現状分析はじめにありきの企画は、たいてい現状に産毛が生えた程度に終わる。要するに、構想不足のまま進めた企画には展望がないのである。どんな企画でも、企画者個人の願望が出発点になる。小さいかもしれないその願望を叶えようとする情熱から構想が生まれる。


現状分析から出発して立案したものの、やっぱりつまらない、ありきたりだと企画者自身が感じる。これまでの時間を無駄にしないために後付けで表現の衣装を着飾るのが常套手段。内容に応じた表現探しである。このような、思考の翻訳作業をしているかぎり、企画のことばが力を発揮することはない。すべての作業に先立って、まずコンセプトという、ことばの概念を編み出す必要がある。

不確かで形の定まらないコンセプトを、ひとまずことばとして仮押さえする。そこから可能性をまさぐり、ああでもないこうでもないと考える。その過程で事実を参照し不足する情報を仕入れる。必然、ラフなコンセプトのことばは徐々に論理的に強化され、企画のことばとして完成形に近づく。

コンセプトのことばが論理のことばを触発するのであって、その逆ではない。現状分析から入れば論理のことばが優勢になり、後付けのコンセプトのことばが取って付けたように浮き足立つ。企画とはことばに始まってことばで完結する。便宜上、コンセプトのことばと言い、企画のことばと表現してきたが、企画とはことばそのものであると言っても過言ではないのである。

ハイコンテクストな標識

前々から気になっていた標識を取り上げて、その「みなまで言わなくてもわかってますよね文化性」について批評したい。そもそも標識やピクトグラムの類に伝えたいことのすべてを記号や文字で表わそうと期待してはいけない。どんなに頑張っても象徴にすぎない。象徴とはエッセンスを煮詰めたものであると同時に、合理的な省略の形でもある。

「みなまで言わなくてもわかってますよね文化性」という長ったらしい言い回しは、エドワード・T・ホールが〈ハイコンテクスト文化〉というコンパクトな術語で言い表わした。コンテクストとは、お互いのことばの意味を理解する上で必要な知識や経験、時代性や価値観を示す。コンテクストがハイとは、お互いよくわかっているということだ。つまり、同質のものを多く共有しているので、「みなまで言わなくてもわかってますよね」と、相手の理解力に甘える態度が醸成される。

ハイコンテクスト文化では、伝達者や表現者は意味や意図が通じることに楽観的である。何が何でもとことん言を尽くすという覚悟がない。この対極に位置するのがローコンテクスト文化だが、標識やピクトグラムは、風土の差異を超越して簡素化される傾向がある。ほとんどすべてがハイコンテクスト的なのである。


車の免許を持たぬ身である。人生のどこかで更新しなかったのではなく、免許を取得したことがなく、したがって車を所有したこともない。免許取得のための試験の中身も当然知らない。歩行者もしくは自転車利用者側として交通標識を見ている。この標識はこういう意味であると覚える試験対策とは無縁であるから、どんな標識もその標識だけを手掛かりにして読み解く。

運転はしないが、車に乗せてもらうことが少なくないので、すでにこの標識の意味は承知している。わかっているならつべこべ言わずに済ませばいいが、「標識文法」が無茶苦茶なので黙っているわけにはいかないのだ。まず「⇒」から一方通行が読み取れない。もっと言えば、「一方通行のみ・・」であり「反対方向がダメ」まで読まねばならない。一つの記号にここまでの意味を含ませるなど、普段の会話では考えられない。

次いで、「自転車を除く」とセットにして読み解いてみる。矢印が自動車運転手へのメッセージで、「ここは一方通行のみ、逆走はできません」という意味であり、「自転車を除く」が自転車利用者へのメッセージで、「但し、自転車は逆方向にも走れます」という意味である。知っているから――理不尽ではあるものの約束事だから――そう読むのだが、こんな曲解が成り立ってはいけないだろう。素直に読めば、「車は矢印方向に走ってよろしい、但し、自転車はダメです」という意味ではないか。自転車で走っていて、引き返そうと条件反射する者を嘲笑えるほど、この標識に知恵を絞ったとは思えないのである。

考えることを再考する

完全オフ予定の昨日、急ぎの依頼があった。日本語から英語への翻訳である。翻訳と一言で片付けられればいいが、原文の完成度が低ければ翻訳以上の作業が求められる。文章量の調整、文体の統一、翻訳不能文の割愛または言い換えなど、作業は編集にまで及ぶ。一から自分で日本語を書いて英語にする、あるいはヒアリングしながら直接英語を書くほうがよほど楽なことか。

テーマの難易度はさておき、考えることの裁量の大きい・小さいが決定的な意味を持つことがある。たとえば、このブログは誰かから強制されて書いているわけではない。主題を気まぐれに拾い、いや、場合によっては、主題などなく書き始めるから、たとえ小難しい話であっても何を考えるかという裁量は大きい。別の言い方をすれば自由度は高い。うまくいかなければ書かなければいいし、話を変えてしまえばいい。

若い頃に従事していた英文コピーライティングは難易度は高いが、裁量は大きい。これに比べて、翻訳は、難易度は様々だが、間違いなく裁量が小さい。つまり、多かれ少なかれ原文のスタイルと意味に縛られる。原文をある程度裏切ることが名訳の条件であるとよく言われるが、そんな高尚な考えが翻訳依頼者の誰にでも通じるわけがない。したがって、泣く泣く訳のわからない原文に分け入って裁量なきありさまで翻訳作業に打ち込むことになる。


たとえ難しくても裁量の大きい思考作業ではさほど疲れず、易しくても裁量の小さい思考作業はかなり疲れる。翻訳がいかにデリケートであるか、この国ではよく理解されていない。翻訳者への気配りもなく、訳すことなどGoogleでもできるではないか程度に思っている。ゆえに報酬も労力や工夫に見合わない。

仕事で考えようとして考えられない状態の時に突然の依頼があって、そっちに頭を使ってしまう。無事終えて、ああ疲れた、もう考えるのはやめようと決心すると、ふと考え始めたりする。「ふと考えてしまう」……結構なことではないか。考えなければいけないのにまったく考えられなくて困っている人が多いのだから。

問題は、考えなくてもいいこと、考えても仕方のないことばかりに関心が向いてしまうことだ。あるいは、今回の翻訳のように、厳としてそこに変えることのできない原文があって、考えたとしても考えたことがうまく反映できない場合である。日々の仕事や生活を振り返ってみてつくづく思うのだ、まことに考えなければならないことに向く注意はいつも大したことはないと。

比喩と表現と

生命が冬眠から覚めた。いよいよ春本番。年に一度、この時期にルナールの『博物誌』をひも解く。この博物誌は比喩によって動物たちのアイデンティティをあぶり出してくれる。色とりどりの表現で本質を切り取る巧妙さにほとほと感心する。たとえば蛍のことを『博物誌』では次のように描写する。

ほたる
1 何が起こったのだろう? もう夜の九時だというのに、あいつの家にはまだあかりがついている。
2 草に宿った月の光のひとしずく!

半世紀前、都会と田園の間にはまだ境界はなく、複雑に入り組んでいた。十代まで育った地域は都会だったが、住宅のすぐ隣りにはまだ田んぼがあり草むらがあった。川があり、そこから細い支流が分かれ田んぼのそばに流れ込んでいた。だから幼い頃には蛍を目にした記憶がある。

昨日、商店街で豚の耳を売っていたので一枚買った。細切りにしゴマ油と塩で白ネギと和えて、おいしくいただいた。さて、豚の耳と目をルナールはどう表現したか。


おまえは砂糖大根の葉っぱに似た耳のかげに、黒すぐりの実みたいな小さな目を隠している。

砂糖大根てんさいの葉っぱをよくぞ連想したものだ。黒すぐりとはカシスの実である。言われてみると、なるほどと納得する。アタマの中で絵を描いたら豚の顔になってきた。輪切りにした蓮根を鼻に見立ててくっつければ完璧な豚だ。

カエルは姿を消したが、都会ではカラスは昔よりも今のほうが繁殖している。カエルとカラスにもルナールは比喩を使う。

かえる
青銅の文鎮みたいに、すいれんの広い葉の上にのっかっている。

からす
畝溝うねみぞの上の
アクサン・グラーヴ。

子どもの頃、カエルを餌にしてザリガニを釣って遊んだ。地面に叩きつけて気絶させ、皮を剥ぐ。今思えば残酷きわまりない。カエルには、生き物ではなく、人工的な造形を思う。青銅の文鎮?  たしかにそんなカエルもいた。

カラスの比喩もおもしろい。畝溝で餌を探しているカラスを遠目に見れば、àèùなどのアクセント記号「アクサン・グラーヴ」に見えなくもない。

爬虫類の代表はヘビとトカゲ。ルナールが描写したヘビの表現はあまりにも有名である。

へび
1 長すぎる。
2 子午線の四分の一、そのまた千万分の一。

長いヘビなのに「長すぎる」と言葉少なに言い切ってしまう。続いて、どれだけ長すぎるのかを示すために子午線を出してくる。なぜわざわざ子午線なのか。面倒なので確認の計算はしないが、まあそのくらいの長さなんだろうと妙に納得してしまう。

とかげ
壁 「なんだか背筋がぞくぞくするぞ」
とかげ 「ぼくだよ」

青いとかげ
ペンキ塗りたて、ご用心!

バルセロナはガウディ公園でトカゲの作品を見たことがあるが、あれはモザイクだから、ペンキ塗りたてには見えない。しかし、生きた青トカゲを実際に目にすると、あの青がまだ乾いていないように見える。つまむとペンキが指先につきそうになる。

即興の笑いと仕込みの笑い

生真面目な話が生真面目なスタイルで語られ綴られる。それなりに響いてくることもあるし、「なるほど」「そだねー」と納得できることもある。もちろん、退屈させないようにと気配りして、生真面目な話を愉快な調子で伝えることもできる。やり過ぎては逆効果になるが、生真面目なテーマとユーモアの味付けがうまくいくことがある。

安定して笑いを取るには経験と場数が必要だ。笑いの匙加減は微妙なので、大いに注意を払わねばならない。笑ってもらえれば何だっていいというわけにはいかないのだ。爆笑や大笑いもあれば、エスプリ系の抑制のきいた笑いもある。顔色一つ変えずに胸の内だけで微笑みたくなるような笑いがある。そういうセンスのよいユーモアは好みであるが、めったに見聞きできないし、自分でも披露するのに苦労する。

大阪に生まれて暮らしてきたぼくの周辺には「おもしろい人たち」が少なくない。しかし、彼らのほとんどが笑いを取ることに意識過剰である。笑いのテイストにはさほどこだわらず、ひとまずウケようとする。いや、プロの芸人でもないのに、「笑いを取らねばならない」という、変な責任感を持っている。仲間の講師にもつかみとオチを考えるのに熱心なのがいる。


ジョークなどは地の文と会話文を絶妙に織り交ぜてストーリーを演出する笑いだ。仕込みと計算は欠かせない。何よりもきちんと覚えておかねばならない。ギャグやダジャレは違う。ストーリー性のない瞬発力勝負のことば遊びであり、おおむね即興でその場で生まれる。ウケたからと言って、性懲りもなく繰り返しているとマンネリズムで色褪せる。醤油が出てきたら、決まって「しょうゆうことです」と言うのがいるが、もううんざりである。

今まさに作られた場当たりのギャグやダジャレは少々出来がお粗末でも、即興性に値打ちを見い出してあげたいと思う。おもしろくてもおもしろくなくても、場を和ませ会話を滞らせたくないという思いは理解できる。即興なら少しくらいすべってもいい。しかし、計算をして仕込み、ウケようとした笑いはすべってはいけない。大阪ではポスターの標語などに笑いを仕掛ける傾向がある。「笑いを取らねばならない」という意識は、生真面目で公共性の強いテーマにも滲み出てくる。

ダメのことを大阪弁で「アカン」と言うが、ダジャレとしてよく公的なスローガンでも使われる。「痴漢はアカン」や「捨てたら、あ缶」などだ。そしてついに、練りに練ったと思われるポスターが登場した。「迷惑たばこは アカンずきん。」 初めて見た時も今も一度も笑わせてもらっていない。かと言って、呆れ果てているわけでもない。「笑いを取らねばならない」という制作者の思いが汲めるからだ。しかし、練りに練った割には、うーん、これしかなかったのかという気分である。

ヒューマンスキルとリテラシー

「ノリヒビ」ということばを聞いたり読んだりしたことがあるだろうか。「海苔ひび」。海中に立てる竹や粗朶そだという木の棒のことである。この棒に胞子を付着させて海苔を養殖する。最初は遅々として目立たないが、やがてしっかり定着すればみるみるうちに海苔が繁殖していく。

何かが大きく成長するためには、この棒のような核が必要で、学びにも当てはまる。学んだことは核となるスキルにまつわりついて増殖させていかなければならない。ノリヒビはそんなたとえにも使われることがある。ヒューマンスキルにとって、ひびや胞子に相当するものが必要なのである。

学び手と学習メニューの関係は、身体とサプリメントの関係に似ている。毎日の食事さえバランスよくきちんと摂り、ほどよく運動して筋肉を鍛えていればおおむね問題無しと、良識ある専門家は異口同音に唱えている。しかし、栄養に過多や偏りがあると体力に不安を覚え体調異変を感じる。そうなると、中高年は手っ取り早くサプリメントに依存するようになる。

ぼくも例に漏れなかった。ウコンに卵黄ニンニク、納豆キナーゼにノコギリヤシ、マルチビタミンや各種ミネラルを試してみた。通販で買ったためにしつこくフォローの電話攻めにも遭った。やがて主客転倒していることに気がついたのである。栄養源は水で流し込むのではなく、よく噛まねばならないのではないか。きちんと食事をして年齢相応に身体を動かし、歩き、ストレッチをする。そういうふうに生活スタイルをシフトして現在に到っている。


さて、ヒューマンスキルのサプリメントには何がいいのか、いや、そもそもサプリメントでいいのだろうか。世間には学習コンテンツが目白押しだ。その中から選んだものを摂取すれば、必ず身につくのか。意に反して、いくら摂取しても効き目を実感していない人たちも多いのだ。摂取直後は何らかの効果を実感できたとしても、効き目が持続するとはかぎらない。何日かすれば元の木阿弥状態になりかねない。学習メニュー提供側のぼくとしても、大いに反省しなければならないと思っている。

食事同様、学習サプリメントはあくまでも副である。サプリメントとはもともと「補足」という意味だ。やむをえず不足を補うものであって、主たる存在ではない。毎日の食事が主であるように、もっともよく使うスキルこそが主ではないか。そう、ヒューマンスキルの主食はことばというリテラシーなのだ。リテラシーこそがノリヒビであり、ぼくたちは幼少の頃から「ことばの胞子」をずっと養殖してきたはず。

日々を振り返れば、生活も仕事も「読み・聴き・話し・書く」で成り立っている。これら言語の四技能というリテラシーを駆使して一日を過ごしている。いかなる専門スキルも言語の核にまつわりついてこそである。肝心要の言語力が乏しければ、知識や情報を大量に取り込んでも定着しない。そして、レベルアップするにつれて、とりわけ読むことと書くことの重要性が高まってくるのである。

理解のネットワーク

分かりやすさが誰にとっても一律などということはめったにない。ぼくたちは何かを思って表現し、何かを見て描写する。ごく普通のことば遣いで素直にそうするとしても、表現や描写はおおむね主観に軸足を置いているから、他人から見れば分かりづらい、表現不足だと感じることがある。伝えられたことばだけで分からない時、自分のアタマの辞書――参照や連想の枠組――によって理解しようとするが、辞書は人それぞれ個性的なので、理解は一筋縄ではいかない。

たとえば「その日は雪だった」と誰かが言うとする。この表現は明快であり、分からないと言って突き返すことはできない。しかし、この一文だけがつぶやかれたとしたらどうか。それで良しとする人もあれば、意味が分かった上で「だから何?」とか「どの程度の雪だったのか?」と尋ね、それだけでは何を言いたいのかがわからないとぼやくかもしれない。

「その日は雪だった」という一文から、言外の意味を浮かび上がらせ、想像をたくましくして感知しようとする人もいる。「そうか、その日は雨でもなく曇りでもなく晴れでもなかったのか」という具合に。俳句や短歌や詩などは、鑑賞者のそのような歩み寄りを必要とする文学である。


言語の体系は網の目になぞらえることができる。話し手や書き手は網の目から表現を繰り出す。聞き手や読み手も、それぞれの網の目でメッセージを拾い意味を汲もうとする。

網を砂地の上に広げてみよう。まばらな網なら砂地の上に隙間の多い跡形がつく。密な網なら細かく区切られた隙間の少ない跡形がつく。砂地は自分や他人の知識と経験の全体図である。網の目の疎密は、自分がこれまで形成してきた知識や経験によって決まる。知識や経験が織り成す網の目は言語のネットワークでもある。ぼくたちはそのネットワークの中にことばを蓄えて運用している。

疎なネットワークだと、間に合わせ的なことば遣いになり、理解も粗っぽくなる。他方、密度の高いネットワークなら、精度の高いことばの使い分けができ、他人のメッセージも微妙に感じ分けることができる。語彙は不足であるよりは豊富なほうがいいに決まっているが、それよりも決定的なのは、ことばどうしが結びつく密な関係性のほうである。

現在のことばのネットワークに一つの語が加わる。つまり、新しい単語を覚えたとする。それは単なる「プラス1」ではない。その一つのことばは、たちまちにして既存のことばと結びつき、網の疎密度に応じてネットワーク全体に広がっていく。こうして理解のネットワークは、隙間があってもそこを埋め合わせるように機能するのである。

ことばの分かりやすさについて

「ことばは有限か無限か?」という学術論争があることをご存じだろうか。哲学的な問いだから、たぶん結論は出ない。一人の人間にとっては答えは明らかだ。生涯で知り尽くせないだろうから無限と言うほかない。

ことばの不器用な使い手にとっては、知らないことばだらけである。使えることばは知っていることば――聞いたり読んだりしてわかることば――よりも圧倒的に少ない。二十代の頃、無職の時代が一年ほどあって、実によく本を読んだ。ついでに辞書も読んだ。引いて調べるのではなく「適当にめくって読む」。ア行から始めてサ行の途中までいく。当然挫折する。またしばらくして挑戦する。同じくへこたれる。だから、ぼくはア行からサ行までの語彙はタ行以降よりも豊富なはず。

辞書を読んでも語彙が増えるわけではないが、暇だからそうしていた。だが、何か調べるために辞書を使うというよりも、適当なページを繰って関連することばを渉猟したりする癖は今も染みついている。ビジュアル辞典や類語辞典の類はそんな行き当たりばったりの「ことばの海の遊泳」にぴったりだ。もっと言えば、興味のある本、話題に通じている本もこんなふうに読む傾向がある。


以前、「競馬場で走る馬」という表現を耳にした。テレビの手話ニュースだったと記憶している。これには腰が抜けるぼどびっくりした。「サラブレッド」の説明に使われたのではなく、唐突に出てきたからである。そこまで言わなくても、サラブレッドでいいではないか。サラブレッドという単語を知っているという前提は決して高いハードルではない。「競走馬」でも十分である。

「陸上競技場で走る人」や「柔道着で格闘する人」はいずれも人を説明する表現である。それぞれ陸上選手、柔道家という固有の言い回しがあり、相手が幼い子でなければまったく不都合なく通じる。会社員を表現するのに「会社で働く人」では違和感があるし、「市役所で働く一番偉い人」といちいち言わずに、市長というほうが便利である。

相手はこのことばを知らないだろう、難しいと感じるだろう、それならあらかじめ分かりやすく説明調でいくか……。こんな配慮を親切心とは言わない。辞書の定義に近い表現を使って分かりやすくなるのは稀である。いや、そもそもことばの分かりやすさ、説明の分かりやすさというのは人それぞれなのではないか。辞書はことばの説明はしてくれるが、ことばを分かりやすくすることについて面倒を見てくれるわけではない。


「太陽の光線をあらゆる波長にわたって一様に反射することによって見える色のワイシャツを着てお越しください」。これは「白いワイシャツ」のことだが、「白」がわからないだろうと予測してこんな言い回しをする人はいない。「黒の反対の色のシャツ」という人もいない。白を知らない人はワイシャツということばすら知らない可能性がある。

話し手や書き手は傲慢になってはいけない。できることなら、聞き手や読み手が参照できる範囲のことばを使うのが望ましい。しかし、受け手側に歩み寄り過ぎるのも問題だ。すべての人間は未知のことばと対峙して今までやってきた。「ママ」も「ワンワン」も未知だった。何度も使っているうちに意味や概念の輪郭がはっきりしてきて、「ママ」が自分の母親であり「パパ」とは異なること、「ワンワン」は四足で毛の生えた動物だが、どうやら「ニャンニャン」とは同じ仲間ではないことなどを知るに至ったのである。

ことばは尽き果てない。知らないことばがいっぱい。しかし、ことばのことごとくを知ってから人の話を聞いたり本を読んだりするわけではない。知っている単語をつなげて想像力を働かせて、知らない単語を類推するのだ。この言語習得の過程は不思議に満ちている。技術などではなく、生きることと不可分ではない。だから、コミュニケーションは生命いのちそのもののように深遠なのである。