理解のネットワーク

分かりやすさが誰にとっても一律などということはめったにない。ぼくたちは何かを思って表現し、何かを見て描写する。ごく普通のことば遣いで素直にそうするとしても、表現や描写はおおむね主観に軸足を置いているから、他人から見れば分かりづらい、表現不足だと感じることがある。伝えられたことばだけで分からない時、自分のアタマの辞書――参照や連想の枠組――によって理解しようとするが、辞書は人それぞれ個性的なので、理解は一筋縄ではいかない。

たとえば「その日は雪だった」と誰かが言うとする。この表現は明快であり、分からないと言って突き返すことはできない。しかし、この一文だけがつぶやかれたとしたらどうか。それで良しとする人もあれば、意味が分かった上で「だから何?」とか「どの程度の雪だったのか?」と尋ね、それだけでは何を言いたいのかがわからないとぼやくかもしれない。

「その日は雪だった」という一文から、言外の意味を浮かび上がらせ、想像をたくましくして感知しようとする人もいる。「そうか、その日は雨でもなく曇りでもなく晴れでもなかったのか」という具合に。俳句や短歌や詩などは、鑑賞者のそのような歩み寄りを必要とする文学である。


言語の体系は網の目になぞらえることができる。話し手や書き手は網の目から表現を繰り出す。聞き手や読み手も、それぞれの網の目でメッセージを拾い意味を汲もうとする。

網を砂地の上に広げてみよう。まばらな網なら砂地の上に隙間の多い跡形がつく。密な網なら細かく区切られた隙間の少ない跡形がつく。砂地は自分や他人の知識と経験の全体図である。網の目の疎密は、自分がこれまで形成してきた知識や経験によって決まる。知識や経験が織り成す網の目は言語のネットワークでもある。ぼくたちはそのネットワークの中にことばを蓄えて運用している。

疎なネットワークだと、間に合わせ的なことば遣いになり、理解も粗っぽくなる。他方、密度の高いネットワークなら、精度の高いことばの使い分けができ、他人のメッセージも微妙に感じ分けることができる。語彙は不足であるよりは豊富なほうがいいに決まっているが、それよりも決定的なのは、ことばどうしが結びつく密な関係性のほうである。

現在のことばのネットワークに一つの語が加わる。つまり、新しい単語を覚えたとする。それは単なる「プラス1」ではない。その一つのことばは、たちまちにして既存のことばと結びつき、網の疎密度に応じてネットワーク全体に広がっていく。こうして理解のネットワークは、隙間があってもそこを埋め合わせるように機能するのである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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