ことばの分かりやすさについて

「ことばは有限か無限か?」という学術論争があることをご存じだろうか。哲学的な問いだから、たぶん結論は出ない。一人の人間にとっては答えは明らかだ。生涯で知り尽くせないだろうから無限と言うほかない。

ことばの不器用な使い手にとっては、知らないことばだらけである。使えることばは知っていることば――聞いたり読んだりしてわかることば――よりも圧倒的に少ない。二十代の頃、無職の時代が一年ほどあって、実によく本を読んだ。ついでに辞書も読んだ。引いて調べるのではなく「適当にめくって読む」。ア行から始めてサ行の途中までいく。当然挫折する。またしばらくして挑戦する。同じくへこたれる。だから、ぼくはア行からサ行までの語彙はタ行以降よりも豊富なはず。

辞書を読んでも語彙が増えるわけではないが、暇だからそうしていた。だが、何か調べるために辞書を使うというよりも、適当なページを繰って関連することばを渉猟したりする癖は今も染みついている。ビジュアル辞典や類語辞典の類はそんな行き当たりばったりの「ことばの海の遊泳」にぴったりだ。もっと言えば、興味のある本、話題に通じている本もこんなふうに読む傾向がある。


以前、「競馬場で走る馬」という表現を耳にした。テレビの手話ニュースだったと記憶している。これには腰が抜けるぼどびっくりした。「サラブレッド」の説明に使われたのではなく、唐突に出てきたからである。そこまで言わなくても、サラブレッドでいいではないか。サラブレッドという単語を知っているという前提は決して高いハードルではない。「競走馬」でも十分である。

「陸上競技場で走る人」や「柔道着で格闘する人」はいずれも人を説明する表現である。それぞれ陸上選手、柔道家という固有の言い回しがあり、相手が幼い子でなければまったく不都合なく通じる。会社員を表現するのに「会社で働く人」では違和感があるし、「市役所で働く一番偉い人」といちいち言わずに、市長というほうが便利である。

相手はこのことばを知らないだろう、難しいと感じるだろう、それならあらかじめ分かりやすく説明調でいくか……。こんな配慮を親切心とは言わない。辞書の定義に近い表現を使って分かりやすくなるのは稀である。いや、そもそもことばの分かりやすさ、説明の分かりやすさというのは人それぞれなのではないか。辞書はことばの説明はしてくれるが、ことばを分かりやすくすることについて面倒を見てくれるわけではない。


「太陽の光線をあらゆる波長にわたって一様に反射することによって見える色のワイシャツを着てお越しください」。これは「白いワイシャツ」のことだが、「白」がわからないだろうと予測してこんな言い回しをする人はいない。「黒の反対の色のシャツ」という人もいない。白を知らない人はワイシャツということばすら知らない可能性がある。

話し手や書き手は傲慢になってはいけない。できることなら、聞き手や読み手が参照できる範囲のことばを使うのが望ましい。しかし、受け手側に歩み寄り過ぎるのも問題だ。すべての人間は未知のことばと対峙して今までやってきた。「ママ」も「ワンワン」も未知だった。何度も使っているうちに意味や概念の輪郭がはっきりしてきて、「ママ」が自分の母親であり「パパ」とは異なること、「ワンワン」は四足で毛の生えた動物だが、どうやら「ニャンニャン」とは同じ仲間ではないことなどを知るに至ったのである。

ことばは尽き果てない。知らないことばがいっぱい。しかし、ことばのことごとくを知ってから人の話を聞いたり本を読んだりするわけではない。知っている単語をつなげて想像力を働かせて、知らない単語を類推するのだ。この言語習得の過程は不思議に満ちている。技術などではなく、生きることと不可分ではない。だから、コミュニケーションは生命いのちそのもののように深遠なのである。

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proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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