新緑の季節真っ盛り。陽射しは日に日に強くなる。この時期、光は木々の緑をやわらかく、かつ鮮やかに見せる。湿気をさほど含まない風は爽やかに樹間を通り過ぎる。光が風と新緑を絶妙に調和させる。
平日の昼前、珍しい光景に立ち会う。オフィス街の南北に走る御堂筋に人の影も車の姿もほとんど見えない瞬間があった。新緑は五月中頃から下旬にかけてピークを迎え、その後グラデーションを効かせながら深みを増す。規則正しく大通りに並ぶ高木の緑は初夏を先取りしているかのようだった。
街の一部を切り取って透視図的に眺める時、前景に緑があって、後景に建物が見え隠れするほうが落ち着く。逆の、前景に建物を配し後景に緑を置く構図では、緑が負けてしまうのである。
五月は花の季節でもある。薔薇園でも街中の花壇でもカラフルに咲き競っている。無粋な話だが、色鮮やかなシーンは苦手だ。当てもなくそぞろ歩きするのはくつろぐためであって、強い刺激を受けるためではない。緑には神経をなだめる効果がある。緑も色の一つだが、緑を含むと風景は限りなくモノクロームに近づく。
自然界に晩春と初夏の分節はない。人間が四季や二十四節気などの概念で線引きしているにすぎない。一括りに人間と言うのが乱暴なら、人それぞれとことばを変えよう。人はみなそれぞれの季節感によって春を惜しみ、あるいは夏を待つ。少々気温が上がっても春を感じれば春なのだ。この陽気はもはや夏だと判断すれば夏なのだ。
欧米からの観光客が袖なしTシャツに半パンで歩いている。その前方からジャケットとストール姿の日本人女性がやって来る。真夏丸出しのファッションと春に未練を残すファッションが往来で交叉する。他人の薄着や厚着には誰もとやかく言うべきではない。人それぞれが季節を感じ、好きなように着ればいい。
自分なりの季節感覚で若葉を見つめる。一週間後にはおそらく新緑の深まりを感知する。好きな場所で幻想の扉を開けてみよう。扉の向こうでも緑が広がっているだろう。もちろん緑と自分との間には隔たりがある。しかし、自分はすでに緑の中に投げ出されている。おもむろにベンチから腰を上げれば浄化されている自分に気づく。これが新緑の季節の恩恵である。