海面上に現れている氷山は全体の一部分、だから、姿を現わしている氷だけを見て氷山の全貌だと早とちりしてはいけない。このことは小学校で教わった。実物の氷山を調べてみるわけにはいかないので、コップに塩水を入れて氷を浮かべてみたことがある。たしかに……。一角が全体の約10パーセント、すなわち一角の9倍の大きさの氷が海面下に隠れていることを一度知ってしまえば、一角を以て全体を類推することができる。そして、その類推は正しい。
氷山の一角に倣って「意味の一角」と言ってみよう。一を知って全体を推し量るのが意味作用だから、決して異端的な発想ではない。ところで、どんなに言を尽くしても、ある概念のすべてを詳らかにすることはできない。辞書が列挙している用語の意味も用語の一部であって、決してすべてではない。氷山の一角と意味の一角に決定的な違いがあるとすれば、類推の精度である。氷山には数値化できる物理法則が当てはまるが、意味にはそんな法則はない。
意味の一角は人によって変化する。その一角から全体や本質を類推する作用も人それぞれである。「今きみに語ったことは伝えたいことの一角で、それは全体の50パーセントにも満たない」などと誰も言ってくれない。仮に数字で言ってもらってもどうにもならない。という次第で、一角をヒントにしながら、それだけでは不十分なので、読み手や聞き手のほうが知識や経験を用いて意味を補足する。これがコミュニケーションというものだ。この技術を手の内に入れるのは至難であるから、意味はめったなことでは明らかにならず、また確実に共有もできない。
「昆虫とは何か?」と問うことは、昆虫の意味を知ろうとすることにほかならない。『広辞苑』をひもとく。いきなり「①節足動物門の一綱」が出てくる。節足も綱もわかりづらい。いや、こんなことを知っても昆虫がわかったことにはならないだろう。続いて「②全動物の種数の四分の三以上を包含する」と書いてある。どうやら昆虫の種類は多いということらしい。念のために「昆」もチェックしたら「多い」という意味だった。昆にさんずいを付けたら「混」になる。なるほど。次の説明は「③体は頭・胸・腹の三部に分かれ、頭部に各一対の触角・複眼と口器、胸部に二対の翅(はね)と三対の脚がある……」。また、わからなくなった。ちょっと待てよ、これは確かに昆虫の定義だが、そもそもそういう共通の特徴を持つ動物群を昆虫と呼んだのではなかったのか。
ぼくとしては、②で折り合いをつけたい気分である。ジュール・ルナールは博物学者ではなく小説家だが、『博物誌』という書を著わしている。ルナールは言った。
「へび、長すぎる!」
なんとも痛快な意味の一角だ。こんなふうに昆虫の、(触角ではなく)一角を表に出してみるのも愉快である。
「昆虫、食べたい!」
変人でも変態でもない。わが国も含めて世界の一部の地域では、昆虫は食用的存在に見えているのだ。くどくどとした説明よりも見事に的を射ている。イナゴや蜂の子の未体験者は納得しないだろうが……。
「昆虫、キモチ悪い!」
もっともである。これを意味の一角にした人には広辞苑の①と③のような生体的分析は馬耳東風。一匹でもキモチ悪いのだから、群れを成すとチョーキモチ悪くなるはずである。
「昆虫、お友達!」
蚊やゴキブリを飼っている者は周囲にいない。しかし、カブトムシやスズムシをペットとして、いや、それ以上の親愛なる友として飼っている、いや対等に付き合っている人がいる。小学生の頃、梅酒を作るような大きな瓶に砂を入れてアリを飼ったことがある。友達という感覚はなかったが、観察対象として丁重に扱っていた。
「昆虫、重い!」
広辞苑の②に関連するが、昆虫は種類が多いのみならず、個体数をまとめると重いのである。どれだけ重いかと言えば、昆虫以外の動物――鯨、象、人間、その他すべての哺乳類、魚類、爬虫類、鳥類など――が寄ってたかっても適わないくらい重いのである。牛や豚や羊を食すためには育てなければならないが、昆虫には餌を与える必要はない。勝手に繁殖してくれる。「昆虫、重い!」という表わし方は、昆虫が無尽蔵の食糧であることを意味している。