サルーテ教会

ナポレオンが世界一美しい広場だと絶賛したヴェネツィアのサンマルコ広場。当然ながら、世界をくまなく見た上での評ではない。著名人にはそれぞれの世界一の広場があり、ヴィクトル・ユゴーなどはブリュッセルのグラン・プラス広場が世界一だと断言している。好みで言えば、ぼくはユゴーに同意する。

世界一美しいでもいいし、単に美しいでもいいが、ほめそやす対象の中に佇むよりも、ちょっと距離を置くほうがのぼせ上らずに「美」を照見できるような気がする。サンマルコ広場は運河から眺めるのがいい。運河から眺めるにはヴァポレットという水上バスに乗る。前方の甲板に陣取って波をくぐりながらアプローチしていくと、広場が歴史を漂わせてくるから不思議である。

このサンマルコ広場から水辺に出ると、サルーテ聖堂が見える。夕暮れ時には大勢の人たちが集まって聖堂の方向を眺める絶景スポットだ。有名画家による絵画作品も多い。鉛筆でスケッチしたまま放置していたものが出てきた。八年ぶりのご対面である。そのスケッチと写真アルバムの一枚を参照しながら速描してみた。スケッチは夕景時のものだったが、夕景前のまだ明るさが残っている雰囲気にアレンジ。パステルを水を含ませた筆で溶かして使った。そのパステル、百円ショップで買った18本セット。

venezia サルーテ教会Katsushi Okano
Basilica di Santa Maria della Salute, Venezia
2014
Pastel, ink (lapis lazuli)

言い間違いへの反応

自宅からオフィスまでは徒歩15分。八年前に引っ越してきてから定期券を購入しなくなった。それまではJRの定期券仕様のSMART ICOCA(スマートイコカ)。今もそれにチャージして使っている。

pitapaJR以外の私鉄や大阪市営地下鉄でも使えるからICOCAで困らない。しかし、地下鉄に乗る頻度が高いし、地下鉄のPiTaPa(ピタパ)は銀行引き落としでチャージ不要、特典もあると聞いたので、変更してもいいかなと思った。先日、地下鉄の改札を出てこのことを思い出し、改札にいる駅員にPiTaPaのことを尋ねることにした。もう一度書くが、発音は「ピタパ」である。

ピタタ・・・のことでお聞きしたいのですが……」と口を開き、その瞬間、ピタパをピタタと言い間違ったことに気づく。言い直す前に駅員が先に反応した。眉間にシワを寄せて、「えっ、ピ、タ、タ?」と、鼻から音を抜いて聞き返してくる。ちょっと小馬鹿にしたような口調とイントネーションだった。


言い直してもよかったが、ちょっと間を置いた。すると、駅員が「ピ、タ、パのことですか?」と聞く。聞いて、返事も待たずに、引き出しからパンフレットを取り出して「必要事項を書いて郵送してください」と告げた。休日に一言ケチをつければ不快の二乗になりかねない。「はい、どうも」だけでその場を去った。

無知ゆえの言い間違いではない。単に言い間違ったのである。目の前の人物が岡野だとわかっていて、つい「岡田」と言ってしまったのと同じである。にもかかわらず、「あなたは知らないのか?」とでも言いたげな表情と発音だった。

きみは地下鉄の職員である、誰かが「ピタタ」と言ったら、それは「ピタパ」以外の何かであるはずがない。「えっ、ピ、タ、タ?」などと怪訝な顔などせずに、即座に「あ、ピタパですね」と対応すれば済む。ぼくがまるっきり違う言葉、たとえば「パダラのことでお聞きしたいのですが……」と聞いていたらなら、「えっ、パ、ダ、ラ?」と聞き返してもよろしい。

公務員として別に大きなミスをしたわけでもない。文字で再現すれば非礼だと断定もできない。しかし、こんな単純な言い間違いに対して取るべき返答や態度ではない。その場に居合わせる者だけが感じる不快なニュアンス。アタマと性格が悪いとマナーを仕込んでもどうにもならない一例である。

ルビを振る

こと書くことに関しては、日本語ほど表情豊かな言語は他にないだろう。漢字があり、ひらがながあり、カタカナがある。アルファベットも抱き込める。公式文書以外ならおびただしい種類の絵文字にも出番がある。

日本語特有の表記でもっとも特徴的なのは、横書きなら本文の上、縦書きなら右横に小さく文字を振る。読みにくい漢字に付けるのが「ふりがな」。書き手自らの創意による読み方も注釈代わりに入れることができる。「刑事」と表意しておいて「デカ」と表音させる芸当もできる。ふりがなも含めて、このような小さな文字を〈ルビ〉と呼ぶ。

以前はこのブログ上では直接ルビが振れなかった。たとえば「地位も名誉も放擲して隠棲の決意をしたことを男は拳拳服膺しなかった」などという文章の場合。本ブログのプラットフォームでは、「地位も名誉も放擲(ほうてき)して隠棲(いんせい)の決意をしたことを男は拳拳服膺(けんけんふくよう)しなかった」と、難読字の後に括弧内で表記するしかない。この一文などは漢字が読めても意味がわかる文章ではないが、傍線部の文字の上にひらがなのルビを振りたくなる衝動に駆られることがある。

最近ではプラグインというアプリの一種でルビが使えるようになった。

「地位も名誉も放擲ほうてきして隠棲いんせいの決意をしたことを男はけんけん服膺ふくようしなかった」

案外簡単である。但し、ルビはあくまでも補助であるし、そうそう頻繁に出番があるわけではない。ルビを振れども本文下手では話にならない。

ルビを振る

太宰治が書いた文章中に「文化にルビを振るなら、はにかみ」というくだりがあって、大いに感心したのを覚えている。「文化とはにかみだ」とは書きにくいが、「文化はにかみ」と表記すればさらりと言いのけて文章を綴れてしまう。子ども向けの本なら「ぶんか」、異文化交流の話なら「カルチャー」と読ませてもいい。

披露宴に「かねあつめ」とルビを振ったことがある。前段の結婚式を「かみだのみ」、後段の二次会を「かこあばき」と読ませた。首尾よく「か」で始まるひらがな五文字で表現できた三点セットである。

わずかなスペース内に日本語と英語を併記できるのもルビの利点だ。知識のひけらかしはいただけないが、読み手の理解と知識の一助となればという意図なら、これはコミュニケーションにおけるおもてなしの一つと言ってもいい。

以前、四字熟語にルビを振る演習を研修に取り入れたことがある。「一石二鳥」なら「コストパフォーマンス」のように。「十人十色」に「みんなちがっていいんだよ」と書けば、相田みつを調だ。ルビは日本語の書き手の特権だから、煩雑にならない程度にうまく行使すれば文に味が出る。

請われる仕事人

彫金

5月下旬、たまたまBSの『ヨーロッパの空中散歩』にチャンネルが合った。数か所の街巡りを終えて、最後の訪問地はイタリア北部のヴィチェンツァだった。

ジュエリーの工房にベテラン彫金師を訪ねる。彫金師は言った。

「こんなものが欲しいんだけれど、作ってもらえますか?――こう言われる時が一番幸せな時だ。自分にしかできない仕事を頼まれているのだからね」

固有名詞で指名される職人はそこらじゅうにいないし、「あなたでなければいけない」と言われる存在に誰もがなれるわけではない。しかし、かけがえのない存在になるのは、仕事人にとって最大のテーマであるだろう。もちろん、そうであっても、不特定多数に指名されることは望めそうにないが……。


産業革命が加速させた大量生産方式は、消費を刺激し経済を爆発的に発展させた。他方、売り手と買い手、作り手と使い手は匿名の関係へと変貌した。大量生産型の日用品の売買では、売り手は自分たちの商品を誰が買っているのかをよく知らず、買い手も誰が作っているのかを知らない。特定の誰かの代わりがきくことは経済発展に欠かせない条件だったのだ。

そして今日、辞表が出され誰かが職場を去っても、ビジネスは遅延せず業績も悪化しない。「あなたがいなくなると困る」とか「あなたでなければならない」と言われる人は激減した。他方、わずかに存在する請われる仕事人は、ヴィチェンツァの彫金細工師のように、その地域・その分野において優位を誇るが、それに見合った報酬を必ずしも手にするわけではない。ただ、誇りに満ちて幸せな日々を過ごすだけである。そして、それで何か不都合があるはずもない。

禅と論理思考

万寿寺

昨年10月に続き、さる5月に禅文化研究所主催の論理思考講座を受け持つ機会があった。対象は禅僧と檀家さん、場所は大分市の万寿寺。受講された方々との意見交換があったわけではないが、帰りがけに一人の禅僧がそばに来て、こうつぶいたのである。「いい勉強になりました。わたしの課題は哲学の不在だったことに気付きました」。

もちろん総意ではなく、個人的な見解と思われる。ちなみに、厳密に言うと、論理思考と哲学はイコールではない。だが、概念を扱ったり念入りに物事を突き詰めていくという点で、論理思考は哲学の補助ツールにはなる。

禅僧が論理思考を学び、議論の技術であるディベートを体験するというのは、かなり特殊で例外的なことなのだ。野球の選手がサッカーに興じるなどというどころではない。極論すれば、禅僧は理屈や議論になじむのを常としないから、ある種のコペルニクス的転回と言ってもいいくらいの逆転発想なのである。


鈴木大拙師は『禅』の中で次のように書いている。

禅は議論したり、学説を立てたり、説教したり、説明を試みたりすることを拒む。それどころか、自分の中から出てきた問いに対する答えは、自分自身の中で見つけ出せ、と言う。なぜならば、答えは問いのあるところにこそあるからである。禅僧は言う、「わしの言葉はわしのもので、お前のではない、お前のものとはなり得ない。すべてはお前自身の中から出てこなければならぬ。(傍線は岡野)

議論したり、学説を立てたり、説教したり、説明を試みたりすることを拒むことを遵守していると、ぼくは食っていけなくなる。顧客へのプレゼンテーションで説明をしなかったら、「お前は何をしにここへ来たんだ」と文句を言われる。この一文に関するかぎり、禅と論理思考は基本的に相容れない。ところが、傍線部は禅の専売特許ではない。

およそ問いが立てられるのであれば、この問いには答えることができる。

哲学者ウィトゲンシュタインのことばである。どうだろう、同じことを言っているではないか。「汝、問いたまえ」は洋の東西、古今を問わず、普遍的な教えなのである。しかも、誰かから問われて答えることに安住してはならない。自問自答こそが問いと答えの基本である。問うとは問題提起であり、答えるとは一つの責任の負い方だ。誰かに問われたら答え、問いを投げたら誰かが答えるというような、いずれか一方しか行為しないのでは問答の本質をきわめることなどできないのである。

時々音読のすすめ

声に出して読みたい日本語ブームが起こってから10年以上になる。話題を呼び本もいろいろとよく売れた。黙読がすっかり読書の主流になった時代に、本を読みながら語感を磨くという一つの選択肢を提起した。しかし、今では熱もすっかり醒めたようである。

単純な絵や記号を文字に進化させてきた古代文明。文字は何事かを記録するために発明された。だが、記録用に発明されっ放しではなく、必然伝えられ読まれるようになった。近代になっても識字できる人々は圧倒的に少数であったが、彼らが読む時は声に出していた。つまり、古来、読書とは音読することだったのである。

黙読の習慣が定着したのはかなり最近のことだ。諸説いろいろあるが、表音文字であるアルファベットの国々では19世紀まで音読が普通だったという説もある。図書館の普及もあって黙読が音読を逆転するのだが、私的な場面では相変わらず音読派が多かった。昭和30年代でも声に出して本を読む大人が少なからず周囲にいたのを覚えている。

幼少の頃に漢文の素読を徹底的にやらされたと勝海舟は『氷川清話』で書いている。子どもに意味などわかるはずもないが、誰かが読み上げる漢文や漢詩の音を真似し、あるいは、文章を読めるようになると、それを繰り返し只管音読しかんおんどくする。こんなことをしてどうなるものかと納得していなかったかもしれない。だが、こうして習慣形成された響きとリズムが言語力の基底になった。退屈な音読トレーニングが成人してから生きてくるのである。


春望高校時代、杜甫の『春望』を音読して暗記暗誦したことがある。原文を見ずにそらんじるようになると、大人気分になり、また少々賢くなったと錯覚したものである。たとえ錯覚でもいいではないか。ほんの少しことばの自信が芽生えれば儲けものなのだから。だいたい習い事はすべて、真似をしているうちにできるようになったと錯覚し、しばらくして頭を打つが、それでも諦めずに続ける……という繰り返しによって上達していくものだろう。

朱子のことばに「読書三到」がある。本を読むに際しての三つの心得を説く。読書とは、まず声に出して読む(口到こうとう)、次いでよく目を開いて見る(眼到がんとう)、そして、心を集中する(心到しんとう)。この三到によって熟読するのが肝要だと教える。

話すことにマメでない人がいる。話そうと思えば清水の舞台から飛び降りる覚悟のいる人がいる。時々音読するのがよいと助言するのだが、三日坊主で終わる。声に出すというのは口だけの作業ではなく、全身体的行為だからきついのである。腹筋や腕立て伏せを決意しても続かないのと同じ。続く人が少ないからこそ値打ちがあるとも言える。外国語の学習に音読が効果的であることに疑う余地はない。日本語は母語だから勝手に身につくなどという誤った考えを捨てよう。同じ効果は日本語でもてきめんだ。口の重い人はせいぜい音読に励むべきである。

風を見る

風は窓越しで聞こえるが、風の真っただ中にいても風そのものは見えない。視力がよくても、たぶん見えない。視力の問題であるはずはないけど。

音というのは、聞こえるものであって、見えるものではない。そう信じて疑わない。ところが、「観音」がある。音が見えている。

川岸に佇めば、川の流れが見えて、同時に音が聞こえる。ひょっとすると、風の音を聴きながら風の姿が見えるのではないだろうか。風が見えないのは、もしかすると、ぼくたちの怠慢のせい……いや、怠けてなどいない。ただ、ちょっと注意力が足りないのかもしれない……。

そよ風は梢を撫でるだけで、そこにとどまらない。枝葉を微かに揺らし、ついでにいくばくかの光を拾って帯や線を刻んで立ち去る。

帰路、公園の横道に沿って心地よくそよ風が吹いていた。

IMG_5715Katsushi Okano
Soyokaze
2004
Pastel

「一人の時間」の意味

暇がある時に、時間について語られたことばに目を通してみるのもいい。名立たる偉人が実に多くの名言を残している。

充実の時間、優雅な時間、くつろぎの時間、共食の時間、今日という時間、過ぎゆく時間、今刻まれる時間……。時間はどんな修飾表現にもなじむ。試してみればわかるはず。時間は包容力のある概念である。

けれども、「○○の時間」と表現できるからと言って、その時間が実現する保証はない。また、歓迎したい時間もあれば、遠慮したい時間もあるだろう。とりわけ「一人の時間」は微妙である。嫌だけれどそうなっているのか、あるいは求めてそうなっているのか……意味は大きく違ってくる。

夏草(緑地公園)

ぼくにとっては一人の時間は「プライムタイム」だ。一日のうちに、たとえわずかな断片であっても、一人の時間を求めてやまない。ふだんは立場上・仕事上複数の人々との時間に生きている。人々と過ごす時間では人々のことを考える。それはとてもたいせつなことなのだが、その時間はみんなとの時間であって、自分の時間ではない。

やむなく過ごす一人の時間ではなく、意識して創り出す自分の時間に浸ると、時間を忘れたり止めたり早めたり遅くしたり、自由自在である。

「わたしは気の向くままにからだを反らしてのんびりし……夏草の葉をじっと見つめている」――ウォルト・ホイットマン

二足のわらじ

時代劇以外でわらじを履いている場面に出くわさないが、「二足のわらじ」という言い回しは今もよく耳にする。英語では「二つの帽子をかぶる」と言う。わらじよりも帽子のほうがよさそうに見えてしまうのは偏見か。ところで、二足のわらじを同時に履くことはない(二つの帽子も同時にかぶらない)。どちらか一方を使っている時は他方に出番はない。しかし、本来二足のわらじは同時に二つの仕事に従事していることを意味する。

TPOに応じて厳密に肩書きを名乗ると、ぼくは数足のわらじを履いていることになる。面倒なので、企画立案業と教育研修業を二つのわらじとし、両方を同等に本業と考えて励んできた。正と副の印をつけろと言われたらちょっと困る。敢えてつけるなら、キャリアが78年長い企画立案業を正とし、教育研修業を副にするのが妥当だろうか。その副に従事し始めてから四半世紀が過ぎた。


かつて自分を売り込んだこともある。しかし、四十を過ぎてから毎年100件前後の依頼をいただくようになった。二日研修もあるから、一年のうち150日近くがんじがらめになり、過労死を恐れてほとんどPRしなくなった。やがて実績への執着も関心も消え失せ、目の前の仕事をこなす東奔西走の日々を送り続けた。

五十代半ばから二泊三日の出張がきつくなった。還暦を過ぎてからは、準備に時間のかかる特注の研修を減らし始めた。また、研修の成果を数値化せよなどという理不尽な要望に付き合い切れず、そんな研修先の仕事は日が合わないなどの理由をつけて断った。その結果、年間50件程度に落ち着いた。その50件のほとんどを7月から11月に集中させ、正である企画立案業に比重をシフトしているのが昨今である。

研修案内 (2)

これからはマイペースで仕事をするぞと目論んでいた矢先、スタッフが「PRすれば講師としてまだまだ売れる!」とぼくを鼓舞し、「研修の提案をしたいからメニューの一覧を作ってくれ」と半ば強制してきた。根が素直なので、二つ返事で承諾してしまい、先月下旬から暇を見つけて毎日少しずつ編集することになった。そして、ついに完成。総数20枚のメニュー一覧である。ついでに記録と記憶を頼りに実績を集計したところ、区切りのいい数字を達成していたことに気付いた。研修・講演回数2,000回、研修・講演テーマ100本、執筆したテキストと作成したパワーポイントスライドショー300種類を超えていたのである。小も積もれば大と為るものだと、それなりの年月を費やしてきたことにちょっとした感慨を覚える。

眠れなくなる回文創作

軽い機敏な仔猫何匹いるか二十数年前に土屋耕一の『軽い機敏な仔猫何匹いるか』を読んだ。後先を考えずにことば遊びに食いつく性分だから、読後約一年間は回文熱が高じてしまった。仲間と創作に励み競ったこともある。

回文。上下同読のことば遊びである。冒頭の本は土屋耕一が創作した回文を集めたもので、タイトル自体が「かるいきびんなこねこなんびきいるか」と回文になっている。

「トマト」や「新聞紙」も上下同読だが、文章にはなっていない。おなじみの「竹やぶ焼けた」(たけやぶやけた)。短いが、一応文章になっている。「品川に今住む住まい庭が無し」(しながわに いますむすまい にわがなし)もよく知られている。五七五では「我が立つた錦の岸に竜田川」(わがたつた にしきのきしに たつたがわ)がきれいにまとまっている。古来、俳句や和歌ではおびただしい回文が作られていて、「むむ、これで回文になっているのか!?」と目を疑うほどよくできたものもある。下品系では「ヘアリキッドけつにつけドッキリあへ!」 これはぼくが作ったのだが、まったく同じものを作っている人が何人もいる。回文には制約があるから、短文の場合は偶然の一致がよく起こる。


オリジナリティを意識するなら長文である。しかし、長くなればなるほど、助詞が抜けたり文法が変則になったりするし、ふだん使わない言い回しを強引に捻り出さねばならない。自然文で作るのは決してやさしくない。なお、「は⇔わ」「お⇔を」「清音⇔濁音」などは互換性ありと見なす。

ワープロ時代にずいぶん作ったが、データがどこにあるかわからない。ワープロとフロッピーはオフィスのどこかにあるはずだが……。自作だから十や二十は何とか思い出せる。一つご笑覧いただこう。

「今朝女の子 飯時に土間で危機を聞き 出窓に木戸閉め この難を避け」 (けさおんなのこ めしどきにどまでききをきき でまどにきどしめ このなんをさけ)

回文をやり出すと、何をしていても単語や文章が浮かんでくる。たとえば「空が青い」と頭で響くと、「いおあがらそ」と下から音を逆読みする。やがて、ことばが次から次へと押し寄せてきて眠れなくなる。一度は経験しておいてもいいと思うが、苦労の割には駄作しかできない。佳作の一つや二つができるまでは少々時間もかかるし、それなりの覚悟はいる。