さあどこから始めよう?

ロダンの言葉で忘れられない一文がある。

「私は毎日この空を見ていると思っていた。だが、ある日、はじめてそれを見たのだった。」

ぼくたちは毎日見聞きしているものをちゃんと見聞きしているとはかぎらない。そのことに気づかされるのは、ある日突然これまでと違った次元の見聞きが起こるからである。

フランスの聖堂

今日の夕方、ロダンの古色蒼然とした一冊を古書店の200円均一コーナーで見つけた。

「堂聖のスンラフ」と表紙に書かれている。昭和十八年十一月の初版発行だから右書き表題。もちろん『フランスの聖堂』である。


さあどこから始めよう? という問いを受けて文章が続く。

始めなんてものはない。到着した所からやり給へ。最初君の心をいた所に立ち停り給へ。そして勉強し給へ! 少しづつ統一がとれて来るであらう。方法は興味の増すにつれて生れて来るであらう。最初見た時は、諸君の眼は諸々の要素を解剖しようとて分離させてしまふが、それらの要素はやがて統合し、全體ぜんたいを構成するであらう。

いつも見ていたはずの空をいま初めて照見するのに通じるようだ。経験の程度に応じて、分析から統合、部分要素から全体へとシフトするのは、ほぼすべての学習において真であると思う。

アルベロベッロの一日

イタリアの地図を開けると、アドリア海に面した下の方がかかとの形に見える。その踵のちょっと上に世界遺産の街アルベロベッロがある。BSの番組で時々特集が組まれるから、ご存じの方もいるだろう。この街を訪れたのは11年前。一泊だけの滞在だったが、一泊すればたぶん十分である。

イタリア語で“Alberobello”と綴る。「美しい樹木」という意味だ。こぢんまりした街に「トゥルッリ」と呼ばれるとんがり屋根の白い家が立ち並ぶ。「まるでおとぎの国みたい」と観光客に言わしめるが、ちょっと観光地化し過ぎたのではないかというのが偽らざる印象である。

土産物店を少し覗いたものの、特に目を引くものはなかった。めったに余計な土産物を買わないが、自分用に忘れないように買うものがただ一つだけある。街の名所をかたどる小さな置物がそれ。アルベロベッロでも一つ記念に手に入れた。

その置物をコンテで素描し、街の名にふさわしく樹木を添えてみた。実物の住居をスケッチするよりも「おとぎっぽい」雰囲気が出たかもしれない。

IMG_5620Katsushi Okano
Trulli, Alberobello

2004
Conté

エイジング

人は酸素で生かされ、酸素で老化する。これはジレンマである。生き続けたい、でも老いたくない……ここから不老長寿への願いが生まれ、飽くなき追求がおこなわれてきた。

老化のことを〈エイジング〉と呼び、それにあらがうことを〈アンチエイジング〉と言う。身体が酸化するから老化する、老化したくなければ抗酸化努力をする。アンチエイジングが厚かましいなら、せめてゆるやかに老いて行きたい。これをスローエイジングと言う。


野菜の顔2

以前「36歳の私が夕方40.4歳になっているなんて」という美容液かクリームの広告表現を見かけた。ターゲットが36歳とはよく絞り込まれている。そして、朝から夕方になるまでに4.4歳老けるという実証データも集めたのだろう。

アラフォーを控えた36歳の女性は10時間のうちに4.4歳エイジングするという、聞き捨てならない話である。もし、毎日4.4歳が加算されていくなら、10日もすればただ事では済まないお顔になってしまう。

しかし、この広告コピーの主張が成り立つためには、一晩過ぎて朝を迎えたら36歳に戻っていなければならない。朝は36歳の肌、夕方に一度40.4歳の肌になるものの、翌朝に36歳にリセットされるのなら、美容液を使わずとも完璧なアンチエイジングができているではないか。

説明が過剰になる時

説明の説明の説明

〈説明責任(accountability)〉が頻繁に問われるあまり、説明不足への風当たりが強くなっている。たしかに、説明を十分にしておかないと、言及していない箇所の理解を相手に委ねることになる。理解が誤解になり、伝えたつもりのことが伝わっておらず、また、伝えていないことが勝手にイメージされて一人歩きしてしまうこともある。

かと言って、知らなくても誰も困らない瑣末な事柄まで説明するのも考えものだ。頭が混乱するほどこれでもかとばかりに説明を受けたものの、終わってみれば一言で事足りる話だったなどということはよくある。説明の過剰に聞き手は苛立つ。過不足のない説明のさじ加減は容易ではない。

標識に「頭上に注意」と書いてあるだけなら、怪訝に空を見上げるばかり。何に注意したらいいものやらさっぱりわからない。では、「頭上に注意。ハトやムクドリの糞が落ちてきます」はどうか。今度は説明が過剰になっている。ハトやムクドリまで特定してもらう必要はないのである。「頭上、鳥の糞に注意」で必要十分だ。ハトやムクドリのは嫌だがスズメやカラスの糞ならいいという選り好みをする通行人がいるはずもない。


大阪に谷町線という地下鉄線がある。駅の数は全部で26。ターミナルは八尾南駅と大日駅。この二つの駅に南森町駅を加えた3駅はダイヤによって扉の開く側が左になったり右になったりする。残りの23駅のうち、いつも左側の扉が開く駅は5つ。残りの18駅はつねに右側が開く。こんなことがわかるのは、車両内に路線の駅名と扉開閉の情報が表示されているからだ。ごていねいにも駅名の下に「左」「右」というアイコンが記され、「進行方向にむかっての左側・右側であること」が説明されている。

次いで、ターミナルの二つの駅には「注1」とあり、「ダイヤによって(扉の開く側が)変わる」と書いてある。「注2」は南森町駅に付けられていて、二つのターミナル駅のどちら行きかによって開く扉側が違うとの説明が加えられている。

これらの情報を読み込んで理解するのに23分はかかった。そして、読み解いた結果、この説明がぼくにはまったく必要ないことにがっかりした。過剰である。おそらく几帳面に些事に気づく職員の仕業なのだろうが、本来乗客への説明のために始めたはずが、何のことはない、自分のための確認に終始してしまったのである。そもそも、次に降りる駅で左右どちらの扉が開くのかという情報を希求してやまない乗客がいったいどれほどいるのか。仮に大勢いたとしても、注釈を付けるほど大仰な話ではあるまい。

色彩

「絵本から飛び出たような景色」という比喩が時々使われる。鬼の首を取ったかのように威張れる比喩とは思わない。元はと言えば、景色を絵本に閉じ込めたのだから、絵本のページを開けたら景色が飛び出してくるのは当たり前だ。

「絵はがきみたいな風景」も同様である。記録に留めようとして風景を絵はがきにしたのであって、風景が絵はがきの後を追ったのではない。「絵になる水辺」とか「水彩画に描いてみたい街角」などと表現したいところである。

対象の構図もしくは形、そして色が、絵本のようであり絵はがきのようであると言わしめているのだろう。

色彩

『色彩――色材の文化史』という本を読んでいたら、ドゥニ・ディドロのことばが紹介されていた。

「存在に形を与えるのはデッサンだ。生命を与えているのは色彩である。そこに、生命の崇高な息づかいがある。」

こういうことばに出合うと無性に絵を描きたくなる。けれども、この数年間というもの、たまに鉛筆を滑らせる程度でほとんど彩色していない。筆に向かう指先がなまくらになっている。

広告とポジショニング

原則として良書は二度読まねばならないと思う。年の功もあって、少しは本の鑑定もできるようになった。くだらない本は数ページ読めばわかる。良書は一度ではわからない。だから、読みながら良書だと判断したら、もう一度読むことを前提に、全体を通読して概要をつかむ。言わば、俯瞰的読書である。 

二度目。すでにわかっているところは飛ばし読みする。わかりにくいところ、あるいは著者と意見が対立するところ、いずれでもないが自分に欠落している部分や忘れがちなところを中心に精読する。理解するだけなら二度読めばいい。しかし、「動態知力」を身につけるためにはさらに読み込まねばならないことがある。 
OGILVY ON ADVERTISING.jpgこの“Ogilvy on Advertising”という英書はもう何十回も読んでいる。今も時々ページをめくる。もう30年以上前に書かれた本なので、陳腐化している内容も少なくないが、それはあくまでも現象的なトレンドという意味においてである。売り手が顧客にものを売るメディアとしての広告の本質的なありようについては決して色褪せているようには思えない。広告やマーケティングの本をずいぶん読んできたが、座右の銘に恥じない貴重な一冊である。

ものづくりにこだわりとプライドを持つ職人の技はわが国の特質であったし、その伝統は工業生産の時代になっても引き継がれている。「ものを作って売る」というごく当たり前の言い回しがある。かつては注文を取ってからものを作って売っていた。今は見込みでものを作り、しかる後に売ることがほとんどである(特に大企業の場合がそうだ)。そして、その見込みの内に不特定の顧客が想定される。いや、顧客を絞り込んでいるとみんな言うのだが、無意識のうちにものづくりの過程で「ものが顧客に優先」されてしまうのである。 
デビッド・オグルビーのこの本では、〈ポジショニング(positioning)〉という用語が紹介されるのはわずか二ヵ所。それでもなお、この語は広告やマーケティングのキーワードである。そして、十人十色の解釈がありうる厄介なことばである。オグルビーの定義は「その商品は誰のために何をしてくれるのか」と明快だ。作った時点では誰が特定されていなかったかもしれない。しかし、いざ売る段になれば、「誰」を絞り込まねばならない。誰次第で商品が何をしてくれるか――特徴や便益――が抽出されたり発見されたりするのである。 
広告から離れてもポジショニングは意義深い。「あなたはXに対して何ができるのか?」と問われて、そのXが人であれ組織であれ目的であれ、即座に答えることができるか。ぼくの『プロフェッショナル仕事術』という研修ではこのポジショニングの演習をおこなう。自分ができることと対象への貢献を簡潔に言い表わすことにほとんどの人が苦労する。