説明が過剰になる時

説明の説明の説明

〈説明責任(accountability)〉が頻繁に問われるあまり、説明不足への風当たりが強くなっている。たしかに、説明を十分にしておかないと、言及していない箇所の理解を相手に委ねることになる。理解が誤解になり、伝えたつもりのことが伝わっておらず、また、伝えていないことが勝手にイメージされて一人歩きしてしまうこともある。

かと言って、知らなくても誰も困らない瑣末な事柄まで説明するのも考えものだ。頭が混乱するほどこれでもかとばかりに説明を受けたものの、終わってみれば一言で事足りる話だったなどということはよくある。説明の過剰に聞き手は苛立つ。過不足のない説明のさじ加減は容易ではない。

標識に「頭上に注意」と書いてあるだけなら、怪訝に空を見上げるばかり。何に注意したらいいものやらさっぱりわからない。では、「頭上に注意。ハトやムクドリの糞が落ちてきます」はどうか。今度は説明が過剰になっている。ハトやムクドリまで特定してもらう必要はないのである。「頭上、鳥の糞に注意」で必要十分だ。ハトやムクドリのは嫌だがスズメやカラスの糞ならいいという選り好みをする通行人がいるはずもない。


大阪に谷町線という地下鉄線がある。駅の数は全部で26。ターミナルは八尾南駅と大日駅。この二つの駅に南森町駅を加えた3駅はダイヤによって扉の開く側が左になったり右になったりする。残りの23駅のうち、いつも左側の扉が開く駅は5つ。残りの18駅はつねに右側が開く。こんなことがわかるのは、車両内に路線の駅名と扉開閉の情報が表示されているからだ。ごていねいにも駅名の下に「左」「右」というアイコンが記され、「進行方向にむかっての左側・右側であること」が説明されている。

次いで、ターミナルの二つの駅には「注1」とあり、「ダイヤによって(扉の開く側が)変わる」と書いてある。「注2」は南森町駅に付けられていて、二つのターミナル駅のどちら行きかによって開く扉側が違うとの説明が加えられている。

これらの情報を読み込んで理解するのに23分はかかった。そして、読み解いた結果、この説明がぼくにはまったく必要ないことにがっかりした。過剰である。おそらく几帳面に些事に気づく職員の仕業なのだろうが、本来乗客への説明のために始めたはずが、何のことはない、自分のための確認に終始してしまったのである。そもそも、次に降りる駅で左右どちらの扉が開くのかという情報を希求してやまない乗客がいったいどれほどいるのか。仮に大勢いたとしても、注釈を付けるほど大仰な話ではあるまい。

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proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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