常識を懐疑する話

出張先で私塾の10月講座の資料を作っている。ほとんど持論を展開するメモだ。しかし、『思考の手法』というテーマだけに、いろんな見方を提示したいので、これまでに読んで抜き書きした諸説も参考にしている。ここ二、三日はだいぶ没頭していて、「考えるということ」について考えを巡らしているところである。

息抜きに塾生のブログを覗いてみたら、「常識を疑う」という記事が更新されていた。二十ほど年齢差があるのだが、たいへんよく勉強している彼からヒントをもらうことも稀ではない。ぼくの講座や読書会を通じてテーマの指向性の波長が合うことも多い。ぼくは褒めるし批評もする。彼はディベートも経験しているから、批判や検証に耐えるだけの度量も備えている。ぼくの今日の話は批判でも検証でもなく、新たな問題提起である。近々に会って大いに論じ合ってみたい。

さて、その記事だ。ぼくが講座のために考えている一章「主観と客観」に関係しているので興味津々に文章を追った。関心がおありならぜひ原文を読んでいただきたい。本文中に次のようなピーター・ドラッカーの引用がある。

「世の中の常識はえてして間違っている。それを知るためには、常識の根拠を探り、それが本当に信頼に足る妥当なものか見極めることだ。そのためにはタマネギの皮をむくようにして、おおもとの根拠にたどり着く必要がある。


タマネギの比喩がおもしろい。タマネギそのものが「常識」で、皮が「常識が定着してきた過程」で、最後の最後に残るものが「常識の発生源となる根拠」なのだろう――そんなふうに愉快がった。しかし、意地悪なぼくは想像をたくましくする。ちょっと待てよ、タマネギには薄茶色の表皮があるけれど、それを剥いたあとには食用部分の「本皮」が何枚か重なっている。剥いていけば何も残らなくなってしまうではないか。そんな剥き方でタマネギを調理することがないので確証はないが、表皮を取って半分に切ってパンパンパンと包丁を入れてシチューや鍋に放り込んでいるかぎり、そこに「芯らしき根拠」は見当たらない。

それはともかく、ドラッカー先生が「世の中の常識はえてして間違っている」と言い切るからには、そう判断するドラッカー流の「ものの見方」があるはずだ。そのものの見方も別のタマネギの「芯らしきもの」ではないのかとぼくは考えた。人は常識を疑ったり怪しんだりする時点で、ある主観的な価値基準を起動させるはずである。その主観の中には常識を疑い怪しむエネルギーの源、あるいはテコとなる「確信」があるに違いない。その確信がなければ、タマネギを剥いて辿り着く「芯らしき根拠の危うさ」との刷り合わせができないのだ。

アマノジャクという、へそ曲がりなイチャモンにしても主観の一変形だろう。その主観と常識という客観が対立する。あることに「?」を感じる時、別の「!」が必ず存在する。素朴な「わからない」というクエスチョンマークであっても、「自分の中のわかる構造」とぶつかって生まれている。その別の「!」も主観的常識なのかもしれない。つまり、ぼくたちが常識を懐疑する時、その懐疑のテコに自分の常識を用いているのである。常識・非常識、主観・客観――思考の手法にとっては恰好の素材である。もう少し掘り下げてみる気になっている。

ところで、およそ一年半前、ぼくは『マーケティングセンスを磨こう』という講演で、マービン・バウワーによる、世界一短いマーケティングの定義を紹介した。たった一言。「客観性(objectivity)」がそれだ。Tさんもその講演を聴いてくれていたと記憶しているが、ぼくは鬼の首を捕ったかのように解説した。今は違う。今は「マーケティングの客観性」に懐疑し始めている(但し、一世を風靡したポストモダン的な主観主義ではない)。その懐疑のテコになっているのはたぶんカントの『純粋理性批判』だと思う。そのカントも疑い、その疑いの信念も疑いみたいなことを延々とやっていると、愚かな懐疑主義に陥るかノイローゼになりそうなので、今月最後のブログはここでピリオド。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

「常識を懐疑する話」への2件のフィードバック

  1. こんにちわ。マーケティングは売ることではなく、
    お客様を目の前に並ばせることと、神田昌典さんから
    学んでいらっしゃるかたが多いと思います。
    セールスが苦手な人は、「マーケティングの勉強」を
    します。しかし、「マーケティングの実践」をあまりしません。
    本当にマーケティングの勉強を極めた人は、
    今、苦悩してます。なぜか?
    マーケティングも現場でおこっているからです。
    客観であろうが、主観であろうが、現場臭が
    わからない人は、ずっと、マーケティングの勉強という
    ものにしがみついた生き方をします。
    いま、いえることは、「マーケティングの勉強」を
    ソフトとして売っていて、売れている人は、
    マーケティングの勉強をしていて成果が出ている人という風に
    位置づけできるのではないでしょうか?

  2. コメントありがとうございます。悩ましい問題を取り上げておられるので、いずれブログで考察してみます。とりあえず、ぼくのコメントは3点。
    ①マーケティングはビジネスの設計図ではあるものの、ビジネス成否のすべての鍵を握るものではありません。他の要素―たとえば人間性、臨機応変性、現場感覚、コミュニケーションなど―も成果に関わります。要するに、ある会社が成功しているとき、それがマーケティングであれ、広告であれ、商品力であれ、どの要素が一番強く関わっているかは突き止められないということ。
    ②マーケティングの勉強を極めることについては、コトラーの言う「マーケティングは一日あれば学べるが、実践するには一生かかる」に与するぼくは、マーケティングの勉強を極めることはありえないと考えています。
    ③コメントいただいたブログ記事の視点は、現場実践を括弧の中に入れて考えたものです。最終段落で取り上げたマーケティングの主観と客観についても「思考レベル」の話です。ただ、マーケティングの要諦である「その商品・サービスは誰のために何ができるのか」を問うポジショニング発想において、「商品・サービス」から考えるプロダクトアウトが主観、「誰のために」から考えるマーケットインが客観ととらえています。そして、小さな企業にとっては「客観」には限界があるというのが最近のぼくの思いです。

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