コンセプトと連想力(7)

「アナロジーと連想」が今回の主題です。ある表現に満足できない時、言い換えをするものですが、言い換えの一つとして類比や比喩が使われます。類比や比喩をまとめて〈アナロジー〉と呼ぶことにします。おびただしいことばを駆使しても伝わらない時は伝わらない。むしろ、たった一つのアナロジーが連想を刺激して意味を鮮明にしてくれることがあります。

こんな例があります。ある日、広告マンのオグルビー家の飼い犬テディが行方不明になりました。主のオグルビーは迷い犬の広告を新聞に掲載することにします。子どもたちが書いた広告文はコリー種だの毛色だのと特徴を細かに長々と描写したものでした。「これだけの情報を誰も頭に叩き込んでくれない」と父親は言い、行方不明になった場所、飼い犬の名前を書き、「ラッシーのような犬」とだけ付け加えました。当時「名犬ラッシー」はアメリカでは国民的ドラマでしたから、誰もが知っていました。単純な比喩でした。しかし、単純なだけに連想しやすく気に留めやすくなりました。飼い犬はすぐに見つかりました。

何となくわかっているつもりのことを、いざ伝えようとするときに、誰もが言い表わせないもどかしさを覚えます。ある表現を思いついても何かぎこちなく、満足できない……もっと別の言い方があるのではないか……こんな思いはいつも付きまといます。野矢茂樹の『語りえぬものを語る』に興味深い一節があったので引用します。

芽吹き始めた早春の山の、まだ緑が白っぽい初々しい姿。そんなふうに描写しても、どうもうまく言い表わせている感じがしない。あるいは、黒い雲が垂れこめて、いまにも風雨が強まりそうな、そんな空の様子。これもまだ、うまく言えている気がしない。だが、「うまく言い表わせない」とは、どういう現象なのだろう。目の前に広がるのは実際に黒雲の垂れこめた空であり、それを「黒雲の垂れこめた空」と描写するのは、けっしてまちがいではない。


言いたいことを言い表わすということに「間違い・正しい」という尺度はふさわしくありません。つまるところ、自分の頭の中の表象や概念とことばによる表現の間には、永久に続く不一致がありそうです。不一致を埋めようとすれば、もはや何も語れないし何も書けないでしょう。どこかで見切らなければなりません。見切りをつけるきっかけになるのがアナロジーの一つである「隠喩メタフォー」です。「苦渋に満ちて泣き出しそうな空」とか「早春の山は、入園当日の園児のように初々しかった」などと試みるのです。もっとも、それでもなおしっくりといく保障はありませんが……。

的

しかし、このような表現の試行錯誤を繰り返してきた結果、未知の概念が「共通の概念」として定着するようになりました。現在辞書に収録されていることばはすべて歴史を背負っています。かつて誰も編み出したことのない概念を思いついたとき、ただひたすら言い表わせるように繰り返し努力をするしかないのでしょう。安易に「~的」でしのいではいけません。たしかに、日本と日本的、ぼくとぼく的、結果と結果的などの間には差異があります。「的」は明確ではない何かを伝えようとする気分の表われかもしれません。しかし、「~的」で終わっているかぎり、コンセプトにふさわしい表現は決して見つからない。自分への戒めも込めて、そう言っておきます。

連想を掻き立ててくれる、ぼくのお気に入りの比喩があります。地球の歴史46億年と人類の歴史500万年を対比させるにあたって、地球の歴史を一年のカレンダーにたとえた例です。地球の誕生を元日とし、現在を大晦日から新年に変わるちょうど午前零時に見立てました。この一年のカレンダーから、それまでの46億年対500万年という単純な数字比較では見えないことが見えてきます。このカレンダーでは、人類は大晦日の午後3時に生まれ、今除夜の鐘を聞いていることになります。一年のわずか9時間のうちに、人類はありとあらゆる営み、文明文化、科学技術などを集中的に生み出したのです。人類よりも長い栄華を誇った恐竜は12月中旬に生まれ、クリスマスの頃に滅んだことになります。この比喩から、地球が――ひいては宇宙が――人類に永住権を与えてなどいないことがわかります。まだたった9時間しか存続していないのですから。

《続く》

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proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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