言わずもがな?

ごめんなさい

どうもしっくりいかない標語である。米と魚と野菜のそれぞれに「お」をかぶせ、「さん」付けしている。幼児ならそう言うだろう。だから、三行までは幼児ことばとしては不自然ではない。だが、最後の「ごめんなさい」に引っ掛かる。「どうしてごめんなさいなの?」と尋ねる子どもがいても不思議でない。

めったに通らない道の寺の掲示板。「ほほう、こう来たか」という感覚で眺めていた。標語の書き手には何がしかの思いがある。それを敢えて語らずに、前後関係の読み取りを通行人に期待している。こういうのを〈ハイコンテクスト・コミュニケーション〉という。みなまで語らずに文脈に依存する伝達方法のことだ。

ぼくの語感に間違いがなければ、「ごめんなさい」は謝罪の気持ちを表わす表現の一つである。謝っているのは罪か過ちを犯したからだ。米に、魚に、野菜に何か良くないことを仕出かしたので謝っていると思われる。飲み込みが悪いのではない。だいたいのことは類推できる。粗末にしたか、食べ残したか、好き嫌いを言ったのだろう。


それでもなお、やっぱり小難しいことを言っておくことにする。感謝の気持ちを表わす「ありがとう」なら、余計な説明をしなくても文意は通る。毎日の食事と食材への感謝の意味として、それ以外に何かことばや情報を足すことはない。「ありがとう」なら、少々唐突に出てきても意表は衝かれないのだ。しかし、「ごめんなさい」は奇異に映る。謝罪の理由は決して「言わずもがな」として片付かない。食べ残してごめんなさい、好き嫌い言ってごめんなさいという具合に言わないといけないのではないか。

繰り返すが、何を言いたいのかはわかる。しかし、その言いたいことを文脈から察するか察しないかは、通行人である標語の読み手が決める。「言わずもがな」と考えるのは書き手の勝手な判断なのだ。屁理屈ついでにもう一言添えるなら、英語に訳してみればいい。「なぜ謝るのか」という理由無しには英語にはならないはずである。「ありがとう」には理由はいらない。エレベーターで開くボタンを押してくれている人には「ありがとうございます」か、ありがとうの意味の「すみません」の一言でいい。「わたしのために開くボタンを押して待っていてくれてありがとう」とは言わない。

話さねばわからないのか、それとも話さなくてもわかるのか。みなまで言うべきなのか、それともすべて言い尽くさなくてもいいのか。先に書いたハイコンテクスト・コミュニケーションでは多くを語らないのが基本である。論理的にとことん説明するまでもなく、「言いたいことは分かるでしょ?」というスタンスを貫く。他方、〈ローコンテクスト・コミュニケーション〉では饒舌なまでに伝えたいことを明らかにする。つまり、みなまで語るのである。

どこまで語るかは、状況に応じて判断するしかない。その判断もせずに、話してもわからない者には何を言ってもわからない、だから話してもしかたがないという諦めは困ったものである。最初から意思疎通不全を覚悟しているのなら、標語を貼り出さなければいい。いや、伝えたいことがあるというのなら、その文言でコミュニケーションができているかどうかの検算くらいしてもらいたい。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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