何々の時代

企画力研修テキストに「時代とテーマ」という一章を設けている。そこでは、企画を立てるには今を知らねばならない、いや、今だけではなく時代から時代への変遷を読み解かねばならない、できれば時代時代の〈知の基盤・枠組みエピステーメーに精通しておくのがよい……というような話を聞いてもらう。

時代ということばを使っていても特別な意識があるわけではない。歴史を分節してそれぞれの区分を平安時代や江戸時代と名付けているのとは違う。もっと気楽な使い方をしている。よく考えてみると、時代はかなり曖昧な用語ではないか。たとえば、「高度成長時代から成熟・デフレの時代へ」などと言う場合の時代は、遷都や革命を機とした命名の精度に及ばない。何々時代と呼ぶことには多分に主観や解釈が入り込んでいる。

オフィスにはかなりの蔵書があるが、ざっと背表紙を眺めてみたら「時代」と名の付く書名が想像以上に少ない。ジョン・K・ガルブレイスの名著『不確実性の時代』と新書の『中小企業新時代』くらいなものである。後者は18年も前の本だから、もはや新時代が色褪せて見える。前者などはそのさらに20年も前の1978年の出版。しかし、『不確実性の時代』を再び手に取って思う、今という時代も間違いなく不確実性に満ちていると。不確実性は時代を超越して現象を普遍的に捉えている表現であるかのようだ。


黄金狂時代

チャップリンの『黄金狂時代』を思い出す。黄金狂というラベルを貼った瞬間、その一言で言い表わせるはずもないのに、神妙な意味を放ち始めてぼくたちに浸透してくるから不思議である。

高度成長時代とおだてられ、そうだ、それで間違いないと信奉した時代があった。今はデフレ経済脱却を目指す時代と諭される。こうした何々時代は事実の一部を言い当てていると同時に、幻想で増幅されてもいる。

好きなだけ何々の時代と言えてしまう。誰かが「20世紀は問題山積した時代、21世紀はそれらの問題を解決する時代」と言った。言うのは勝手だ。しかし、今世紀に入って十数年、そのように時代がシフトしたと言い得るか。某企業の戦略立案に携わっていた20世紀の終わり頃、「変化とスピードの時代」とトップは標榜していた。数年前、別の企業は「選択と集中の時代」と主張していた。いずれも企業のごく目先の関心事を表現したにすぎない。

『偽善の季節――豊かさにどう耐えるか』(ジョージ・マイクス)に次のくだりがある。

現代はいろんな名前で呼ばれている。これを「懐疑の時代」と呼ぶ人もいるし、「恐怖の時代」、「願望の時代」などと呼ぶ人もいる。しかし、わたしの考えでは、現代を呼ぶのに「偽善の時代」ということばほど適切なものはないと思う。偽善というのは、人間がみずからを現実の自分以上にすぐれたものにみせようとする願望のことである。

この本の原著はさらに遡って1966年に書かれている。著者が「現代」をそう呼んでからちょうど半世紀になるが、人間の本質を衝いて真理に迫っている。地球年表的に見れば、人類が生きてきた歴史の始まりから現在に至るまでを偽善の時代と呼んでもさしつかえなさそうだ。もっとも、自虐的に偽善の時代と名付けることを誰もが了解するはずもない。だから、別の何々の時代を創作する。時代を楽しげに脚色しておかないと落ち着かないのだろう。そして、それはつねに現実よりもよく見える表現に仕上げられる。こんな甘い表現に比べれば、偽善の時代とはうまく言ったもので、的をよく射ている。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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