慣れの功罪

経験を重ね場数を踏んでいくうちに、仕事も趣味も手の内に入ってくる。人前で喋ることなども、初心の頃と違っていちいち緊張しなくなる。これを「慣れ」という。慣れることは一見良さそうに見えるが、実は、習慣が形成されることには功罪がある。だから、もし良し悪しを語るなら、良い習慣、悪い習慣というように言わなければならない。

すっかり手慣れてしまえば熟練だ。熟練の腕前とは、見事にやってのけること、すっかり身についているさま。あまり深く考えなくてもできてしまうこと、つまり暗黙知の獲得。慣れたら慣れたで次の段階や別の対象に目が向くから、必ずしも苦がないとは言い切れないが、未熟だった頃に比べれば、雲泥の差で行動が楽になっている。

他方、慣れには好ましくない惰性も伴う。鈍感やマンネリズムに化けるのだ。一度や二度は緊張もした、驚きもした、そしてしばらくは感覚が張りつめていた……しかし、何度も経験するうちに、やり慣れた、見慣れた、聞き慣れたと言う感覚になり、新鮮味が失われる。やがて徐々に対象に響かなくなる。そのことに気づいている間は反省してリセットもできる。だが、鈍感やマンネリズムは、気づかなくなることによって常態化し、判断や行動に巣食い始める。


パリで、ブリュッセルで、ロンドンで、ハンブルクでテロが発生し、これらの都市と無縁の人たちも驚き悲しみ、そのつど哀悼の念を示した。その後も各地でテロが相次いでいる。昨年や一昨年のような国境を越えてのメッセージはSNS上で目立たなくなった。明らかにテロの惨事慣れが起こっているのだ。もっとも、このことは今に始まった話ではない。ずっと以前から垣間見えた現象である。ヨーロッパのテロに敏感だった世界も、多くのテロ実行犯の出身地であるアラブ系国家での日常茶飯事の事件には、「またか」程度のリアクションを示すにとどまっていた。

ぼくが2011年に旅した街で、その後テロが連続的に発生したのは偶然にほかならない。パリで10日間ほど滞在したアパートの近くで惨事が起きた。日帰りの旅をしたブリュッセルでもテロ事件があった。そして、つい先日、これまた訪れたバルセロナで車による暴走テロが起こった。このことを周囲に話すと、ぼくの行った街への旅は避けないとね、という冗談が返ってくる。

旅で街を訪れたら、そこに何がしかの親近感と体験記憶が生まれる。その感覚と記憶は、訪れずに空想するのとは異なる。バルセロナの、あのランブラス通りを何度行ったり来たりそぞろ歩きしたことか。途中ボケリア広場を覗き、カウンターで惣菜をつまみながらワインを飲んだ。ミロの地面モザイクを眺め、ゴシック地区にも迷い込んだ。港に足を運んでコロンブスの像を見上げ、タワーに上って市中を展望した。それがこの写真。右上の方向には建設中のサグラダファミリア教会が見える。

地元民と観光客で賑わうあの平和な通りの記憶と、テロの凄惨なシーンがまったくつながらない。数年経っても懐かしい記憶のほうは脳裏に焼き付いている。しかし、テロ事件はと言えば、他市のテロがそうだったように、一ヵ月、半年、一年と経たぬうちに消えそうな気がする。「またか」とつぶやくたびに、惰性と鈍感が増幅し、ニュースはあっという間に揮発する。慣れによって喉元過ぎれば熱さを忘れるのである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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