動物世界にはジレンマが生じるような目立った葛藤や自己矛盾はない。合目的的であり合理的である。DNAに組み込まれた習慣的法則に忠実に従えば、万事がうまくいく。食物連鎖の悲劇ですら自然の摂理に適っている。人間のように、その場限りの工夫をいちいち凝らさなくてもいいのである。極論を恐れずに言えば、そういうことになる。
人間どうしが付き合いことばを交わす。後味が悪くならぬほうがいいから、刺々しい言い回しを避ける。婉曲語法を使っても虚偽でなければそれでよい。気遣いもあるだろうから、まったく中身のない社交辞令よりはよほどましである。ぼくのような明け透けにものを言う人間でも、他人に対しては姿勢もことばもまずはやさしくなければいけないと思う。たとえ相手のことに言及する意見が批判めいたとしてもだ。
しかし、このことと、その場その場で相手の心理や立場を慮りすぎて自分の意見を歪めたりカモフラージュしたりするのは別のことである。自分の意見や考えを述べるに際して、どんな空気にも、そこに居合わせる他人の存在にも、世間の一般論にも左右されることはない。場に臨んで空気や他人や論を過剰に読み取ろうとすれば、自論が変わってしまう。議論し納得した後ならまだしも、意見のやりとりの前に自論を変えるのは情けないし、変えるのなら没個性である。
慮るとはどういうことか。周囲の状況に目配り気配りしてよく考えることである。思慮や配慮、あるいは深謀遠慮や賢慮良識に示される通り、慮ることはよいことだ。しかし、心配りや心遣い、しっかりと考えることも、度を越すと半強制的に空気を読まされるような結果になる。考えすぎたり思いすごしたりするのは「過慮」。賢さを失うと「愚慮」になり、考えれば考えるほど悩んでしまうと「苦慮」になる。いかに慮るかが重要であり、いい具合に慮らねばならないのである。
組織に属するかぎり、組織のコードを弁えねばならない。ルールに則りどのように振る舞うべきかを類推しなければならない。もうこれだけで十分慮っていると言える。その上で、自論を述べればいいのだ。組織のコードで意見を縛ることはない。コードと意見は別物である。ところが、慮りすぎると、暗黙のルールを探し出して先回りするかのように流れに棹差し、空気に染まる。
日本人は概して空気を読むようによく躾けられている。異文化に置かれると、不器用ながらも郷に入っては郷に従おうと振る舞う。そんな強迫観念に苛まれることなどないのだが、勝手にそうなってしまう文化的な刷り込みを侮ってはいけない。皆が皆というつもりはないが、欧米人や中国人らははなから空気を読む気がない。超ド級のKYだ。裏返せば、自論をはっきり言おうと思うのなら、郷の空気やルールを読み解きすぎてはいけないのである。意見を言うのなら慮らねばならない、しかし慮りすぎてもいけない。さじ加減は難しいが、難しいからこそ意見が価値を持つと言うべきだろう。