「最初はノー」

とてもおもしろい資料が出てきた。B5判用紙が30枚。両面印刷なのでノンブルは60ページまで付いている。各ページの文字数が40字×43行だから合計1,720字。相当な分量の資料になる。文庫本なら一冊に相当するかもしれない。

今から13年前(当時46歳)の講演録だ。タイトルは『ディベートから何を学ぶか』。主催・対象ともに行政の職員組合のメンバーで、12時間半のセミナーを3回シリーズでおこなった講演とディベート実習の模様を収録している。懐かしさも手伝ってざっと目を通した。今でこそ年季の入った緩急自在な話し方をするようになったが、当時は終始早口で、特にディベートをテーマにした話の場合は、初心者が戸惑うほど流暢だったのではないかと思う。

懐かしさ以上にあらためて驚嘆したのは、その講演を収録したテープ起こしを担当したF氏の尋常ならぬ執念である。出版するわけでもなく、学んだ仲間十数名で共有するだけの資料づくりに、よくもこれだけのエネルギーを費やしたものだと感じ入る。ぼくの話は筋が通っているとは思うが、近接領域へとよく脱線するし、話がどんどん膨らむし、しかもテーマがディベートだけに、難解な用語やカタカナも頻出する。再生と巻き戻しを繰り返してテープレコーダーを操作しては一時停止し、一言一句文章化していったF氏の姿が浮かんでくる。


ディベートにつきものの反対尋問、とりわけイエスとノーで問うことの意味については第2 回の講演で説明している。しかし、もう一点、かつてのディベート研修では必ず冒頭のほうで取り上げていた金言が漏れている。今となっては出典がわからないのだが、文言だけはよく覚えている。「あなたの意に反して即断を迫られた時にはノーと答えよ。イエスをノーに変えるよりもノーをイエスに変えるほうがたやすいから」というのがそれだ。「迷ったらノー」が原則で、ノーからイエスへの変更に対して交渉相手は文句は言わないが、イエスと言っておきながら土壇場でノーに変えるのは潔くなく、それどころか、相手の反感を買うという教えである。ジャンケンの掛け合いは「最初はグー」だが、対話や交渉のスタンスでは「最初はノー」ということになる。

ディベートの肯定側と否定側のように、あるテーマを巡って対立している二人が対話を始める時、心の中では「最初はノー」を唱えておくのがいい。ディベートの対立図式は終始変わらないが、日々の対話ではノーから始めて徐々に接合点を見つけ、やがて各論的にイエスにシフトしながら、理想的には少しでもコンセンサス部分を増やしていく。物分かりのいい「最初はイエス」でお互い受容し共感し合っても、検証不十分のツケは後で回ってくる。最初はいいが後々になってもつれてくると事態の収拾がつかなくなる。

意気投合というようなバラ色の出発をしてしまうと、小さな違和感一つが大きなひび割れの要因になってくる。「一週間で納品してくれるか?」と聞かれ、仕事欲しさのあまり「イエス」と慌てて答え、納品のその日になってから「すみません、あと一日いただきたいのですが」と申し出たら、発注者は心中穏やかではない。「君ができると言ったから頼んだのだぞ!」と叱責される。安易にイエスから入ってノーで風呂敷を畳むことはできないのだ。

「結婚してくれる?」と男がプロポーズし、女が「はい、喜んで」と答える。一週間後、「ごめん、やっぱりノー」と変更したら、これは事件である。もしかすると、本物の事件になるかもしれない。反対に、ずっとノーを言い続けた女が最後の最後にイエスに転じたら、もう一生涯男を尻に敷くことができるだろう。ぼくの場合、ノーから入って仕事の機会を失ったこともあるが、最初に「できないことをできない」と明言する誠意によって圧倒的に機会に恵まれた。但し、「最初はノー」はあくまでも原則論であって、昨今は一度のノーで「あ、そうですか」で終わりになることも多々あるから、杓子定規は考えものである。 

中立的立場によって見えるもの

これはへきというしかないが、中立的な立場でスポーツを観戦するようになって久しい。完全中立はありえないものの、勝敗結果を冷静に受け止め喜怒哀楽を表に出さない。その時々の成績や勝敗にめったに一喜一憂しないのである。それでも、日本選手が国際大会で活躍し表彰台に上ることを願っているし、現実にそうなれば祝福もする。だから、ぼくの飄々とした態度に反応して、「日本選手が勝ったのにうれしくないのか!?」とか「日本チームが負けたのに悔しくないのか!?」と詰問されても困るのだ。感情を見せなくても、勝ったらうれしいし、負けたら悔しいのは言うまでもない。

ふがいない日本国の状況や日本人を見るたびに辛口論評したくなるぼくではあるが、アイデンティティがカメルーン色になったりオランダ色になったりデンマーク色になったりと七変化するわけがない。おそらく一定して日本カラーである。パラグアイに縁もゆかりもないし、遠い親族にもパラグアイ人は見当たらない。したがって、一昨日のワールドカップ観戦にあたって、ぼくの心情は当然日本チームに傾いていた。ただ、悔しさのあまり眠れなくなるなどということはありえないし、あのときゴールが決まっていたらなどと無念を引きずらないのである。

ところで、二大会前の日韓開催時に運よくベルギー大使館経由でベルギーvsブラジルのチケットを手に入れた。そして、サッカーとは縁のない格好で神戸に出掛けて観戦した。圧倒的なブラジル色の観客やサポーターに紛れて、小ぢんまりとしたベルギーゾーンで一度も立ち上がりもせずに淡々と観戦していた。ホットにならないから「こいつは義理で来ているのか」と周囲の知り合いに思われたかもしれないが、そんなことはない。ぼくなりに十分に戦況を見つめて分析し、展開推理も楽しんでいた。ちなみにサッカーはお気に入りスポーツの一つである。ただ、テレビによく映し出される狂信的なサポーターからは程遠い。


野球の日本選手はアジア予選を勝って歓喜に酔った。マスコミはこぞって賛辞を送った。ところが、本番の北京五輪ではメダルにも手が届かず、星野氏は名監督の座から引きずりおろされた。これとは逆に、今回のサッカーワールドカップへの評価は終り良しとなった。「岡田更迭および期待薄」から「監督賞賛および大健闘」への鞍替えだ。しかし、目標のベスト4に届かなかったという点では、岡田氏自身が吐露したように「力不足」だったのである。数学50点の子が目標の90点に届かず、70点に終った。これを「よくやった」と見るのは現状50点からの視点である。目標の視点に立てば、やっぱり力が足りなかったと言うべきだろう。

たとえ運も絡むと言われるPK戦の敗北であっても敗北には変わりはない。PKのシュート1本の成否で2時間の戦いに決着がつくのはつらいが、勝負はそのように決まるものだ。歓喜と落胆は紙一重。短期間に生じるであろう浮き沈みに対して、変化のたびに一喜一憂しても仕方がない。だから、ぼくは短兵急に褒めたりけなしたりしないようにしている。一瞬をとらえての気まぐれな毀誉褒貶きよほうへんによってぼくたちは誤る。

大会直前の4連敗で岡田監督の采配に批判が集まり、選手の戦いぶりも叩かれた。あの4試合が仮に「快勝、惜敗、辛勝、完敗」と様々であったなら、マスコミもファンもそのつど一喜一憂するばかりで、風見鶏的な評価を繰り返していたに違いない。前哨戦は前哨戦であり、前哨戦の力量が本番でもそのまま発揮されるのか、それ以上になるのか、それ以下になるのかは、実際に戦ってみなければわからない。たしかに、臨場感を爆発させて一喜一憂するのがスポーツの醍醐味であることを承知している。しかし、そうであるならば、もっと単純に自分や仲間内での感情の発露にとどめるべきで、当事者に向けて、いかにも分析的らしく、したり顔の最終結論めいたコメントを尻軽にすべきではない。

「延長戦のあの場面で1点を取っていたら……」と誰かが言うから、「それを言い出したら、パラグアイだって同じ思いだろう」とぼくはコメントした。涙の対岸には歓喜がある。こちらが喜べば相手が悲しむ。それがスポーツだ。感情移入して一方に肩入れする観戦もあれば、ぼくのようにいずれかを応援しながらも、勝負の摂理や機微を楽しむ方法もある。

対抗ゲームにおいて中立的見方を楽しむようになったのは、長年のディベート審査体験と無関係ではない。力が拮抗していれば勝ったり負けたりが常であることを知っている。一方に偏して討論に耳を傾けるのではなく、肯定側vs否定側の関係図式上にゲームを眺める。スポーツも同じで、私情を消し去れないことをわかったうえで、なおかつ精一杯中立的に眺めてはじめて感じられるおもしろさがある。選手たちと一体になるような応援の形態もあれば、選手たちの活躍ぶりを静かに観戦する形態もあっていい。ぼくは後者型であるが、冒頭でも書いた通り、これは癖である。

知はどのように鍛えられるか(2/2)

言うまでもなく、知とは「既知」である。既知によって「未知」に対処する。たとえば、ぼくたちの知は問題と認知できる問題のみを想定している。そして、問題を解決するべくスタンバイし、これまでに学んだ法則あるいは法則もどきにヒントを求めようとする。このようにして、程度の差こそあれ、ある種の「なじみある問題」は解決を見る。しかし、解決されるのはルーチン系の問題がほとんどで、真に重要な問題は未解決のまま残されることが多い。ぼくたちが遭遇する重要で目新しい問題の大半は、つねに想定外のものであり、法則が当てはまらない特性を備えている。

バリアもハードルもハプニングのいずれもなければ、大概の問題は何事もないかのように解ける。いや、勝手に解けることすらあるほど、苦労なく対処できる。経験の中に類似例があれば、ぼくたちの解決能力は大いに高まる。「この道はいつか来た道」や「この道は前とよく似た道」なら、誰だって既存の法則や解法を水先案内人よろしく活用して、目をつぶって歩いて行くことができる。だが、話はそんなに簡単ではない。現実世界はバリアだらけ、ハードルだらけ、ハプニングだらけなのである。

高齢者住宅や民家型デイケアセンターの設計を手掛ける一級建築士の友人がいる。「あまり大きな声では言えないが……」と断ったうえで彼はこう言った。

「正直な話、バリアフリーの行き届いた住宅というのは万々歳というわけにはいかないのだよ。床も壁も敷居にも凹凸がないから、お年寄りは危険の少ない環境で暮らしている。安心感を持つことはとてもいいことだけれど、長い目で見ると甘やかされた状態に安住することになる。ところが、一歩外に出れば小さな凹凸がそこらじゅうにある。バリアフリーに慣れきった感覚はほんのわずかな起伏にも対応できず、ちょっとつまずいただけで転んでしまうのさ。」


この話を聞いてぼくは思った、「これはまるで知のありようと同じではないか」と。問題解決の知に限定すれば、ぼくたちは認識できる問題だけを対象とし、そのうちでも解けそうなものだけに取り組む。時間に制約があればなおさらそうなってしまう。解けそうにないと判断すれば、問題集の巻末模範解答を覗き見るように、その道の誰かに答えを求めようとする。あるいは類似の先行事例にならおうとする。この状況での知は、バリアフリー環境で甘やかされた「要介護な知」にほかならない。そもそも調べたらわかることをソリューションなどとは呼ばないのである。

〈わからない→考える→まだわからない→さらに考える→それでもわからない→外部にヒントを探す→見つからない→誰かに相談する〉。これだけ手間暇かければ、知はそれなりに鍛えられもしよう。答えが見つかることが重要なのではなく、答えを見つけるべく自力思考することが知的鍛錬につながるのだ。昨今の問題解決は〈わからない→誰かに相談する〉あるいは〈わからない→調べる〉など、工数削減がはなはだしい。思考プロセスの極端な短縮、いや不在そのものと言ってもよい。甘ったれた練習をいくら積んでも、バリアだらけハードルだらけハプニングだらけの現実世界では右往左往するばかりである。

以上のことから、本番よりも甘いリハーサルが何の役にも立たないことがはっきりする。こと問題解決の知に関するかぎり、普段から難問に対して自力思考によって対峙しておかねばならないのだ。その鍛え方を通じてのみ、本番で遭遇するであろう「未知の問題」への突破口が開ける可能性がある。ぼくは、この知をつかさどる根底に言語を置く。言語を鍛え、対話と問答を繰り返して形成された知こそが有用になりうる。事変に際して起動しない知、アクセスできない知は、知ではないのである。 

知はどのように鍛えられるか(1/2)

自分では正論だと思っていつも書くのだが、正論を聞かされたり読まされたりする側はさぞかし面倒臭いのだろう。インスタントな学びなどない、学びとは厳しいものであるという趣旨のことをいつぞや書いたら、「そんな硬派なことばかり語っているから、あなたの話はとっつきにくいのです。もっとオブラートに包まないと」と指摘された。「いい歳になってオブラートなんかいらないだろう」と言ったら、「その通りですが、正論は可愛げがないのです」とも言われた。いつの時代も意見はちょっと胡散臭いくらいがちょうどいいのだろうか。

千や万に一つの成功事例を取り上げて、誰もが容易に成し遂げられるかのように「法則」に仕立てる風潮が強くなっている気がする。困ったものだ。たしかに法則そのものは誤っていないのかもしれない。しかし、よく目を凝らせば、そこらじゅうにいる誰もが実践できるような法則ではない。艱難辛苦を要する。しかも、立ちはだかる壁が怠慢という、手に負えない内なる敵であったりする。この際、はっきり認めておこうではないか。簡単にマスターできることは簡単なことであり、なかなか身につかないことはむずかしい。「簡易ハウツーによる高度な知の無努力達成」などありえないのだ。

何年にもわたって学んできたのに、満足できるほど身につかないヒューマンスキル。とりわけ上手に読み書きし、しっかりと考える力などは、左にあるものを右へ動かすような単純学習では手の内に入らない。また、単発知識を記憶するのはさほど難しくはないが、記憶した知を統合したり、別の何かへと連想を逞しくしたり、あるいは臨機応変に応用したりするなどのリテラシー能力は「道なり学習」ではものにならない。

たとえば、『「思考」が運命を変える』という書物でジェームズ・アレンが説く法則を実践できれば見違えるような結果を期待できるだろう。しかし、その肝心の思考は誰かから学べるものではなく、その知の働きは自力に委ねられる。また、『グズをなおせば人生はうまくいく』(斎藤茂太)での話もほぼ絶対の法則だと思う。しかし、人生失敗の根源であるグズそのものがなかなか直らないし、誰にも直してもらうわけにはいかない類いのものだ。なお、この二冊は昨今のトンデモ促成本とは質が違う。誤解があっては困るので申し添えておく。


『英語は音読だ!』(岩村圭南)という本があるらしい。これを紹介するNHK出版のサイトでは、次のように謳っている。

音読なくして英語は話せるようにならない! 音読をくり返すことで、正しく発音するための口の筋肉が鍛えられ、同時に、まとまりのある内容を表現するための会話の引き出しが増えます。さらに、CDをくり返し聞くことで正しい音を聞き取るリスニング力も身につく。『英語を話せるようになりたい』――あなたのその願いは、音読を続ければ必ず叶えられる!」

ぼく自身が手に取りすらしていないから、この本を推薦するわけではない。だが、少なくともここに書かれている紹介文には賛意を示しておきたい。古い拙著の中でぼくも次のように書いた。

ただひたすら読むこと――目が慣れ、口が慣れる。文字と音声が身体の一部になってくる。たいていの人は、この感触がわかるまでにギブアップしてしまうのです。試してみればわかりますが、意味すら十分に理解できていないのに、同じ文章を何度も何度も、それこそ百回以上も声に出して読むのは苦痛以外の何物でもありません。(中略)そう、この只管朗読こそが将来英語が続けられるかどうかのリトマス試験紙になるのです。」(『英語は独習』)

答えははっきりとわかっている。テレビのコマーシャルで「英語は音読」と唱える某予備校の英語教師も正しい(同じコマーシャルで二人目の英語教師が言う「英語はことばだ。ことばは誰でもできる」は励ましとしてはいいが、厳しい鍛錬を前提とせずに言っているのであれば怪しげなメッセージとなる)。英語のみならず、語学一般、最強の学習が音読であることに疑問の余地はない。音読以外の方法としては、現地で生まれて話しことばをどっぷり浴びることくらいだろう(ならば、この国のほとんどすべての人々は人生一度きりの機会をすでに失っている)。語学における音読は、繰り返しの重要性を物語る。 

この只管法則による習慣形成は知の鍛錬一般においても証明できる。但し、ただひたすら繰り返す日々のノルマはとてもきついのである。昨今の胡散臭いベストセラーには、入口をオブラートに包んで招き入れ、最終ゴールイメージまで「容易であること」を装う傾向がある。書物だけではなく、平然と講演でもそう言ってのける講師がいる。「このやり方なら、誰でもできます!」と幻想を植え付けるのはほとんど詐欺罪に等しい。並大抵ではないことを強調して、学ぶ側に覚悟を決めさせることこそがよき導きではないのか。

自分を語り込む

挨拶とほんのわずかな会話を交わしただけ。しかも、それが初対面だったとしよう。そして、それっきりもう会うこともなさそうだとしよう。こんな一過性の関係では、その時の第一印象が刷り込まれる。やがて印象も薄れ記憶から遠ざかってしまうかもしれないが、もしいつか再会することになれば、そのときは記憶に残っている「原印象」を基に接したり会話したりすることになる

第一印象というのは、付き合いが長くなるにつれて「第一」ではなくなり、それまでの印象は会うたびに塗り替えられていく。第一印象の第一は一番ではなく、「最初の」という意味である。だから、一度だけ会っておしまいなら、その一回きりの印象、すなわち第一印象――あるいは最終印象――によって人物のすべてを描いたり全体像を語ったりすることになる。但し、何度か会う関係になれば、再会するたびに第二印象、第三印象……第X印象を抱くことになるから、印象は会うたびに更新されていく。

「あいつ、こんな性格じゃなかったはずなのに……」とあなたが感じる。だが、それは必ずしも実際にあいつの性格が変わったことを意味しない。ほとんどの場合、あなたのあいつに対する印象が変わったのである。あいつの印象は良い方にも悪い方にも変容するだろう。だからと言って、あいつが良くなったり悪くなったりしているわけではない。むしろ、前に会った時からのあなたの見方・感じ方が変わったと言うべきかもしれない。


二者間においてどのようにお互いが印象を抱くかは興味深い。お互いが正真正銘ののままの状態で対面することはほとんど稀である。ABの印象を抱く時点で、BAの印象を抱いている。ABに抱く印象には、BAを見ての反応が含まれている。つまり、ABから受ける印象はすでに「Aという自分を経由」しているのである。ABの関係は出合った瞬間から相互反応関係になっていて、独立したABという状態ではないのだ。あなたが彼に抱いた印象は、あなたに反応した彼の印象にほかならない。鏡に向かった瞬間、鏡の向こうの自分がこちらの自分を意識しているという感覚は誰にもあるだろう。あれとよく似ているのである。

第一印象の良い人と良くない人がいる。一度きりの出会いでは決定的になる。しかし、何度も会うごとに良い人だったはずがさほどでもなく、逆に良くなかった人が好印象を回復していくことがある。黙して接していたり傍観していたりするだけなら、印象変化は立ち居振る舞いによってのみ生じる。それはビジュアル的もしくは表象的なものにすぎない。見掛けの印象にさほど興味のないぼくは、多少なりとも踏み込んだ対話や問答を積み重ねて印象を実像に近づける。いや、実像など永久にわからないことは百も承知だ。しかし、お互いに対話の中に自分を語り込まねば印象はいつまでも浮ついてしまう。

沈黙は決して金などではない。むしろ「金メッキ」でしかない。かと言って、沈黙の反対に雄弁を対置させるつもりもない。ぼくが強調したいのは、自分らしく問い自分らしく答え、自分らしく自分を語り込んでいく対話の精神である。表向きだけの付き合いなら装えばいいだろうし、束の間の関係なら形式的に流せばいいだろう。本気で人間どうしが付き合うのなら、ハッピーに空気を読むだけではなく、棘も荊も覚悟した時間と意味の共有努力が必要だろう。

自分を語るのではなく、自分を「語り込む」のである。語りと語り込みの、関与の違い、まなざしの違い、相互理解の違いはきわめて大きい。

楽なように見えてきついこと

私塾大阪講座の今年度第1講が今日の午後に始まる。昨年までは午前10時から午後5時半までだった。ぼくにとってはまったく長丁場ではないが、昼食を挟んでの7時間半の思考鍛錬は慣れない人にはきつい。というわけで、本年の全6講は午後1時半スタート、6時半終了の5時間に変更した。午後からという気楽さ、二度か三度の休憩を挟んでの5時間は取り組みやすい。

しかし、この変更は「気楽にやれて、取り組みやすそうだ」というカモフラージュにすぎない。時間短縮は時間密度の高まりを意味する。なにしろ、ぼくの場合、時間量に合わせて講座を企画し話しているのではない。こんな講座でこういう学びと鍛錬機会を得てほしいと構想して、その内容をすべて盛り込むのが流儀なのだ。したがって、時間の多寡で内容は大きく変わらない。短時間になればそれだけきついというわけである。


道具は便利である。かんなは木材の表面を滑らかにしてくれたし、自動車は徒歩一日かかる場所へほんの12時間で連れて行ってくれるようになった。いろんな便利があるが、最たるものは出来の良さ、負担軽減、そして時間の効率だろう。とりわけ携帯電話や最新IT機器がこうした効率に関わる不便を便利に変えたのは間違いない。

ところが、便利になった一方で、人間から何かを引き算するのも近年の道具に共通する特性だ。鉋あたりで止まっている道具のほとんどは、見事な出来映えを可能にし、使い手の作業の負担軽減とスピードアップに寄与している。他方、携帯やIT機器はどうか。これらを使わなかった時代の人々に比べて現代人が格段にいい仕事をしているとは思えない。また、仕事を楽々こなしているようにも見えないし、短時間労働で切り上げて余暇を楽しんでいる様子も窺えない。

ぼくは楽になるためだけに道具を使うまいと心に決めた。道具は自分一人で達成できない仕事の質や生活の質の向上に用いるべきだろう。道具の価値を効率的便利だけに置くのをそろそろやめたほうがよさそうだ。道具に囲まれて送る日々の仕事や生活は、逆説的にとてもきついのである。


「きみは何をしたいのか?」を問うことは、「きみが他者、ひいては世間に何を施したいのか?」を問うことと同じである――こう言っておいて、あとは知らん顔したら、彼は意味がわからないようで苦悶していた。

「何かをしたい」は願望である。この願望が現実に叶うためには、好き勝手であっていいはずがない。その願望が行動になることを他者が求めてくれないかぎり、願望が実現する場所はない。人間社会というのはそうなっているのである。自分のしたいことは他人が求めることと同じであり、願望と施しは表裏一体でなければならない。

これは他者や世間のニーズに合った願望を持てということではない。そういう迎合的・反応的生き方をするならば、もはや願望ではない。「自分のしたいこと」が始めにありきでいいのである。その願望が他者や世間への施しにつながるように実現させる努力をするのだ。「夢や希望を持て」と訓を垂れるのは簡単だが、したいことをすることは実はとてもきついことなのである。

表現にみる発想の違い

日本語でも外国語でも初めて見る用語や不確かな単語は辞書で調べるのがいい。推測は危険である。推測のひどい形が、他人から尋ねられ、知ったかぶりしてでっち上げるケースだ。その昔、ビールを飲まない英語教師が、「先生、ビール瓶のラベルに書かれている”エル、エー、ジー、イー、アール”はどういう意味ですか?」と生徒に聞かれた。その教師は“l-a-g-e-r”と人差し指で綴り、「それは、より大きな、つまり大瓶という意味だね」と捏造した。

言うまでもない、“lager”は「ラガー」というドイツ語由来の「貯蔵」ということばだ。低温で貯蔵熟成させるビールの総称であって、“larger”(より大きな)とは綴りが違っている。捏造した教師はその場を切り抜けることはできなかった。なぜなら、尋ねた女子生徒が「そうなんですか。でも、小瓶にもその綴りが書かれているんですが……」と追い討ちをかけたからである。生兵法は怪我のもと。その道のプロと言えども、いや、その道のプロだからこそ、知らないことは確かめねばならない。

外国語に関して言えば、和製英語にたくさんの落とし穴がある。ぼくは1970年代の前半に数年間英語教授法の研究に携わりながら自らも英語講師として現場で授業を担当していた。ぼくが英語を学ぶ前から「ナイター」や「サラリーマン」などの和製英語はふつうに使われていた。なかなか創意工夫された表現だとは思うが、前者が“night game”、後者が、まったくイコールのニュアンスにはならないが、“employee”“office worker”である。さきほど和製英語ランキングというサイトを覗いたら、「オーダーメイド」「スキンシップ」「コンセント」の三つが上位を占めていた。それぞれ順に“custom-made” “personal contact” “outlet”が正しい英語と書いてある(但し、私見では、スキンシップ(和)とパーソナルコンタクト(英)を単純対応させるのは危険。文脈的翻訳が必要だろう)。


和製英語に厳しい向きもあるが、文化比較の材料になっておもしろい。もともとの英語が日本風土でなじめないとき、特に発音しにくい時にこなれるようにアレンジされる。連日サッカーの試合で盛り上がっているが、あの「ロスタイム」は和製英語である。試合の前半・後半のハーフ45分間のうちに「ケガなどによって中断され、失われた時間」を意味している。とてもわかりやすいが、不思議な表現だと思わないだろうか。「ロスタイム3分」というのは、「失われた時間は3分」と言っているにすぎないのだ。だから何、だからどうするかなどまで言及してはいない。

英語ではちゃんと言及している。“Additional time”(アディショナルタイム)と呼んでいて、失った時間を足して「追加の時間」と表しているのである。この一例だけで比較文化を気取るわけにはいかないが、とても興味深いではないか。わが国でロスタイムと「現象」を表現するのに対して、英語では「対策」のほうを表現しているのだ。わかりやすく言えば、「失う」ほうを強調するか「足す」ほうに力点を置くかの違い。時間を還付するのであるから、英語のほうが適切だ。しかし、ロスタイムは言いやすくわかりやすい。

「ああ、失くしちゃった」と言うか、「さあ、足しちゃおうか」と言うかの違い。そして、「失くした」と言いながら「足す」の意味に転用している。それがロスタイム。まるで、「転んだ」を「起き上がる」に使っている感じだ。そう言えば、野球用語にも和製英語がいくつかある。たとえば、おなじみの「デッドボール(死球)」。これは打者に当たった後に転がったボールが主役。英語では“hit by pitch”で「投球による(打者の身体への)当たり」という意味で、目線は人に行っている。

ちなみに“bases on balls”とは「審判による四つのボール判定によって打者が一塁に出ること」。これを明治の時代に「四球」と訳した。感服する(ほとんどの野球用語は正岡子規が訳して広めたことはよく知られている)。この四球、メジャーリーグの中継を英語実況で観戦していると、ほとんどの場合“walk”と言っている。打って一塁へ走るのではなく、堂々と「歩いて行ける」からウォークだ。この四球とウォークの関係が、ロスタイムとアディショナルタイムの関係に似てはいないだろうか。ここでも前者が現象、後者が対策になっている。もちろん、興味本位に見つけた事例であって、二例を以て一般法則を導くつもりなどさらさらない。

インスピレーションと知の統合

世の中にはアイデアマンと呼ばれる人とアイデアがひらめかない人がいる。総合的な能力差がなくても、アイデアの質と量には歴然とした差が見られる場合がある。自ら企画の仕事に30年、また企画の研修や指導に20年携わってきて、なぜそのような差が生れるのかに大いに関心を抱き分析しようとしてきた。「地頭」の違いなどと簡単に片付けるつもりはない。もっと別の何かがあるはずだと思っている。この記事一回きりで結論が出るわけでもないが、ラフスケッチだけ描いておきたい。

「統合失調症」という精神の病については以前から知っていたが、最近ある本を読んでいたらこのことばが出てきた。精神分析の専門書ではないが、常識の喪失との関連で書かれていて興味深く、アイデアとインスピレーションを別角度から考察するきっかけになってくれた。統合失調とは、精神機能のネットワークが不全に陥っている状態である。認知症もその一つのようだ。たとえば、「~しなければならない」とか「~したほうがいい」と強く意識していても、実際はそれができないという状態である。この精神の病は、どこかアイデアが出にくい状態に似ているような気がする。

仮にぼくの弟の名前を「久左衛門」とするとき、誰かと会って「大坂久左衛門です」と自己紹介されたら、「あっ、弟と同じ名前だ!」と思う。時間をかけてわかるのではなく、瞬時にその人と弟の名が照合されて一致していることに気づく。久左衛門という名前の特殊性もあるが、それだけで頭が働いたのではない。それが「たつお」や「しょうじ」や「ゆういち」であっても、何らかの照合作用が起こるものである。しかし、まったく何とも感じない人もいる。


「ここにいる5人の中にあなたの知っている人はいるか?」と尋ねたら、彼(P)は一人ひとりをよく見て「いません」ときっぱりと言った。その数分後、5人のうちの一人()が彼のところへやって来て「こんにちは!」と声を掛けた。そして、「昨日はどうも」と言ったのである。結論から言うと、昨日の夜、PQの二人は他の複数の人たちとともに会話の輪に入っていた。PQと会話したのを覚えていたが、その人の顔を再認識することはできなかった。昨日の今日にもかかわらず。Pにとって、会話とQの顔は別物だったのである。

あることに部分的な強い関心があっても、そのことが本人の知覚全体の中で孤立していたり居場所を持たなかったりすることがある。他の事柄とつながらないからひらめきが起こらない。たとえばスプーンは口に食べ物を運ぶ道具としてフォークや箸と同じ群にあり、同時に相互に差異によって成り立っている。したがって、さほどの努力をしなくても、スプーンというモノまたはことばからフォークや箸は連想されるだろう。この種のネットワークが細かく広がっていれば「意外なつながり」、つまりインスピレーションが起こりやすい。

他人にとって無関係に思える二つのものが、アイデアマンにとっては関係性の事柄どうしに見えている。エドワード・デ・ボノはたしか「無関係な願望」と「目新しさ」の強い関連を指摘していた。また、うろ覚えだが、エドガー・アラン・ポーも「熟考とは深さではなく、広がりである」というようなことを言っていた。一ヵ所の垂直的深堀よりも複数個所の水平的連鎖のほうがひらめきやすいのである。複数の情報をよく取り込んでも、それぞれの情報を相互的に関連づけなければ、知が統合されることはない。これは習慣形成によるところが大で、要するにぼんやりと惰性で生活したり仕事したりしていては、アイデア脳が生まれないということである。 

他者の成長

あくまでも他者の成長についての観察と実感である。ぼく自身の成長についてはひとまず括弧の中に入れた。また、他者の成長を二人称として見るのではなく、三人称複数として広角的に眺望してみた。つまり、他者を間近にクローズアップするのではなく、少し距離を置いて親近感を薄めてみたのである。観察であって、冷めた傍観ではない。実感であって、ふざけた評論ではない。

十数年間付き合っていても、他人の気持などなかなかわからない。自我認識でさえ危なっかしいのに、他我の考えに想像を馳せるのは至難の業だ。しかし、樹木の根や幹の内部が見えなくても、葉の生い茂りぶりと果実の色づきや膨らみを観察できるように、発言や行動はしっかりと目に見える。内面的な概念や思考が言語に依存するというソシュール的視点に立てば、言動を中心とした変化――時に成長、時に退行――は知の変化そのものを意味する。

最盛期には、年に数千人の受講生や聴講生に出合った。ほとんどの人たちとの関係は一期一会で終わる。今も縁が続いている人たちは数百人ほどいるが、毎月二、三度会う親しい付き合いから年賀状社交に至るまで、関係密度はさまざまである。職業柄、他者を観察する機会に恵まれているから、十人十色は肌で感じてきたし個性の千差万別もよく承知しているつもりだ。人の心はなかなか掴めないが、言動に表れる成長に関してはかなり精度の高い通信簿をつけることができるはずである。

ぼくは自他ともに認める歯に衣着せぬ性格の持ち主である。毒舌家と呼ばれることもある。ほんとうに成長している人物には「たいへんよく成長しました」と最大級の褒めことばを贈る。だが、いくら率直なぼくでも面と向かって「きみは相変わらずだね」とか「ほとんど成長していないね」とは言いにくい。ゆえに、成長していない人の前で成長を話題にすることはなく、黙っているか、さもなくば「がんばりましょう」でお茶を濁す。裏返せば、「成長したね」とか「このあたりがよくなったね」などとぼくが言わない時は、「成長が見られない」と内心つぶやいているのに等しい。


たった一日、場合によってはほんの一時間でも、人は成長できるものである。決して極論ではない。他方、どんなに刻苦精励しようとも、何年経ってもまったく成長しない――少なくともそのように見える――ケースもある。周囲を見渡してみる。伸びている人とそうでない人がいる。昨年はよく成長したが、今年になって減速している人もいる。五年よくて五年悪ければ相殺されるから、結局は十年間成長しなかったことになる。三十歳だからまだまだ先があると思っていても、四十歳になってもほとんど成長していなかったということはよくある。もちろん本人は自分の成長をこのように自覚してはいない。誰もが自分は成長していると自惚れるものだ。

ところで、体力と精神力が低下すると知力が翳り始める。年齢と成長曲線の相関? たしかに加齢による心身劣化は不可避だ。しかし、加齢よりもむしろ不健康な習慣のほうが知の成長・維持を阻害する。不健康状態が長く続くと新しいことが面倒になり、これまでやってきた旧習に安住して凌ごうとする。うまく凌げればいいが、そうはいかない。毎日少しずつ人生の終着点に近づいているぼくたちだ、無策なら可能性の芽も日々摘み取られていくばかり。

成長には心身の新陳代謝、すなわち新しい習慣形成(あるいは古い習慣の打破)が欠かせない。そして、習慣形成に大いに関わるのが時間の密度なのである。成長は時間尺度によって端的に数値化できる。これまで二日要していた仕事を一日で片付けることができれば成長である。無用の用にもならないゴミ時間を一日2時間減らせば成長につながる。わかりきっていることを何度も何度も学び直すのもゴミ時間。その時間を未知のテーマを考える時間に回す。それが成長だ。つまらない人間とつまらない話をして過ごすつまらない飲食のゴミ時間を減らす。要するに、無為徒食をやめ、束の間の自己満足をやめる。失った貴重な時間を誰も損失補填してくれない。

ぼくの立ち位置からいろんな他者が眺望できる。ある人の過去と現在を比較できるし、その人と別の人の比較もできる。このままいくと彼は行き詰まるぞ……あの人はいいリズムになってきた……数時間前に会ったときから変わったなあ……いつになったらこの道がいつか来た道だということがわかるのだろう……こんなことが手に取るように観察でき実感できる。時間の密度と価値を高める生き方をしている人は伸びている。もちろん、ぼくも誰かによって成長通信簿を付けられているのを承知している。

固有名詞が消えるとき

固有とはそのものだけにあること。おなじみの固有名詞は人名や地名などの事物の名称を意味する。「イヌ」は普通名詞だけれど、「ラッキー」や「ポチ」は固有名詞ということになる。しかし、ちょっと待てよ、ラッキーとかポチと命名された犬はどこにでも普通にいるではないか。たしかに、まったく固有というわけではない。

広辞苑では、固有名詞を「唯一的に存在する事物の名称を表す名詞」と定義している。厳密に解釈すれば、名称の差異だけではなく個体の差異が重要なようだ。名前が同じでも、あそこのラッキーとうちのラッキーは違う。見た目が違う。仮に同じポメラニアンであっても、いずれの飼い主も個体差を見分けることができる。だからラッキーは固有名詞、というわけなのである。何が何でもどこにもない名前にしたいのなら、同姓同名を嫌うブラジル人のように延々とミドルネームを足し算するしかない。けれども、そんな呼称は面倒極まりないので、結局「ジーコ」と略すことになり、固有性は薄まる(それでもなお固有名詞ではある)。

動物や事物に名前を付けるのは、それらに「私の」や「われわれの」という所有意識や愛着を抱く時やその他大勢から区別したい時だろう。普通名詞のまま扱うのではなく、固有名詞を与えようと思い立つのは、個体としてのアイデンティティを容認したからである。ペットの犬や猫に名前を付けるが、市場で買ってきて、まだ生きている伊勢えびにニックネームは付けない。「そりゃそうだろ、食べる対象には名前は付けないよ」と言った友人がいたが、そんなことはない。一頭買いしている行きつけの焼肉店では、「本日の黒毛和牛 ハナコ 牝4歳」なる鑑定書のコピーがメニューと一緒にテーブルに置かれている。


ついさっきまで「ジローさん」と呼んでいたのに、ある瞬間から「あなた」に変わってもあまり違和感はない。なぜなら、そこにはジローさんと、ジローさんと呼んでいる人物の二人しかいないからだ。「ジローさん、あなたはね……」という同一文章内の並列も実際にある。仮にずっと「あなた」と呼び続けても、ジローの唯一的存在が否定されるわけではない。あなたという呼称は決して脱固有名詞的ではなく、二人の関係においてはジローと同等のアイデンティティを受け持っている。

ところが、サッカーのワールドカップを観戦していて、ぼくは固有名詞が消えるのを何度も目撃したのである。ついさっきまで「クリスティアーノ・ロナウドの華麗なシュート!」だの「メッシがドリブルで突破する!」だのと実況で叫んでいた。にもかかわらず、相手チームがフリーキックをしたボールがロナウドに当たっても、「ボールがロナウドに当たって跳ね返る」とは言わない。ボールは「壁」に当たったのである。あのロナウドが壁になって固有性を失うのである。

競馬にも同じようなことがある。厩舎で管理されているときは「ディープインパクト」と呼ばれている。レースへの出走が決まれば予想紙の馬柱にもその馬名が書かれる。武豊が騎乗して名馬と名騎手の名コンビがゲートを出る。だが、万が一落馬すれば、その瞬間ディープインパクトは名前を失うことになっている。稀代の名馬は、レースが終わるまで「空馬からうま」という無名状態になり下がるのだ。まだレースを駆けている他馬にとっては、邪魔な存在以外の何物でもない。

ロナウドは壁になっても直後にロナウドに戻るし、名馬は一度空馬になっても種牡馬としてスタリオンで繋養される。しかし、現実の人間関係や仕事の文脈でぼくたちがいったん固有名詞を失うと、ただの普通名詞として、あるいは名のないイワシや物体同然に扱われ続けるだろう。関係性の中で固有名詞的存在であり続けるのはたやすくないのである。手を抜いたり油断をしていると、「壁」と呼ばれ「空っぽ」と呼ばれてしまう。何としても最悪「あのオッサン」までで踏み止まらねばならない。