ディベートセンスのない困った人たち

「どっちもどっちだ」という言い回しをあまり好まないが、こう表現するしかないという結論に達した。嘆かわしい失言とそれに対する季節外れのような攻撃、どっちもどっちである。

柳田稔は「法相は二つのフレーズさえ覚えておけばいい」と支持者を前にして言い放った。二つのフレーズで国会での答弁を切り抜けることができると種明かしをしたものだ。その二つのフレーズは、政策論争の場には似つかわしくなく稚拙であった。おそらく学生たちが練習する教育ディベートの議論としても成り立たないレベルである。答えが分からくても切り抜けられると彼が言ったフレーズは次の二つである。

 個別の事案については答えを差し控える。
2   法と証拠に基づいて適切にやっている。

この話を聞いて、ぼくは冗談だろうと思ったが、実際に過去のビデオを見たら、更迭された元法相はこれらのフレーズを答弁で用いて切り抜けていた。この二つが答弁必勝法だとは呆れるばかり。と同時に、この逃げ口上を追い詰めることもできない尋問者も情けないかぎりである。失言・無責任・国会冒涜を非難する前に、尋問の甘さを悔い自戒すべきである。

ディベートの反対尋問にも、相手の質問を切り抜けるいくつかのテクニックがある。たとえば初心者向けの一例として、イエスかノーかの返答に困ったら、ひとまずノーと答えよというのがある。これに対して初心者の相手が「なぜノーか」と尋ねてきたら、「ノーに論拠などない」と答えておく。さらに相手が「それはおかしい」と反発してきたら、「何がおかしいのか教えてほしい」と攻守逆転させる。うまくいくかどうかは別として、初心者どうしならたいていペースを握れる。


上記のテクニックはれっきとした詭弁術である。こんなテクニックをぼくは決して本気で教えているのではなく、半分ギャグのつもり。けれども、意表を衝かれた質問に対して苦しまぎれの振る舞いを見せるわけにはいかない。プロフェッショナルと言えども、どんな質問にでも臨機応変に即答できるわけではないのである。ゆえに、答弁者にとって何らかの遁辞とんじは不可避である。その遁辞を尋問者は即時にその場で捉えて弁明させねばならない。後日になってから後援会での暴露に怒り心頭に発しているのはタイミング外れと言わざるをえない。

もう一度二つのフレーズを見てみよう。「個別の事案」について語らなくていったい何を語ると言うのだ。個別の代わりに、一般的で複合的な事案なら答えを出すのか。一般的で複合的とは普遍的ということか、それとも抽象的ということか。たとえば国防の場合、「尖閣」そのものは語らないが、「領土問題」については答えてもいいということか。こんなふうに詰めていけば、いくらでも尻尾をつかめたが、尋問者はまんまと逃がしてしまったようだ。二つ目の「法と証拠に基づいて適切にやっている」については、「適切に」を争点にして掘り下げる。法と証拠を追いかけるといくらでもはぐらかしが効きそうである。

個人的には国民がなめられたとぼくは思わない。なめられたのは野党の論争能力と反対尋問技術である。ゆえに野党は激怒するのだが、ならばあの程度の答弁なら百発百中で崩してもらわねば困る。ところで、元法相は政界引退後しばらくして自伝の中で告白しておけば笑い話で済んだだろう。現役中にギャグっぽく言ってのけては引責辞任も免れない。ぼくなら問責されないが、大臣には立場というものがある。お偉い方々は「人間は地位が高くなるほど、足元が滑りやすくなる」というタキトゥスのことばを噛みしめておくべきだろう。ついでに「口が滑ると足元が滑る」も覚えておくのがいい。

「最初はノー」

とてもおもしろい資料が出てきた。B5判用紙が30枚。両面印刷なのでノンブルは60ページまで付いている。各ページの文字数が40字×43行だから合計1,720字。相当な分量の資料になる。文庫本なら一冊に相当するかもしれない。

今から13年前(当時46歳)の講演録だ。タイトルは『ディベートから何を学ぶか』。主催・対象ともに行政の職員組合のメンバーで、12時間半のセミナーを3回シリーズでおこなった講演とディベート実習の模様を収録している。懐かしさも手伝ってざっと目を通した。今でこそ年季の入った緩急自在な話し方をするようになったが、当時は終始早口で、特にディベートをテーマにした話の場合は、初心者が戸惑うほど流暢だったのではないかと思う。

懐かしさ以上にあらためて驚嘆したのは、その講演を収録したテープ起こしを担当したF氏の尋常ならぬ執念である。出版するわけでもなく、学んだ仲間十数名で共有するだけの資料づくりに、よくもこれだけのエネルギーを費やしたものだと感じ入る。ぼくの話は筋が通っているとは思うが、近接領域へとよく脱線するし、話がどんどん膨らむし、しかもテーマがディベートだけに、難解な用語やカタカナも頻出する。再生と巻き戻しを繰り返してテープレコーダーを操作しては一時停止し、一言一句文章化していったF氏の姿が浮かんでくる。


ディベートにつきものの反対尋問、とりわけイエスとノーで問うことの意味については第2 回の講演で説明している。しかし、もう一点、かつてのディベート研修では必ず冒頭のほうで取り上げていた金言が漏れている。今となっては出典がわからないのだが、文言だけはよく覚えている。「あなたの意に反して即断を迫られた時にはノーと答えよ。イエスをノーに変えるよりもノーをイエスに変えるほうがたやすいから」というのがそれだ。「迷ったらノー」が原則で、ノーからイエスへの変更に対して交渉相手は文句は言わないが、イエスと言っておきながら土壇場でノーに変えるのは潔くなく、それどころか、相手の反感を買うという教えである。ジャンケンの掛け合いは「最初はグー」だが、対話や交渉のスタンスでは「最初はノー」ということになる。

ディベートの肯定側と否定側のように、あるテーマを巡って対立している二人が対話を始める時、心の中では「最初はノー」を唱えておくのがいい。ディベートの対立図式は終始変わらないが、日々の対話ではノーから始めて徐々に接合点を見つけ、やがて各論的にイエスにシフトしながら、理想的には少しでもコンセンサス部分を増やしていく。物分かりのいい「最初はイエス」でお互い受容し共感し合っても、検証不十分のツケは後で回ってくる。最初はいいが後々になってもつれてくると事態の収拾がつかなくなる。

意気投合というようなバラ色の出発をしてしまうと、小さな違和感一つが大きなひび割れの要因になってくる。「一週間で納品してくれるか?」と聞かれ、仕事欲しさのあまり「イエス」と慌てて答え、納品のその日になってから「すみません、あと一日いただきたいのですが」と申し出たら、発注者は心中穏やかではない。「君ができると言ったから頼んだのだぞ!」と叱責される。安易にイエスから入ってノーで風呂敷を畳むことはできないのだ。

「結婚してくれる?」と男がプロポーズし、女が「はい、喜んで」と答える。一週間後、「ごめん、やっぱりノー」と変更したら、これは事件である。もしかすると、本物の事件になるかもしれない。反対に、ずっとノーを言い続けた女が最後の最後にイエスに転じたら、もう一生涯男を尻に敷くことができるだろう。ぼくの場合、ノーから入って仕事の機会を失ったこともあるが、最初に「できないことをできない」と明言する誠意によって圧倒的に機会に恵まれた。但し、「最初はノー」はあくまでも原則論であって、昨今は一度のノーで「あ、そうですか」で終わりになることも多々あるから、杓子定規は考えものである。