中立的立場によって見えるもの

これはへきというしかないが、中立的な立場でスポーツを観戦するようになって久しい。完全中立はありえないものの、勝敗結果を冷静に受け止め喜怒哀楽を表に出さない。その時々の成績や勝敗にめったに一喜一憂しないのである。それでも、日本選手が国際大会で活躍し表彰台に上ることを願っているし、現実にそうなれば祝福もする。だから、ぼくの飄々とした態度に反応して、「日本選手が勝ったのにうれしくないのか!?」とか「日本チームが負けたのに悔しくないのか!?」と詰問されても困るのだ。感情を見せなくても、勝ったらうれしいし、負けたら悔しいのは言うまでもない。

ふがいない日本国の状況や日本人を見るたびに辛口論評したくなるぼくではあるが、アイデンティティがカメルーン色になったりオランダ色になったりデンマーク色になったりと七変化するわけがない。おそらく一定して日本カラーである。パラグアイに縁もゆかりもないし、遠い親族にもパラグアイ人は見当たらない。したがって、一昨日のワールドカップ観戦にあたって、ぼくの心情は当然日本チームに傾いていた。ただ、悔しさのあまり眠れなくなるなどということはありえないし、あのときゴールが決まっていたらなどと無念を引きずらないのである。

ところで、二大会前の日韓開催時に運よくベルギー大使館経由でベルギーvsブラジルのチケットを手に入れた。そして、サッカーとは縁のない格好で神戸に出掛けて観戦した。圧倒的なブラジル色の観客やサポーターに紛れて、小ぢんまりとしたベルギーゾーンで一度も立ち上がりもせずに淡々と観戦していた。ホットにならないから「こいつは義理で来ているのか」と周囲の知り合いに思われたかもしれないが、そんなことはない。ぼくなりに十分に戦況を見つめて分析し、展開推理も楽しんでいた。ちなみにサッカーはお気に入りスポーツの一つである。ただ、テレビによく映し出される狂信的なサポーターからは程遠い。


野球の日本選手はアジア予選を勝って歓喜に酔った。マスコミはこぞって賛辞を送った。ところが、本番の北京五輪ではメダルにも手が届かず、星野氏は名監督の座から引きずりおろされた。これとは逆に、今回のサッカーワールドカップへの評価は終り良しとなった。「岡田更迭および期待薄」から「監督賞賛および大健闘」への鞍替えだ。しかし、目標のベスト4に届かなかったという点では、岡田氏自身が吐露したように「力不足」だったのである。数学50点の子が目標の90点に届かず、70点に終った。これを「よくやった」と見るのは現状50点からの視点である。目標の視点に立てば、やっぱり力が足りなかったと言うべきだろう。

たとえ運も絡むと言われるPK戦の敗北であっても敗北には変わりはない。PKのシュート1本の成否で2時間の戦いに決着がつくのはつらいが、勝負はそのように決まるものだ。歓喜と落胆は紙一重。短期間に生じるであろう浮き沈みに対して、変化のたびに一喜一憂しても仕方がない。だから、ぼくは短兵急に褒めたりけなしたりしないようにしている。一瞬をとらえての気まぐれな毀誉褒貶きよほうへんによってぼくたちは誤る。

大会直前の4連敗で岡田監督の采配に批判が集まり、選手の戦いぶりも叩かれた。あの4試合が仮に「快勝、惜敗、辛勝、完敗」と様々であったなら、マスコミもファンもそのつど一喜一憂するばかりで、風見鶏的な評価を繰り返していたに違いない。前哨戦は前哨戦であり、前哨戦の力量が本番でもそのまま発揮されるのか、それ以上になるのか、それ以下になるのかは、実際に戦ってみなければわからない。たしかに、臨場感を爆発させて一喜一憂するのがスポーツの醍醐味であることを承知している。しかし、そうであるならば、もっと単純に自分や仲間内での感情の発露にとどめるべきで、当事者に向けて、いかにも分析的らしく、したり顔の最終結論めいたコメントを尻軽にすべきではない。

「延長戦のあの場面で1点を取っていたら……」と誰かが言うから、「それを言い出したら、パラグアイだって同じ思いだろう」とぼくはコメントした。涙の対岸には歓喜がある。こちらが喜べば相手が悲しむ。それがスポーツだ。感情移入して一方に肩入れする観戦もあれば、ぼくのようにいずれかを応援しながらも、勝負の摂理や機微を楽しむ方法もある。

対抗ゲームにおいて中立的見方を楽しむようになったのは、長年のディベート審査体験と無関係ではない。力が拮抗していれば勝ったり負けたりが常であることを知っている。一方に偏して討論に耳を傾けるのではなく、肯定側vs否定側の関係図式上にゲームを眺める。スポーツも同じで、私情を消し去れないことをわかったうえで、なおかつ精一杯中立的に眺めてはじめて感じられるおもしろさがある。選手たちと一体になるような応援の形態もあれば、選手たちの活躍ぶりを静かに観戦する形態もあっていい。ぼくは後者型であるが、冒頭でも書いた通り、これは癖である。