ジョルジオ・モランディのこと

ボローニャ モランディ

本の仕分けと所蔵のことでずっと頭を痛めている。美術関係の図録や海外で買い集めた街のガイドブックなどは分厚く重い。雑誌もかさばる。これらが幅1メートル、3段の棚を占めている。何とかしようと整理にかかると、珍しいものに出くわし、座り読みして作業が渋滞する。昨日ぼくの手を止めたのは20055月号の芸術新潮。特集は『モランディのまなざし』である(写真がその雑誌とモランディの作品のポストカード)。

ジョルジオ・モランディ。回りに知っている人はほとんどいない。ぼくも12年前は知らなかった。1890年イタリアのボローニャで生まれ、1964年に73歳で亡くなるまでほぼ生涯をボローニャで過ごした。20043月、ぼくはボローニャに滞在し、マジョーレ広場へ出掛け、敷地内にある市庁舎を訪ねた。その市庁舎内でモランディ美術館の存在を知り、モランディ作品を鑑賞する縁があった。

とにかくモランディは静物画ばかりを描いた。静物画の主役はほとんどがびんである。いろいろな壜を描いたが、まったく冴えない同じ壜でさえ執拗に繰り返し描いた。美術館で作品を眺めながら、「静物画だけに静かだ……おとなしくて上品だと言ってもいい……けれども凡庸だ……この程度なら……」と感じていた。これがぼくの第一印象である。鑑賞する作品のほとんどに〈静物〉という題がついている。静物、静物、静物……絵画にもタイトルにもちょっとうんざりした。


おもしろいものである。あまり感心をしたわけではないのに、見終って出口近くのミュージアムショップに寄ると、ふとジョルジオ・モランディが近い存在に思えてきた。見た目にあまりパッとせず口あたりもよくない料理だったけれど、食べているあいだに癖になり、舌の上で食味の余韻が残っているような感じがしてきた。立ち去りがたく、しかし、いつまでも佇んでいてもしかたがないから、ポストカードを数枚買って市庁舎を後にしたのである。

冒頭の芸術新潮にモランディのことばが紹介されている。

「人が実際に見ているものほど抽象的で非現実的なものはない(……)客観世界について見てとることのできるものは、私たちが主観であり客観でない限り、それを見て分かったと思うとおりに存在しているわけでは決してないのです(……)私たちに知ることのできるのは、木は木、コップはコップであるということだけなんです」

要するに、壜は壜なのである。モランディは、何の変哲もない壜を、描くのと同等かそれ以上のエネルギーをかけて観察したという。脱主観の境地に達するまで見つめ続けたのだろうか。

EPSON MFP image

翌日、ボローニャ名所の一つである斜塔の木造階段を恐々上り、マジョーレ広場と市庁舎を見下ろした。ボローニャはめったにツアールートに入らないが、個性ある街という点ではミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェ、ローマにひけを取らない。それどころか、ここでしか感応できない対象がある。モランディ美術もその一つと言えるだろう。もちろん、タリアテッレのボロネーゼも忘れられない。

そぞろ歩き

夏場になると歩く距離が短くなる。加えて、出張時には現地でもタクシー移動が多い。大阪にいる時も自宅とオフィスの往復30分程度の歩き。身体がなまってくる。無性にそぞろ歩きしたくなるが、暑さと闘う気力が湧き上がらない。昨日、講義でコンパクトシティに触れた際にフィレンツェの話をした。ふとがむしゃらなそぞろ歩きのことを思い出した。

七年前、一週間フィレンツェに滞在した。日が暮れて夕闇が迫りくる時間帯。変な表現だが、「軽快な虚脱感」と「神妙な躍動感」がいっしょにやってくる。人の顔の見分けがつきにくくなり、「そ、彼は」とつぶやきたくなる時間帯を「たそがれ」と呼んだのは、ことばの魔術と言うほかない。

当てもなく街の灯りと陰影を楽しみながら、足のおもむくまま移ろってみる。気がつけば同じ道や広場を何度も行ったり来たり。そんなそぞろ歩きを”passeggiata”(パッセジャータ)と呼ぶ。まったく重苦しいニュアンスや深い意味はなく、「ぶらぶら一歩き」のような軽やかさがある。散歩まで義務や日課にしてしまってはつまらない。

ルネサンスの余燼が未だ冷めやらない街。いや、余燼という形容は正しくない。ルネサンス時代のキャンバスの上に現在が成り立っているのがフィレンツェだ。ここは至宝で溢れるアートの街。たたずめば感化されて絵心がよみがえる。よみがえり……これこそが再生、ルネサンス。

アルノ川Katsushi Okano
アルノ川の夕景(ポンテヴェッキオから)
2007
Pastel, watercolors

エトルリアの街

トラベラーズノート200439日からの抜き書き。実に細かく書いている。十年前は今よりもだいぶマメだった。

ローマのホテルスパーニャでの朝食ビュッフェは果物豊富。ランチはテルミニ駅構内のトラットリア。チキンにポテト。ペンネのゴルゴンゾーラ。

ローマテルミニ駅13:48発ユーロスター。ペルージャ駅15:53着。駅前バスターミナルから7番のバスでイタリア広場へ。古い建物を改築した、いびつな構造のホテルにチェックイン。手渡された鍵には凝った細工がほどこされている。

夕暮れ前、荷解きもそこそこにして街歩き。イタリア広場からヴァンヌッチ通りを北へ250メートルほど行くと「クアットロ・ノヴェンブレ(114日)広場」に出る。ペルージャの象徴的なシンボルの大聖堂、プリオーリ宮、大噴水などがひしめいている。スーパーで惣菜を購入して夕食とする。瓶詰めムール貝、たっぷりサラダ、モツァレラ、カットピザ、赤ワイン。

ローマから北へ列車で2時間、小高い丘にペルージャがたたずむ。紀元前8世紀まで遡れば、ここはイタリア半島に原住していたエトルリア人の街であった。やがて古代ローマ人と同化したという。コンパクトな街なので1時間もあれば徒歩で一巡りできる。建物はおおむね古色蒼然としており、裏通りから坂を上がって行くとエトルリア時代名残りの建造物が威風堂々と構えている。


イタリアで経験してみたいと思いながら、実現できていないことが二つある。理髪と映画鑑賞である。いずれも語学力を試す格好の場だが、聴いていればいい後者に対して、前者は細かいニュアンスの希望を伝えねばならない。特殊な教本で表現を覚えたりもしたが、理髪店を覗けば常連ばかり。そこに旅の人間が入店するにはかなりの勇気を要する。それと、マフィア系の映画だったか、床屋で客が喉を搔き切られるシーンを思い出してしまう。躊躇して結局は店の前を通り過ぎることになる。

ペルージャの映画館テアートロは小ぢんまりとしていて入りやすそうに見えた。しかし、ちょっと待てよ。翌日は正午に列車に乗ってフィレンツェに向かうのだ。わずか12日、正味20時間ほどの滞在なのに、2時間を割いて映画を観るのか。そう自分を問い詰めたら、答えはノーだった。

IMG_5633Katsushi Okano
Teatro, Perugia
2004
Watercolors, ink, pastel

街と建築様式

知らないことだらけである。知らないことを知らねばならないと焦った時期もあるが、この歳になってさすがにもう焦らない。気が向けば知ろうとすればいい。旺盛な好奇心は若い世代に譲るとし、学ぶのが面倒そうなことは彼らに教えてもらおう。

ヨーロッパに出掛けるようになって、もっと勉強しておけばよかったと思うことがいろいろある。とりわけ、キリスト教と建築についてそう痛感する。まだ勉強できる可能性があるから諦めてはいないが、もうちょっと精通していれば感じるものもだいぶ違っていたはずである。

知識を仕入れる手立てはあった。分厚いガイドブックを持参したり現地でも図録を買ったりしたのだから、特に建築についてはそのつどマメに目を通しておけばよかった。百聞は一見にしかず、現場で実物を見るのは希少な体験である。しかし、一見だけで事足りることはない。百聞が下地になるからこそ、一見の価値も倍加するというものだ。


ヨーロッパで古い街が目白押しなのは、やっぱりイタリアだろう。そして、ローマ、ヴェネツィア、ピサ、ミラノ、フィレンツェの五都市を訪れると、古代ローマから17世紀までの6つの建築様式の歴史を辿ることができる。生きた建築ギャラリーそのものである。

ローマには万神を祀るパンテオンがある。世界最古のコンクリート造りの建造物だ。この構造はローマ様式と呼ばれる。

ヴェネツィアのサン・マルコ寺院は一見素朴だが、足を踏み入れるとビザンチン様式特有のモザイクで装飾されている。

トスカーナのピサを訪れてみよう。あの斜塔で有名な敷地には大聖堂が構えている。こちらはロマネスク様式だ。

ミラノには天まで届けとばかりの尖塔を誇る巨大な教会がある。ゴシック様式のミラノ大聖堂である。ゴシック建築には完成までに何世紀もかかったものが多い。

フィレンツェに移動すれば花の大聖堂と呼ばれるドームがある。ドームが特徴だが、ルネサンス様式は古代のインスピレーションを形にしているのが特徴だ。

そして最後に再びローマ。ヴァチカン市国のカトリック総本山であるサン・ピエトロ大聖堂。これはバロック様式の典型である。

ここに書いた建築物については勉強した。しかし、目の前に現れる建築を見て、それが何様式かを言い当てる自信はない。二つか三つには絞れるかもしれないが、一発正解することはたぶん無理である。手元にぼくがスケッチした名もない建築物の絵がいくつかあるが、様式についてはまるで判じ物のようである。

IMG_5621Katsushi Okano
Un edificio anonimo
2002
Pigment liner, felt pen

「一人の時間」の意味

暇がある時に、時間について語られたことばに目を通してみるのもいい。名立たる偉人が実に多くの名言を残している。

充実の時間、優雅な時間、くつろぎの時間、共食の時間、今日という時間、過ぎゆく時間、今刻まれる時間……。時間はどんな修飾表現にもなじむ。試してみればわかるはず。時間は包容力のある概念である。

けれども、「○○の時間」と表現できるからと言って、その時間が実現する保証はない。また、歓迎したい時間もあれば、遠慮したい時間もあるだろう。とりわけ「一人の時間」は微妙である。嫌だけれどそうなっているのか、あるいは求めてそうなっているのか……意味は大きく違ってくる。

夏草(緑地公園)

ぼくにとっては一人の時間は「プライムタイム」だ。一日のうちに、たとえわずかな断片であっても、一人の時間を求めてやまない。ふだんは立場上・仕事上複数の人々との時間に生きている。人々と過ごす時間では人々のことを考える。それはとてもたいせつなことなのだが、その時間はみんなとの時間であって、自分の時間ではない。

やむなく過ごす一人の時間ではなく、意識して創り出す自分の時間に浸ると、時間を忘れたり止めたり早めたり遅くしたり、自由自在である。

「わたしは気の向くままにからだを反らしてのんびりし……夏草の葉をじっと見つめている」――ウォルト・ホイットマン

鉄道駅の風情

駅舎が駅ビルにリニューアルされ、街並みが一変した。どう変わったかと言えば、風情が失われたのである。かつて鉄道駅は、その背負う歴史や内包する語感とあいまって、街の景観になくてはならない存在だった。

小学生の頃に住んでいた街の最寄りの私鉄駅は高架ではなかった。改札口と同じ地上を電車が走るのは当たり前だった。その電車に乗って四つ目のターミナル駅に行くのは「ハレ」であり、デパートの大食堂で食事をするのは一大イベントだったのである。電車に乗って出掛けるとなると、たとえ目的の駅がわずか三つ、四つ向こうであっても、よそ行きの服を着せられたのを覚えている。


パリへの旅は、鉄道駅の懐かしい時代を彷彿させる。主要な鉄道駅には国際線が乗り入れているから、想像力を逞しくしてみればまるで映画のシーンに佇んでいるような錯覚にとらわれる。

駅名がユニークである。北駅や東駅をパリの北や東に位置する駅と思っていたが、二度目の旅で気づかされた。北へ向かう列車が出発するのが北駅、東へ向かう列車が出発するのが東駅である。

リヨン駅

そして、あのパリ12区のリヨン駅〔写真〕は、そこがリヨンという地名ゆえにそう名付けられたのではなく、フランスの南東部に位置する国内第二の都市リヨン行きであるがゆえにリヨン駅なのである。そのリヨンにはリヨン駅と名のつく駅はない。東京に大阪駅はあるが、東京駅がないようなもの。

未練や郷愁にほだされて昔のものを保存していたらキリがない。そんなことは重々承知している。だが、やみくもに壊しては建て替えるという土建発想も考えものだ。前世紀の面影を今に残す鉄道駅には、現代の便利と引き換えるわけにはいかない風情がある。

その風情の中を発ち再び戻ってくる旅程には、コンビニエンスストアのような画一化した駅ビルを発着するのとは一味違った旅情が残る。そんな駅を都心から一つずつ消していった日本では、日常の中にふと感じるささやかなハレの時間も見つけにくくなった。

ありふれた街角風景

関空から直行便でウィーン国際空港に着き、列車で市内に入った。夜は更け始めていた。ホテルでチェックインを済ませるとすぐに街なかに飛び出した。季節は3月だというのに、冬を引きずっているような底冷えに身が縮む。レストランを品定めしながら歩いてみたが、長旅の疲れのせいか食欲を刺激するメニューに出合わない。ホテルに引き返し、持参したカップヌードルに湯を注いだ。11年前のことである。 

翌日も身体の芯まで沁みるほどの寒さだった。幸い、陽が出ていた。わずか3日間の滞在だから、予定していた名所巡りをしておこうと朝早く出掛けることにした。次の日には季節外れの大雪に見舞われ機動力が大幅にダウンしたので、結果的にはこれが正解だった。さて、23日の滞在旅程の中日なかび、ウィーンのどこをチェックするか……。
 
まずはオペラ座界隈を散策してみよう。シェーンブルン宮殿は必須だ。新旧あるドナウ河にドナウ運河も見逃せない。ほかにも片手では足りないほどの候補がある。その一つがデザインが個性的なフンデルト・ヴァッサーハウス。欲張れば長いリストが出来上がる。ずいぶん思案して、これを捨て切れず、市内循環のトロリーバスに飛び乗った。フンデルト・ヴァッサーハウスは1972年に建設された公共住宅で、斬新なデザインで世界から注目された建築群である。
 

ガイドブックと地図を片手に名所を巡る。何度も足を運べない外国の街を訪ねると、張り切って強行日程を組むのは当然の流れ。まるで仕事のようなノルマ設定になりかねない。その結果、写真アルバムは名所の画像で溢れ、どこにでもありそうな無名の街角や通りの写真が抜け落ちる。カメラの被写体にもならなかった街角は、やがて記憶からもすっかり抜け落ちる。 
ローマに行ってコロッセオを見ず、バルセロナに滞在しながらサグラダファミリアを見ずに帰ってくるのはかなり勇気がいる。画像や動画で見るのと、この目で実物を見るのとでは天と地ほど印象が違ってくる。それでもなお、敢えて名所の一部を足早に駆け巡るか、いっそのこと思い切って捨ててしまうべきなのだ。なぜなら、歴史地区の名所なら、写真集やテレビの企画番組などで何度も振り返ることができるからである。
 
ウィーンの街角.jpg観光客からすれば取るに足らない、名を知られることもない風景に視線を投げる。写真に収めても、そこに固有名詞を思い起こすヒントはなく、おおよそのロケーションをうろ覚えしている程度。フンデルト・ヴァッサーハウスは以来何度も画像と動画で見た。他方、そこからさほど遠くないトロリーバス通りのありふれた街角は、番組取材で被写体になることはまずないだろう。しかし、観光とは「景をる」ことではないのか。別に名所に限った行動ではない。しばし観光客の目線を生活者の目線に変えてみると、ありふれた光景が得がたい旅の思い出を刻んでくれる。ブランド以外のどんな風景を見るかというのも旅の醍醐味だ。

思い出のスローフード

ベルガモ チーズ.jpgベルガモ プロシュート.jpgベルガモ アニョロッティ.jpgその時、たしかに時間はゆったりと流れていた。食事に満足したのは言うまでもなかったが、時間そのものが至福の味わいであった。

時は2006年、味覚の初秋に約2週間かけてフランス、イタリア、スイスに旅した。パリとミラノとヴェネツィアにそれぞれ4泊という旅程だった。ミラノに滞在した折り、かねてから訪ねてみようと思っていたベルガモに出掛けた。列車で北東へ約1時間の街である。ここは二つのエリアに分かれている。駅周辺に広がる新市街地のバッサ(Bassa=低い)と、中世の面影を残すアルタ(Alta=高い)だ。日帰りなのでバッサは見送り、アルタを目指してケーブルカー駅へと急いだ。ここから標高336メートルの小高い丘の瀟洒な街が目的地である。地産地消の名物スローフードをランチタイムに堪能しようという魂胆。

ランチタイムの時間を稼ぐために足早に街を散策してみた。スローフードのための足早散策とは変な話である。ともあれ、オペラ作曲家ガエターノ・ドニゼッティゆかりの資料館や塔や要塞跡などを見学した後、ベルガモ料理を看板に掲げるトラットリアに入った。ハウスワインの赤を頼み、数ある料理から10分以上時間をかけて三品を選ぶ。どれも一品千円弱と驚くほどリーズナブルだ。

一品目はここベルガモでしか食べられないチーズの盛り合わせ。あちこちでチーズの盛り合わせを食べてきたが、これだけの種類を一皿に盛ってくれる店はまずない。二品目もご当地名物の生ハムプロシュートとサラミの盛り合わせ。馬のコーネのような脂身のハムが珍しい。濃い赤身の薄切りは猪だ。三品目は、ひき肉やチーズなどを詰めたラヴィオリの一種で、アニョロッティという。


これら三品のスローフードにたっぷり2時間はかけた。日本のランチタイムとしては考えられない間延びした時間。ちなみに“slow food”はイタリアで造語された英語。イタリア語では“cibo buono, pullito, e giusto”というコンセプトが込められ、「うまくて、安全で、加減のよい食べ物」というニュアンスである。

ぼくたちがイタリア料理の常識だと信じ切っている「大飯」ではない。前菜、大量のパスタ、ボリュームたっぷりのメイン料理にデザートというコースなら時間がかかるのもわかる。しかし、これもすでに過去の話となった。最近では一品か二品だけを注文してじっくりと2時間以上かけて食べるのが多数派になりつつある。現在イタリアでもっとも大食しているのは日本人とドイツ人ツアー客ではないか。残念ながら、ドカ食いとスローフードは相容れない。大量ゆえに時間がかかってしまうのと、意識的に時間をかけるのとは根本が違うのだ。

スローフードは“slow hours”(のろまな時間)であり、ひいてはその一日を“slow day”(ゆっくり曜日)に、さらにはその週を“slow week”(ゆったり一週間)に、やがては生き方そのものを“slow life”にしてくれる。ベルガモの体験以来、ぼくの食習慣はどう変わったか。正直なところ、まだまだスローフードへの道は険しい。けれども、少しずつではあるが、毎回の食事に「時間」という名の、極上の一品をゆっくり賞味するよう心掛けるようになった。

《本記事は200867日に更新したブログを加筆修正したもの》

中世の街のフレーム

井上陽水に『長い坂の絵のフレーム』という歌がある。すんなりと意味が伝わってこない歌詞が静かなメロディーで紡がれる。主題はさておき、「♪ たそがれたら街灯りに溶け込んだり……」という一節を旅先で体感することがある。

目にする街の風景は時間帯によって移り変わり、感受する旅人の気分も変わる。いや、変化を仕掛けているのは時間の流れだけではない。もっとデリケートなのは観察者の視座だろう。立ち位置が意図したものか偶然だったのかという違いはどうでもよく、どこから何を見たのかが後日の回想に大きな意味を持つ。

数年前までイタリアの中世都市によく出掛けた。古代もいいが、ルネサンス前後の中世の名残りをとどめる街並みが気に入っている。街歩きをしていると、地上のシーンだけでは飽き足らず、塔の上から街全体の構図を俯瞰したくなる。どちらかと言うと高所は苦手なのだが、景観のご褒美は少々の恐怖を帳消しにして余りある。

 ボローニャではいつ倒壊しても不思議でない斜塔の、きしむ木製階段を慎重に踏みしめて上り、ベルガモでは下りてくる人と背中合わせになるほどの狭い階段を昇った。どの街でも、塔の先端の眺望点に立てば深呼吸を忘れるほどのパノラマに目を奪われる。だが、見惚れてしまうのはパノラマだけではない。

Toscana1 164 web.jpgフィレンツェのジョットの鐘楼の半ばあたり、街の一角が絵のように嵌め込まれたフレームがあった。この写真のような風景の見え方を「借景」と呼ぶ人がいるが、正しくない。借景は、遠くの景色や近くの樹木などをあたかも自分の庭の一部のように見立てること。自分の庭園と外部の遠景のコラージュと言うのがふさわしい。窓越しに風景や街並みを額縁で囲むのは借景ではなく、建物の構造が成せる景観の〈切り取りトリミング〉と言うべきだろう。
 
偶然出くわすこの切り取りがパノラマの印象を凌ぐことがある。パノラマがぼくたちを圧倒して受動的にさせるのに対し、フレームの絵はぼくたちに意味を探らせようとする。円窓や小窓越しに見る景色は全体のごく一部にすぎない。フレームの外はどうなっているのかが気になり、街の文脈を読み始める。上り下りする人たちの迷惑にならないのなら、ずっと覗き続けていたい衝動に駆られる。これは雪見障子によく似た演出ではないか。
 
このフレームの向こうに街のすべても中世という時代も見えない。ましてや世界や未来が見えるはずもない。いったい何が見えるのだろうかと問うても、陽水の歌の解釈に似て焦点は定まらず、不可解である。ただ、何を見て何を考えて何を語っても、ぼくたちはフレーム内なのだという諦観の境地に入り、ある種の謙虚さに目覚めるような気がするのである。

ドゥオーモ、広場、街。

最初に訪れたイタリアの都市はミラノだった。ミラノのドゥオーモはその規模において世界最大級である。恥ずかしいことに、あのミラノ大聖堂のことをドゥオーモと呼ぶのだと思っていた。しかし、それも束の間、続いてヴェネツィアを、フィレンツェを訪れるうちに、どこの街にもドゥオーモがあることに気づかされた。

ドゥオーモ(Duomo)はイタリア語で、イタリア各地の街にあって代表的な教会や大聖堂のことを指す。ミラノの他に、これまでぼくが訪れたドゥオーモを指折り数えてみたら、アレッツォ、アッシジ、ボローニャ、オルヴィエート、フィエーゾレ、フェッラーラ、フィレンツェ、レッチェ、ルッカ、ペルージャ、ピサ、サン・ジミニャーノ、シエナ、ヴェネツィア、ヴェローナ、ローマと16もあった。時代は異なるので、建築も初期から晩期のゴシック様式やルネサンス様式などバリエーションに富んでいる。
花の大聖堂+オルヴィエート.jpgのサムネール画像最も気に入っているドゥオーモは、花の大聖堂と呼ばれるフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレだ(写真左)。何度見ても見飽きない。下から見上げたり、立ち位置を変えたり、隣のジョットの鐘楼から眺めてみたり。そのつど表情が変わる。華麗ナンバーワンには、ローマから列車で約1時間、良質の白ワインで有名なオルヴィエートのドゥオーモを指名したい(写真右)。14世紀に建てられた大聖堂で優雅なゴシック様式が特徴だ。

都市について詳しいわけではないが、困った時のレオナルド・ダ・ヴィンチ頼みで少し書いてみたい。ボローニャの地方自治体の一つに「イーモラ(Imola)」という街がある。実は、万能の天才ダ・ヴィンチはこの街を踏査して市街地の設計図を書いている。街を機械的構造に見立てて芸術と技術の調和を具現化しようとしたのである。残されている設計図は曼荼羅絵図のように見えなくもない。
ダ・ヴィンチが生きた1516世紀のルネサンス時代、それまでの中世の都市とは違って、人が暮らす視点から都市を構築しようとする試みが始まった。従来の構図は〈ミクロコスモス(人間)〉と〈マクロコスモス(宇宙)〉であり、あの名画モナリザもそういう見方ができなくもない。ダ・ヴィンチをはじめとする当時の都市デザイナーたちは、ミクロコスモスとマクロコスモスの両方を介在させる、またはつなぐ存在としての都市にまなざしを向けたのである。
それが中間に介在するという意味の〈メディオコスモス〉だ。ずばり都市のことなのだが、小概念で言えば、広場であり教会であった(イタリアの街の主たる広場には必ず教会がある)。ドゥオーモと呼ばれる大聖堂は尖塔が空へと高く伸びる。天へと届けとばかりに伸びて、ミクロ宇宙をマクロ宇宙へとつなごうとしたのである。暗鬱とした中世時代の空気を払拭すべく、都市には古典的なギリシア・ローマ時代のデザインが駆使された。かつての人間味ある精神の模倣であり再生であった。街と広場とドゥオーモをこんなふうに見ていくと、再生であるルネサンスの意味もじんわりとわかるような気がする。