エイジング

人は酸素で生かされ、酸素で老化する。これはジレンマである。生き続けたい、でも老いたくない……ここから不老長寿への願いが生まれ、飽くなき追求がおこなわれてきた。

老化のことを〈エイジング〉と呼び、それにあらがうことを〈アンチエイジング〉と言う。身体が酸化するから老化する、老化したくなければ抗酸化努力をする。アンチエイジングが厚かましいなら、せめてゆるやかに老いて行きたい。これをスローエイジングと言う。


野菜の顔2

以前「36歳の私が夕方40.4歳になっているなんて」という美容液かクリームの広告表現を見かけた。ターゲットが36歳とはよく絞り込まれている。そして、朝から夕方になるまでに4.4歳老けるという実証データも集めたのだろう。

アラフォーを控えた36歳の女性は10時間のうちに4.4歳エイジングするという、聞き捨てならない話である。もし、毎日4.4歳が加算されていくなら、10日もすればただ事では済まないお顔になってしまう。

しかし、この広告コピーの主張が成り立つためには、一晩過ぎて朝を迎えたら36歳に戻っていなければならない。朝は36歳の肌、夕方に一度40.4歳の肌になるものの、翌朝に36歳にリセットされるのなら、美容液を使わずとも完璧なアンチエイジングができているではないか。

揺らぐ「信」

信.jpg

ぼくたちは「信じる」ということばをよく使う。「信頼」や「信用」も頻度が高い。他には「信念」や「自信」がある。その「信」が危うくも揺らいでいる。
「私はAを信じる」というのは「Aには信がある」というのにほぼ等しい。このときのAは人でも話でも事物でもいい。信とは「真実であり偽りのないこと」である。ぼくたちがAを信じるのは、Aが真実であり偽りがないと思うからである。「まず信じよ」というだらしない教えがあって困るのだが、信じることと信じたいことは違う。検証もそっちのけで信じたいのなら、自己責任の元におこなうべきだ。
 
何でも疑うことに感心もしないが、何でも信じることにはそれ以上に感心しない。かと言って、デカルトのように徹底的に懐疑して、これ以上疑えないという域に達しようとするのは現実的ではない。つまり、どんなに懐疑したり検証したりするにしても、どこかで手を打たねばならない。完全な信が得られる前に「信じてもいいだろう」で折り合うのである。繰り返すが、最初から無防備に信じることなどあってはいけない。
 

 ブランドやのれんによって真贋を識別することが難しくなった。では、看板と実体が同じかどうかを見分ける手立てが消費者にあるのだろうか。わざわざテーブル席でステーキ肉を見せられ、「これが国産黒毛和牛です」と告げられても、厨房に持ち帰ったら別の肉を焼くかもしれない。では、目の前で焼いてもらおうか。それでもなお、その肉が正真正銘のブランド牛という証明にはならない。ぼくがよく通った焼肉店では血統書のコピーがコース料理の前に提示された。何々産の雌の何歳とあって名前までついている。だが、その血統書の和牛の肉が本日のメニューとして実際に出されるかどうかを確認することはできない。
 
堂々巡りになってしまうが、結局は信じるしかなさそうである。但し、品は勝手に偽らない。偽装を仕組むのは人であり、ひいては人が集団化する組織である。だから、人と組織を注視するのだ。欲だけで生きていない人や組織が他人を欺くことは少なく、おおむね誠実である。他方、利得のみを人生や仕事の礎に置く人や組織は信に背を向ける可能性がある。食品関係に偽装問題が頻発するのは、食材が見分けにくく、消費者が騙されやすいからにほかならない。
 
やっぱり人間の清澄な心次第? いや、そんなメンタルな話に転嫁する気はない。賢慮良識を働かせれば、人や店の信頼度はその場で「経験科学的に」ある程度は感知できるはずである。レストランなら、ブランド価値などはひとまず棚上げする。接待であっても恰好をつけない。「安全でリーズナブルでそこそこ美味である」を基準にする。繰り返すが、食材がウソをついているのではない。これは何々ですと人が偽っているのだ。だから、人を見る。人の立ち居振る舞いと話し方を見る。この人たちに委託してもいいのかどうかを見極める。
 
逆説的だが、社会に蔓延する不信感を拭うためには――つまり、信を基本とした関係性を取り戻すためには――利用者が眼力を養うべく懐疑してみることだ。イタリアに「信じるのはよいことだ。だが、信じないのはもっとよいことだ」という諺がある。イエスに到る過程にはいくつものノーがある。ぼくたちが信用し、安全かつ快適に利用できているものは、厳しく懐疑され検証されてきたはずである。

アルゴリズム話法の限界

フローチャート.pngコンピュータの世界では普段着の術語になった〈アルゴリズム〉。一般的にプログラムと呼ばれているのは、このアルゴリズムをコンピュータに指示するものにほかならない。では、アルゴリズムとは何で、どんな役割を果たしているのか。

それは「問題を解決するための手順を定めたもの」である。問題には解答があり、その解答をいつでも手に入れるためにはアルゴリズムが欠かせない。手順を効率的かつ明確にするためにアルゴリズムはフローチャートで表現されることが多い。ある作業と次の工程の作業は矢印でつながれる。この手順さえ追っていけば、解答に辿り着けるというわけだ。都合のよさそうな話だが、「閉じられた世界」では大いに有効なのである。
 
自動販売機のしくみもアルゴリズムで説明がつく。硬貨投入口に値段ちょうどの120円を入れ好きな飲み物のボタンを押せば、お釣りが出ないで、缶コーヒーや缶ジュースだけが出てくる。入口と出口だけを見ればとても簡単だが、実はいくつかの変化を前提に複数の作業工程が機械内部で指示されている。たとえば、百円硬貨を二枚入れれば「80円のお釣り」が指示される。このような手順がプログラムされているので、自動販売機はよほどのことがないかぎり、利用者の願望通りの解答を与えてくれるのである。
 

 敢えて極論するが、いろいろなケースの手順がプログラムされていても、決まりきったことの繰り返しだから、プログラム外の変化には対応してくれない。100円しか入れていないのに、1,000円と缶コーヒーは出てこないのである。アルゴリズムとはそんな概念なのだが、これを万能だと勘違いしてコミュニケーションに敷衍して教えようとする暴挙に出くわす。新入社員研修などでは、会話のやりとりに自信のない若者にこのアルゴリズム話法を指南するのである。
 
先日たまたまテレビを見ていたら、ある研修講師が「会話はマイペースではなくユアペースで」と切り出した。これはまあいい。次いで、会話をスムーズにするためには、相手の言ったことばを「オウム返しにせよ」と言う。相手の「昨日久しぶりに焼肉に行ったんだよ」に対して、「へぇ、焼肉に行ったんだ」という具合。メッセージの行方もわからないままに、開口一番に乗っかれというわけである。「2センチもあるような厚切りのタンがおいしくてね」「わぁ、2センチの厚切りタン! すごいなあ」……これをいったいどこまで続けるのか。挨拶やご機嫌伺いのような型通りの会話ならそれでいいが、こんな調子では意見交換や情報交換へと発展する見込みはほとんどない。
 
仮にぼくが焼肉屋で目撃したおかしな一場面をジョークとして語り始めるとしよう。ジョークはある種の物語性の上に成り立つ。一文を発するたびにオウム返しされては話が分断されてしまい、オチまで息がもたない。合いの手を入れずに黙って聴くのがこのときの作法ではないか。反応には旬というものがある。早すぎても遅すぎても会話は流れない。会話を生きたものとして考えるならば、どんな場面でも手順化できるアルゴリズムなど存在するはずがないのである。
 
研修の指導者も受講者も読み切れない変化を嫌って、ハウツーを定式化する傾向が強くなってきた。こんな研修を受けても、実社会で臨機応変に振舞うことなど望めない。ぼくの本業の企画でも解答の定まらないテーマに焦れるあまり、安直なアルゴリズムでその場をしのごうとする人が増えている。型らしきものがないわけではないが、企画とは定まらない解答をひねり出すことだ。機転のきかないアルゴリズムでは話にならない。

テレビコマーシャル考

television commercial.jpg今もマーケティングの企画をしたりコピーを書いたりもする。かつては広告の仕事をしたことがあるので、少しは制作の裏事情もわかっている。デフォルメはやむをえないが、ウソをついてはいけない。このことは心得ておくべきことだ。

とは言うものの、この「ウソ」の解釈がむずかしい。ありもしないストーリーづくりをしても商品の特徴を偽らなければウソにはならない。時には過剰演出もあるだろうが、それもウソではない。小説のことを「虚構フィクション」と呼んで「虚偽」とは言わないように、広告における虚構性をウソと決めつけるわけにはいかないのである。しかし、ウソではなくてもノンフィクションだと胸を張れるかと問えば、やっぱりフィクションも混じることを否めない。テレビコマーシャルはフィクションとノンフィクションのはざまで揺れ動く。
あることを誇大に強調し、別のことを語らないというのも、たかだか15秒枠で訴求せねばならないテレビコマーシャルの宿命である。「歯医者さんが薦めるPCクリニカ」というのがあったが、どこの歯医者さんかは不明である。もしかすると適当な歯医者さんかもしれないし、第一人者の歯医者さんかもしれない。「やっぱりDHCだね」と言われても、何が「やっぱり」なのかわからない。売上ナンバーワン即納得でもないからだ。

何度見てもぼくが苦笑いするのが、「う~がい、手洗い、にんにく卵黄~」である。健康の三点セット? たしかにそんなふうに聞こえる。そして、「 ばあちゃんの言う通り」と続く。ばあちゃんは年中うがいをして手洗いをしてにんにく卵黄を一日何粒かを目安に飲む。そのことをばあちゃんは孫たちに教えているようだ。孫の年齢にしてにんにく卵黄というのも不思議だが、「ばあちゃんの言う通り」というくらいだから、もしかすると愛用しているのかもしれない。極めつけは「 あ~あ、ばあちゃんにゃかなわない」だ。もうお手上げなほど、ばあちゃんは偉いのである。つまり、にんにく卵黄も偉いということだ。フィクションかノンフィクションか……わからない。

たぶん11月頃から流れ始めたコマーシャルがある。元テニスプレーヤーの杉山愛を起用した歯磨きシュミテクトだ。一部始終のせりふをここに書かないが、「歯がしみる、知覚過敏にいい」云々という内容。それはそれでいい。実証もされているのだろう。ところが、コマーシャルの最後に、懸命に宣伝したはずの杉山愛が「すぐにでも使ってみたいと思います」と言うではないか。おいおい、あなたはまだ使ってないの!? とツッコミを入れざるをえない。
コマーシャルに起用された本人が使ってから宣伝してもらいたいものである。大衆的なヘアカラーを訴求する大物女性タレントが白髪が目立たないなどとおっしゃるが、たぶん本人は自分で染めているはずがない。セレブな美容院でもっと高価なもので染めてもらっているに違いないのである。あの知覚過敏歯磨きのコマーシャル、すでに流れてから3ヵ月以上になると思うが、杉山愛はまだ「すぐにでも使ってみたい」と言っている。今使い始めても、もはや「すぐに」ではないだろう。

妙薬依存症候群

ドニゼッティに『愛の妙薬』というイタリアオペラがある。観劇したことはないが、ラジオとCDでそれぞれ一度ずつ聴いたことがある。気弱でもてない男が薬売りから「飲めば恋が実るという妙薬」を法外な値段で買う。実はワインなのだが、プラシーボというもので、男はたちどころに陽気になり気も大きくなる……こんなふうに第一幕が始まる。野暮なので、結末を明かすのは控えておく。

妙薬に「愛」がくっつくと、どういうわけか秘薬や媚薬のニュアンスが漂うが、元来、妙薬とは病気に効き目のある薬のことだ。転じて問題のソリューション(解決)という意味で比喩的に用いられることもある。医薬品はもとより、「○○○に効く」というふれこみで次から次へと売り出されるサプリメントも妙薬として期待されているに違いない。
だが、実際に妙薬が効くかどうかはにわかに定まらない。オペラに出てくる男がその気になったように、多分に偽薬効果だろう。たとえば、「アントシアニンを摂取すれば血液がさらさらになる」もこの類。ぼくたちは、アントシアニンという物質の存在も名称も知らなかったはずだが、ちゃんと黒豆を食べてきた。「ようし、アントシアニンを摂取して活性酸素を抑えて血液をさらさらにするぞ!」などと決意して黒豆を食べているわけではない。

現代人は常日頃心身の不安に苛まれている。ドラッグストアを覗けば、対症療法的な医薬品やサプリメントがずらりと並ぶ。それを病の素人であるぼくたちが、自分の体調不良や体調不安、あるいは際立った症状に照らし合わせて買っている。考えてみれば、綱渡りのような選択なのである。もっとも、話は店売りだけにとどまらない。
昨年暮れに喉に痛みがあったので耳鼻咽喉科で診てもらった。「風邪ではなく、炎症でしょう」と診断されて痛み止めを処方された。同時に、「胃はお丈夫ですか?」と聞かれた。「ええ」とぼく。「では、胃薬は出さないでいいですね」と医者。つまり、この鎮痛剤が通常の胃の持ち主にとってはダメージが強いほどの「劇薬」であることを暗に示している。歯医者では、尋ねもせずに、自動的に鎮痛剤と胃薬の両方が処方される。
妙薬だけに、とても奇妙な話である。効き目を期待して飲みながら、その効き目の副作用を消すために別の妙薬を服用するのだ。妙薬にプラスとマイナスがあれば、差し引くと「妙味がない」ことになる。世間と時代はこぞって妙薬を求め依存し、その行為によって症候群に陥ってしまっている。とここまで書いて、月並みな教訓で終わることになりそうだが、経口するものだけが妙薬ではないことを知っておくべきだろう。情報、能率、他力、権威、仲間……これらもすべて毒性を秘めた妙薬なのである。

続・政治風土雑感

弁論術+政治学.jpgぼくたちは、この国で起こっていることの何から何までも承知しているわけではない。しかも、事実の真偽のほどもわからないことが多い。ひいては、そのような事実を前提として論議される政策の有効性を判断するのも容易ではない。だが、論理をチェックし論議の蓋然性を品定めすることはできる。

たとえば、「条件付きでTPP参加」という意味などは簡単に検証可能だ。そもそも、賛成とは全要素についてのイエスである。つまり、賛成とは全面賛成にほかならない。一つの要素でも保留や条件が付くならノーなのだ。したがって、「条件付きでTPP参加」とは「条件次第でノー」というのに等しく、どちらに転がっても後で言い訳がつくようになっている(「参加しないこともある」ということに言及していないだけの話である)。
このように、事実を知らずとも、言及されていることと言及されていないことをつぶさにチェックするだけでも、信頼に値する話かどうかはわかるのだ。人は不利になることや都合の悪いことをわざわざ言及しないから、そこに目を付ければよい。
 

 「政策を語ることが重要ではない! 政策を実行に移せるかどうかなんです!」とある政治家が街頭で訴えた。ふわっと聞き流してはいけない。アリストテレスの『弁論術』の中の説得推論の24番目が参考になる。
結果は原因から推論するものである。〔あること〕の原因が存在する時には〔あること〕は存在する。〔あること〕の原因が存在しない場合には〔あること〕は存在しない。なぜなら、原因とその結果とは共存し、原因なしには何一つ存在しないからである。
これは因果関係の論点である。政策という原因ゆえに実行という結果が存在するにもかかわらず、その政治家は原因を語らずして結果を出すと言っているにすぎない。ゆえに、彼が実行するものが政策である保障はない。何らかの都合があって急遽口走った言であると察しがつく。
 
政治家の揚げ足を取るのではなく、彼らの論理をチェックするのである。彼らの言が苦し紛れで発せられたのか、その場の空気に情動されているのか、きちんとした賢慮に基づくものなのかを見極めることは、できないことではないのである。
 
アリストテレスには『政治学』という書物もある。その第七巻第1章にはこうある。
最善の国制について適切な探究をしようとする者は、まず最も望ましい生活が何であるかを規定しなければならない(……)最善な国制のもとにある者が最善の暮らしをするのは当然なことである。
人生最上の価値を幸福としたアリストテレスらしいことばだ。最善の生活について、アリストテレスは、環境と身体と精神の善を説き、これらを至福な人の条件としている。
こうした価値を今日の政治思想が積極的に扱ってきたとは言い難い。誰のためになっているのかわからない集団価値が、ともすれば個人の日常生活価値よりも優先されてしまう。残念ながら、今から二千数百年も前に掲げられた理念にぼくたちの政治風土は未だに近づけていないのである。

政治風土雑感

投票.pngのサムネール画像一人ひとりは真剣に演じているつもりなのだろう。それぞれの劇団も本気で演じようとしているのだろう。こんなふうに百歩譲っても、真剣で本気の部分を全体として眺めると「茶番劇」が浮き彫りになってくるから不思議だ。不思議を感じるのは無論ぼくたちの理解不足のせいではなく、役者たちの芸の無さ、役柄認識の甘さゆえである。

テレビのニュース番組でキャスターが党名一覧のパネルを見せる。じっくりと見せてくれるのだが、あまりにも数が多いから、七つか八つまで数えたところで画面が切り替わる。とにかく、平成241121日現在、15の党が確認されている。もう党名のネタも尽き果てたかのようで、「反TPP・脱原発・消費増税凍結の党」まで誕生した。こうなれば、これから誕生する党はマニフェストの文言をトッピングよろしく並べていくことになるに違いない。かつて苦笑いしてしまったが、「みんなの党」がまともな党名に見えてくるから、これまた不思議である。

二大政党時代の到来を高らかに予見し、「必然!」とさえ太鼓判を押した政治評論家は慧眼不足を大いに反省しなければならない。かつてこの国に二大政党時代らしき時期がなかったわけではない。だが、長い歴史の中では一瞬の出来事であった。別に二大政党時代を待望しなければならない理由もない。世界的に見れば英米を除く大半の先進国には多党が存在しているのだから。そうそう一党独裁もある。
ただ、わが国の多党ぶりは乱立と形容されるように、節操がなさすぎるのだ。節操がないのは、選挙戦を勝つための卑近な術をこね回すからにほかならない。たった一つの政策で折り合わないという理由から党を離脱したり新党を旗揚げしたりする一方で、複数の政策において相違があるのに、妥協して統合するということが起こってしまう。折り合うためには「条件」が必要だ。なるほど、条件さえつければ両極だってくっついてしまうだろう。こうして、立党の理念や哲学は条件づけという妥協の産物によってものの見事にリセットされてしまう。
つまるところ、同質性の高いわが国では、エリートもそうでない者も差がないように、多様な意見が飛び交っているように見えても、実はみんな似たり寄ったりの考え方から抜け出せないのである。大同小異などキレイごとで、得策と見れば大異の溝すら簡単に埋めてしまう。要するに、ワンパターンな考え方しかできないから小異で差異化しようとしているにすぎない。たとえ15党が乱立しても、発想に大胆さなどなく、せいぜい「1℃前後の温度差」違いなのである。多党化現象は選択肢の豊かさを意味するのではない。ただただ潔い覚悟の無さを物語っている。
《続く》

情報が溢れる装置

スタッフの一人が地下鉄車両内の中吊りを撮影し、それをフェースブックに投稿した。小心者の男なのだが、よくも大胆に危ない橋を渡ったものである。投稿内容は「チカン(痴漢)はアカン」という大阪市営地下鉄のキャンペーンメッセージ。「きみ、車内で写真はアカン!」と彼を戒めた。

戒めたものの、どれほどの大胆な行為なのか、ほんのちょっとの勇気を出せばできることなのか……好奇心の強いぼくは気になってしかたがない。そして、ついに、自分自身で試してみようと思ったのである。ガラガラ車両の端のほうで被写体に向けてシャッターを押した。心臓は穏やかではない。そそくさとカメラをポケットにしまい込んだ。それがこの写真である。もちろん、撮影のための撮影などではない。家具の広告コピーを見てちょっと揶揄してみたくなったのが直接の動機だった。

地下鉄車内 多情報 web.jpg

左の広告、「いいソファを買ったら、独身に貴族がついてきた」。そんなわけないだろう。ソファごときで貴族になれるのなら苦労はしない。むしろ、猟犬と猟銃を手にするほうが貴族感覚に浸れるのではないか。右の広告、「センスは磨くより、買った方がはやい?」 冗談じゃない。センスのない者がセンスのあるものを買えるはずがない。クエスチョンマークを付けているところを見ると、コピーライターも自信がないのだろう。
スタッフが撮りたい衝動を抑えることができなかった類似の表示も写っている。「チカンは犯罪です」というおなじみのフレーズだ。路線の駅名をはじめ、その他もろもろの情報があちこちに貼り込まれている。地下鉄のみならず、電車もバスもすっかり都市の情報装置に変身したかのようである。居酒屋も同様で、実物の料理よりも手書きの紙やPOPのほうが目立つありさまだ。
リチャード・ワーマンは、ぼくたちが目を通す朝刊一日分は17世紀の平均的英国人が一生に出合う情報量に相当すると指摘した。もはや日々接する情報のすべてを取り込んだり集めたりすることを諦めねばならない。この四世紀で脳が何百倍も進化したのならともかく、劣化さえつぶやかれる現在、ぼくたちは情報に対して貪欲を続けるのではなく、潔く付き合うことに目覚めるべきだろう。未だに「情報収集」などと馬鹿をほざいていてはいけない。リチャード・ワーマンの書名は『情報選択の時代』。わかりきったことだが、情報を集めてはいけない。情報は選ぶべきものなのである。

商売人失格

仏教用語としての正用からは外れるが、この話には「因果応報」と刻みたくなる。小さな因果が確実に働いて、いずれ応報になる話。

数年前、兵庫県のとある駅に降り立った。駅前に、最近よく見かけるガラス張りの賃貸住宅ショップがあった。仕事は翌日だが前日入り。宿泊先として指定されたホテルの場所がわかりにくかったので、その店で尋ねた。
店員が「交番で聞きゃいいだろ!」と翻訳したくなるような語気で面倒臭そうに対応をした。おそらく知っているのだろうが、教えてくれなかった。十数秒の親切をしても日銭にはならないだろうが、駅前不動産なのだから交番の役割も担って何か問題が生じるか。地域のナビゲーター役になる絶好の立地にあるのに、なんという機会損失かと思った。

ぼくは残念に思っただけで、恨みも怒りも引きずらなかった。それでも、後日、もしこの方面に引っ越しする人がいたら、躊躇なく「あの駅前の○○不動産には行かないように」と助言する。「あの店」だけで済めばいいが、「あの会社」という烙印を押されてしまうと、同じ会社の(善良かもしれない)他のショップにも影響が出るだろう。
因果関係というものは、辿ればどれも複雑だ。特に今の時代、「一因一果」などのような単純な因果関係はほとんどありえないだろう。だが、この一件に関して言えば、一事が万事になりかねない。
ちょうどその頃は、大阪の例の名門料亭がアウトになった時期に重なる。さんざん良からぬことを重ね、バレたりバレなかったりしながらも息を吹き返して延命してきた。あの料亭は、情けないことに「ワサビの使い回し」というちっぽけな原因で終幕した。社会の堪忍袋の緒が切れたらおしまい。商売人にとって、一人一人の顧客は社会につながっている。PRとは“Public Relations”の略、つまり「社会との関係づくり」にほかならない。商売人の原点はそこにある。

食事処に物申す

酒はだいたいどこの店にも同じものが置いてあるが、料理にはそこにしかない品もしくは味という前提がある。たとえ他店と大差のない料理であっても、「うちにしかないうまいものを出す」という気迫が漲らねばならぬ。「この店は味自慢」と認めるからこそ、こちらも料理を決めてからそれに合う酒を選ぶ。
以上のようなことを、あくまでも個人的な意見として、「何を食べるかも決めていないのに、はじめに酒の注文を聞くべからず」と前回のブログに書いた。今日はその続編である。お品書きもしくはメニューについての話。

以前、3,500円、5,000円、7,000円のコース料理を出すビストロがあった。将来顧客になるかもしれない団体の代表者と公認会計士とぼくの3人での会食だ。ぼくが場所と食事を決めてご馳走するという設定だった。店に入って席に就くなり、店員が「本日はご予約ありがとうございます。5,000円のコースで承っております」と言ってくれたのだ。バカな確認をするものである。
コースとアラカルトは注文のしかたが違う。アラカルトならメニューを全員に配るから、接待であれ割り勘であれ、値段は全員に知られる。それはそれでよい。しかし、コース料理の場合で誰かが他のメンバーを接待している時に、コース名と値段を明かしてはいけない。
割烹に「おまかせ料理」を予約して行った。カウンターに座ったら「本日はおまかせ料理ですね」と確認された。よく見ると、壁に「おまかせ料理2,980円」と貼紙がしてあった。がっかりである。
イタリア料理店でワインリストからワインを選び、「これをお願いします」と指差ししたら、「こちらの2,800円の赤ですね」とご丁寧にも金額を言ってくれた。
ご馳走されるほうは、ワインリストを渡されてもなかなか選びづらい。ざっと視線を走らせても、たいてい「お任せします」と言う。しかし、店によっては値段の安いものから高いものへと「秩序正しく」ワインを掲載しているところがあるから、指の差す位置によってどの程度のものを注文したかがすぐにわかってしまう。
以上のようなデリカシー違反の店は一流にはなりえないだろう。それはともかく、接待する側でも接待される側でも疲れる手続きなので、この頃は気のおけない人としか食事に行かないようにしている。メニューの値段もオープン、店も明朗会計というのがいい。
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英語とイタリア語が併記されているレストランのメニュー(イタリア・オルヴィエート)。