続・政治風土雑感

弁論術+政治学.jpgぼくたちは、この国で起こっていることの何から何までも承知しているわけではない。しかも、事実の真偽のほどもわからないことが多い。ひいては、そのような事実を前提として論議される政策の有効性を判断するのも容易ではない。だが、論理をチェックし論議の蓋然性を品定めすることはできる。

たとえば、「条件付きでTPP参加」という意味などは簡単に検証可能だ。そもそも、賛成とは全要素についてのイエスである。つまり、賛成とは全面賛成にほかならない。一つの要素でも保留や条件が付くならノーなのだ。したがって、「条件付きでTPP参加」とは「条件次第でノー」というのに等しく、どちらに転がっても後で言い訳がつくようになっている(「参加しないこともある」ということに言及していないだけの話である)。
このように、事実を知らずとも、言及されていることと言及されていないことをつぶさにチェックするだけでも、信頼に値する話かどうかはわかるのだ。人は不利になることや都合の悪いことをわざわざ言及しないから、そこに目を付ければよい。
 

 「政策を語ることが重要ではない! 政策を実行に移せるかどうかなんです!」とある政治家が街頭で訴えた。ふわっと聞き流してはいけない。アリストテレスの『弁論術』の中の説得推論の24番目が参考になる。
結果は原因から推論するものである。〔あること〕の原因が存在する時には〔あること〕は存在する。〔あること〕の原因が存在しない場合には〔あること〕は存在しない。なぜなら、原因とその結果とは共存し、原因なしには何一つ存在しないからである。
これは因果関係の論点である。政策という原因ゆえに実行という結果が存在するにもかかわらず、その政治家は原因を語らずして結果を出すと言っているにすぎない。ゆえに、彼が実行するものが政策である保障はない。何らかの都合があって急遽口走った言であると察しがつく。
 
政治家の揚げ足を取るのではなく、彼らの論理をチェックするのである。彼らの言が苦し紛れで発せられたのか、その場の空気に情動されているのか、きちんとした賢慮に基づくものなのかを見極めることは、できないことではないのである。
 
アリストテレスには『政治学』という書物もある。その第七巻第1章にはこうある。
最善の国制について適切な探究をしようとする者は、まず最も望ましい生活が何であるかを規定しなければならない(……)最善な国制のもとにある者が最善の暮らしをするのは当然なことである。
人生最上の価値を幸福としたアリストテレスらしいことばだ。最善の生活について、アリストテレスは、環境と身体と精神の善を説き、これらを至福な人の条件としている。
こうした価値を今日の政治思想が積極的に扱ってきたとは言い難い。誰のためになっているのかわからない集団価値が、ともすれば個人の日常生活価値よりも優先されてしまう。残念ながら、今から二千数百年も前に掲げられた理念にぼくたちの政治風土は未だに近づけていないのである。

「知らないこと」を知る

十数年前、東京で「ディベート入門」の講演をした。そのときのレジュメが残っていて、「由来」から始まっている。初物を学ぶ人たちを対象にするとき、ズバリ本陣に切り込むのか、はたまた外堀を埋めるのかに悩む。それでも、最終的にはきっぱりと聴衆の層によって決める。まだキャリア不十分の若手にはストレートにハウツーから入る。仕事や他分野で経験や実績のあるビジネスパーソンに対しては、敢えて迂回して本題に近づいていく。

その講演でディベートの由来を冒頭に置いたのは、キャリア豊富な聴衆への敬意のつもりであった。古代ギリシャのソフィストであるプロタゴラスの話を少し、それからアリストテレスの弁論術から「相反する命題のいずれをも説得できる技術」についても触れた(ディベートの肯定側と否定側は相反している。論者はいずれの立場でも議論する必要があるので、この話は初心者には重要なのだ)。

反応もよく、まずまず順調に話を進めていき途中休憩となった。熱心に聴いてくれていた――少なくともぼくにはそう見えた――数歳年長の経営者が歩み寄ってきて、ぼくにこう言った。「先生、アリストテレスの話なんて興味ないですよ。あんなのいらないです。わたしたちはビジネスに役立つディベートを学びたいんですから」。その会合の重鎮ゆえか、その人は聴衆全員を代弁するかのようにコメントした。講演の後半も残っているので議論せず、ありがたく拝聴しておいた。

この人が何かにつけて一言批評を垂れる癖の持ち主であることを知ったのは後日のこと。その後も何度か会い話をするうちに、「知らないこと」にケチはつけるが、知ろうと努力しない人であることもわかった。


何でもかんでも知ることはない。ディベート初心者が直感的に「アリストテレスはいらない」と判断を下してもいいだろう。その代わり、知らないことはいつまで経っても知らないままだ。「知らないこと」を知ろうとする背後には好奇心もあるが、縁という要素もある。「縁あって」ぼくのディベート入門の話を聴きに来られたのだから、行きがけの駄賃のごとくちょっと齧っておけばいいのではないか、とぼくは考える。

さて、「縁あって」ここまで読んでくださったのなら、ついでにアリストテレスの話に耳を傾けるのはどうだろう(『弁論術』第23章 説得推論の論点)。

証明の主眼とする説得推論の一つの論点は、相反するものに基づいてなされる。すなわち、何かと反対なものに、その何かが持っている性質とは反対の性質が属しているかどうかを調べ、もし属していなければその命題を否定し去り、属しているなら是認するようにしなければならない。例えば、「節制あることはよいことである。なぜなら、放埓ほうらつであることは害をもたらすから」という命題がそうである。

むずかしいことが書いてある。〈節制⇔放埓〉が相反する価値である。節制の正反対の放埓が「害」であるならば、節制はその反対の性質である「益」をもたらす、ということだ。アリストテレスの本意と少しそれるかもしれないが、わかりやすく応用してみよう。「清潔な店は成功する。なぜなら、不潔な店は失敗するからである」。「清潔な店は成功する」と言われてみると、なるほどそうかもしれぬと思う。しかし、不潔な店でありながら失敗せず、それどころか繁盛している屋台だってある。とすれば、「清潔」は店が成功する絶対要因ではないことがわかる。

店のビジネスのあり方を考えるヒントになるではないか。「アリストテレスなんていらん」と言い放ったあの人は、ビジネスに役立つディベートを主張した。何のことはない、一工夫すればビジネス命題にもなるではないか。無関係で役立たないように見えても、知は必ずどこかで繋がっている。