オフィス近くの寺院の今月の標語は「楽を求めて苦しむ」。こういうことばに反応して「じゃあ、苦を求めたら楽になるんだなあ」と推し量るのは単純な早とちりというものだ。《命題の逆・裏・対偶》。聞いたことがある、ちょっとかじったことがあるという程度の人が大勢いるはず。覚えたつもりが、しばらく経つとすっかり忘れてしまう論理ツール。論理的思考は研修テーマの一つなのでぼくには染みついているが、いざこれを説明して理解してもらうとなると話は簡単ではない。
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続・政治風土雑感
ぼくたちは、この国で起こっていることの何から何までも承知しているわけではない。しかも、事実の真偽のほどもわからないことが多い。ひいては、そのような事実を前提として論議される政策の有効性を判断するのも容易ではない。だが、論理をチェックし論議の蓋然性を品定めすることはできる。
自前の証明
誰の言なら信じられるのか?
たとえば「当店は黒毛和牛専門店です」や「わたしたちは安全安心の食材を使っています」などのメッセージ。メッセージそのものの真偽を見極める専門性からほど遠いとき、ぼくたちは発信源の信頼性をチェックする。「Pはxxxである」という主述関係において、xxxの確かさはわからないが、発信者であるPがひとまず信頼に値するなら、「Pはxxxである」を暫定的に承認するしかないのである。
P自身が「Pはxxxである」と言う。そしてぼくたちがPを信じれば「Pはxxxである」も必然的に信じることになる。「Pはxxxでないかもしれない」という不安が一瞬よぎっても、信じているPがそう言うのだから受け入れるしかない。危ういマインドコントロールだが、よくある話である。では、P以外の誰か、たとえばQが「Pはxxxである」と言えばどうだろう。このとき、ぼくたちは瞬時にQとPの信頼性を比較する。「Q教授は、P大臣が大バカだと言っている」という文章において、無意識のうちにQとPの偉さ(またはバカさ加減)を天秤にかけている。
あることの正しさを証明するのは必ずしも科学だけの仕事ではない。いくら実験を重ねた数字を示されても、信なきところに証明はありえない。はっきり言うと、信とは「悪くないね、いい感じだね」である。どれだけ張り切って証明しようとも、証明しようとする本人自身が不信の念を抱かれていれば話にならない。広辞苑では、証明力は「証拠の実質的な価値で、裁判官の心証に影響を及ぼす力」とある。心証とは心に受ける印象のことだから、証明には多分に「信頼感」の支えが必要なようだ。
プロ野球の審判だった二出川延明が、アウト・セーフの判定を巡っての抗議に対して「俺がルールブックだ」と言い放った。半世紀以上も前のエピソードだ。二出川本人による「二出川がルールブックだ」という発言が真実なら、「俺が絶対、他の権威は無用」という強弁である。まるで古代ローマの弁論家のようなたくましさではないか。
ラテン語の句、“ipse dixit”は「彼自身言った」という意味で、独断的な主張をおこなう際に用いられたという(小林標『ラテン語の世界』)。「彼が……と言った」という文において、「彼が言った」ということは確かだが、「……」の部分の信憑性はまったく証明されてはいない。「彼が言った」ことを認めても、「彼」を信じていなければ人の心は動かない。証拠も論拠も証明に不可欠な要素だが、証明者が怪しければどうにもならぬ。
では、時折テレビのコマーシャルで「私が証明です」とやっている、化粧品会社の女性社長のメッセージなんかはどうなのだろう。二出川の「俺がルールブックだ」ほど神がかってはいないが、「私が証明です」は私が証拠であり論拠であると主張している。こちらもなかなか自信たっぷりである。しかし、このメッセージだけでは商品の優秀性は証明できない。証明はひとえに当の「私」にかかっている。どうやら、証明ということを突き詰めていくと、究極は自分自身を自前で証明することになるようだ。ブランドはこうした証明の一つの印にほかならない。
真偽を確かめる方法
推論や証明は直球で論じると不粋なテーマになってしまう。そうならないよう、肩の凝らない、気楽なエピソードを紹介したい。
初心者対象のディベートの勉強会をしていた頃、英国で出版された“Make Your Point”という中学生向けのテキストを参考にしていたことがある。議論の演習を目的としたもので、30の命題が設けられている。「美か知か」や「学生はアルバイトをすべきか」や「自動車―祝福か呪いか」などのテーマについて質疑応答をおこない、賛否を考え、最終的にフリーディスカッションで締めくくるという体裁に編まれている。英文もやさしく、よくできた本である(初版は1975年。手元にあるのは1987年版の11刷)。その本から「若い科学者: 残酷、それとも好奇心?」というテーマを取り上げてみる。次のような導入が書かれている。
蜘蛛にとても興味のある生徒がいた。「蜘蛛には耳がないようである」と「蜘蛛にはたくさんの足がある」という二点が気に掛かっていた。ある日、「蜘蛛には特別な足があり、それで聞いているに違いない」とひらめいた。そして、生物の先生にこのことを話してみたのである。「それはおもしろい理論だね。でも、証明するには実験をやってみないと」と先生は言った。少年は実験をすることにした。
その実験が常軌を逸しているのだが、フィクションだと思えば許せる。少年が試みた実験の手順は下記の通りであった。
実験目的 : 蜘蛛が足で聞いているかどうかを調べる。
使用器具 : 鋭利なナイフ、蜘蛛、テーブル。
実験(i) : テーブルの中央に蜘蛛を置き、「跳べ!」と命じた。
結果(i) : 蜘蛛は跳んだ。
実験(ii): 蜘蛛の足をナイフで切り落とし、蜘蛛をテーブルに戻し、「跳べ!」と命じた。
結果(ii): 蜘蛛は跳ばなかった。
さて、以上の実験と結果から少年はどのように推論して結論を導いたのだろうか。彼の仮説「蜘蛛には特別な足があり、それで聞いているに違いない」は次のように証明されたのである。
結 論 : (足を切り落とした二度目の実験で)蜘蛛が跳ばなかったのは、「跳べ!」という指示が聞こえなかったからである。ゆえに、蜘蛛の足には聴覚がある。
残念ながら、少年が試みた証明は事実に反している。専門家やぼくたち一般人が承知している事実に、である。蜘蛛は足で音を聞いていないことをぼくたちは知っている。いや、それが事実かそうでないかを棚上げしても、この実験では不備が多すぎることを感知できる。蜘蛛は人間が発する「跳べ!」を解せるのか、「跳べ!」に対して跳んだのは偶然ではないのか、仮に「跳べ!」を聞いて意味を解しても、足を切り落とされたら跳びたくても跳べないではないか……。
ぼくたちの素朴な疑問に対して少年は必死に答えるだろう。ぼくたちが執拗に検証すれば少年は反論もするだろう。しかし、彼の証明は空しい。実験は不完全であり、既知の事実を覆すだけの新説を打ち立てるには到っていないからである。
ぼくたちが少年の証明を認めないのは、蜘蛛について、聴覚について、足について、跳ぶことについてすでに知っているからである。ぼくたちには経験と知識において、少年よりも一日の長があるように思われる。しかし、まったく経験も知識も持ち合わせないテーマの実験に対してはお手上げである。自力で真偽を確かめるすべはないから、真偽を権威に委ねざるをえない。そして、ぼくたちが頼りにしている権威が専門分野に関して何でもかんでもお見通しというわけではないことを知っておくべきだろう。
教訓:「よく知っていることについて真偽を確かめることはできる。あまりよく知らないことについては確かめるのは困難である。」