自分は線、他者は点

年に千人近くの人たちと「初対面」する。「一対多」で出会ってそのままおしまいというケースがほとんどだが、一対一の接し方をする人たちも二、三百の数にのぼる。ぼくをよく知る人たちは誰も信じてくれないが、根が人見知りするほうであり、かつてはそれが苦だったのであまり人付き合いを好まなかった。職業柄それではいけないと一念発起し、人見知りしないように意識変革して現在に至ったというわけである。

初対面の人と話をするとき、その人にまつわるいろんな想像が浮かぶ。だが、その人が発する情報やその人から受け取る記号がどんなにおびただしくても、所詮その人はぼくにとって〈点存在〉でしかない。その人の今という点しか扱いきれない。居合わせる知り合いがその人の点を膨らませてくれることもあるが、それでもなお、点はあくまでも点であり、彗星の尾のようにその人の過去の線がただちに見えてくるわけではない。

その人が知人になる。やがて親しくなる。するとどうだろう、点存在だったその人が、知り合った時点にまで遡れる〈線存在〉になってくる。場合によると、その人の未来へ延びる線までが浮かんできたりもする。言うまでもなく、線存在への接し方は点存在に比べて密度が高い。接線は接点よりも接する部分が大きいのは言うまでもない。


しかし、点存在が例外なく線存在になると思いなすのは楽観的だ。ぼくの線存在としての意識に比べれば、どんなに親しくなった知人も点存在の域を出ていないと言うべきだろう。ぼく自身は過去を背負った線存在、他者は現時点においてのみ対峙する点存在――こんな関係図が見えてくる。ただ、この関係図は相手にも当てはまる。つまり、相手も自分を線存在ととらえ、ぼくを点存在のように扱っているのである。

人は自分を過去から現在に至る動的文脈の中に置く。そのくせ、他人のことになると前後関係のない点、つまり静止存在としてしか見ない。第三者の目には、どちらも点存在として居合わせているかのように映っているだろう。つまり、「線存在としての意識」だけをお互いに持ちながら、そこで繰り広げられているのは「点存在としての関係」に止まっているのである。出会った縁を忘れ、昨日までの経緯をお互いにおもんぱかることもない希薄な関係。記憶や思い出しとは無縁な、デジタルで一過性の関係。それは一期一会とは似て非なるもの。

自分だけを線存在として意識するエゴイズムすら消え去ろうとしている。「他者は点、自分も点」への関係変化を強く実感してしまう今日この頃だ。全過去を背負った人間として線存在を実践する、相手との関係の記憶をしっかりと思い起こす――こうしてはじめて関係は深まる。束の間の点としておざなりに他者に向き合う習慣と決別するには、尋常でない努力が必要なのだろう。

知ると知らぬは紙一重

先週「なかったことにする話」を書いてから、しばらくして「ちょっと待てよ。もしかして誤解されているのではないか」という思いがよぎった。実は、何かをなかったことにする裏側には、何かを重宝がるという状況があることを言いそびれてしまったのである。たとえば、「なかったことにした情報」の対極には「偶然出合った情報」がある。ぼくたちは、日々膨大な量の情報をなかったことにし、ごくわずかな情報だけに巡り合っている。

出張でホテルに泊まる。チェックイン時にフロントで「朝刊をお入れしますが、ご希望の新聞はございますか?」と聞かれることがある。ぼくの場合、自宅やオフィスで購読しているのと違う新聞を指名する。一昨日の夜もそう聞かれたので、ある新聞を指名し、その朝刊が昨日の朝にドアの隙間から室内に届いていた。そこにおもしろい記事を見つけた。そして、ふと思ったのだ、「今日自宅にいたら、この情報に出合わなかったんだなあ」と。

こんな時、情報との縁を感じる。いや、そう感じるように「赤い糸」をってみる。この一期一会の瞬間、大海を成すようなその他の情報はどうでもよくなる。もちろん、こんな感覚は次から次へと読書をしている時には湧き上がってこない。仕事で情報を追いかけねばならないときは知に対して貪欲になっているから、情報の希少性が低くなってしまっている。やや情報枯渇感があるからこそ、一つの情報に縁を感じるのだ。欲張ってはいけない。情報を欲張りすぎても、つまるところ、個々の情報の価値が薄まるだけなのだろう。


一昨日新幹線で読んだ本の一節――「言葉をないがしろにすれば、そのしっぺ返しがくるのは当然 (……) 貧しい仕方でしか言葉と接触しなければ、『ボキャ貧』になるのは当たり前」。これがぼくの持論と波長が合ったので下線を引いておいた。

8月と9月に私塾で「ことば」を取り上げるので、上記の一節は身に沁みる。特別な努力を払わなくても、誰もがことばをそこそこ操れる。これが、まずいことになる。何とか使えてしまうから、ことばをなめてしまうのである。それはともかく、このことをずっと考えながら、昨日の夕方に書店に立ち寄り、ことば論とは無縁の、ふと手に取った一冊の本の、これまたふとめくったページの小見出しに「言葉の不思議な力」を見つけてしまったら、縁の糸が真っ赤に染まるのもやむをえない。立ち読みせずに買って、いま手元にある(縁で巡り合ったが、何度も読み返せるのでもはや一期一会ではないが)。

隣りの一冊を適当に繰ってみたら別の情報が目に飛び込んできたのだろう。もしかすると、そこにも別の縁があったのかもしれない。新聞にせよ本にせよ、ある情報を知るか知らぬかは、文字通り紙一重だ。間違いなく言えることは、知りえた情報は存在したのだが、知りえなかった情報はなかったことにするしかない。なかったことにする潔さが、紙一重で知りえた情報を生かすことになる。個々人における知の集積は、気の遠くなるような無知を後景にした、ほんのささやかな前景にすぎない。縁の情報がその前景に色を添えてくれる。

「知らないこと」を知る

十数年前、東京で「ディベート入門」の講演をした。そのときのレジュメが残っていて、「由来」から始まっている。初物を学ぶ人たちを対象にするとき、ズバリ本陣に切り込むのか、はたまた外堀を埋めるのかに悩む。それでも、最終的にはきっぱりと聴衆の層によって決める。まだキャリア不十分の若手にはストレートにハウツーから入る。仕事や他分野で経験や実績のあるビジネスパーソンに対しては、敢えて迂回して本題に近づいていく。

その講演でディベートの由来を冒頭に置いたのは、キャリア豊富な聴衆への敬意のつもりであった。古代ギリシャのソフィストであるプロタゴラスの話を少し、それからアリストテレスの弁論術から「相反する命題のいずれをも説得できる技術」についても触れた(ディベートの肯定側と否定側は相反している。論者はいずれの立場でも議論する必要があるので、この話は初心者には重要なのだ)。

反応もよく、まずまず順調に話を進めていき途中休憩となった。熱心に聴いてくれていた――少なくともぼくにはそう見えた――数歳年長の経営者が歩み寄ってきて、ぼくにこう言った。「先生、アリストテレスの話なんて興味ないですよ。あんなのいらないです。わたしたちはビジネスに役立つディベートを学びたいんですから」。その会合の重鎮ゆえか、その人は聴衆全員を代弁するかのようにコメントした。講演の後半も残っているので議論せず、ありがたく拝聴しておいた。

この人が何かにつけて一言批評を垂れる癖の持ち主であることを知ったのは後日のこと。その後も何度か会い話をするうちに、「知らないこと」にケチはつけるが、知ろうと努力しない人であることもわかった。


何でもかんでも知ることはない。ディベート初心者が直感的に「アリストテレスはいらない」と判断を下してもいいだろう。その代わり、知らないことはいつまで経っても知らないままだ。「知らないこと」を知ろうとする背後には好奇心もあるが、縁という要素もある。「縁あって」ぼくのディベート入門の話を聴きに来られたのだから、行きがけの駄賃のごとくちょっと齧っておけばいいのではないか、とぼくは考える。

さて、「縁あって」ここまで読んでくださったのなら、ついでにアリストテレスの話に耳を傾けるのはどうだろう(『弁論術』第23章 説得推論の論点)。

証明の主眼とする説得推論の一つの論点は、相反するものに基づいてなされる。すなわち、何かと反対なものに、その何かが持っている性質とは反対の性質が属しているかどうかを調べ、もし属していなければその命題を否定し去り、属しているなら是認するようにしなければならない。例えば、「節制あることはよいことである。なぜなら、放埓ほうらつであることは害をもたらすから」という命題がそうである。

むずかしいことが書いてある。〈節制⇔放埓〉が相反する価値である。節制の正反対の放埓が「害」であるならば、節制はその反対の性質である「益」をもたらす、ということだ。アリストテレスの本意と少しそれるかもしれないが、わかりやすく応用してみよう。「清潔な店は成功する。なぜなら、不潔な店は失敗するからである」。「清潔な店は成功する」と言われてみると、なるほどそうかもしれぬと思う。しかし、不潔な店でありながら失敗せず、それどころか繁盛している屋台だってある。とすれば、「清潔」は店が成功する絶対要因ではないことがわかる。

店のビジネスのあり方を考えるヒントになるではないか。「アリストテレスなんていらん」と言い放ったあの人は、ビジネスに役立つディベートを主張した。何のことはない、一工夫すればビジネス命題にもなるではないか。無関係で役立たないように見えても、知は必ずどこかで繋がっている。