自分を語り込む

挨拶とほんのわずかな会話を交わしただけ。しかも、それが初対面だったとしよう。そして、それっきりもう会うこともなさそうだとしよう。こんな一過性の関係では、その時の第一印象が刷り込まれる。やがて印象も薄れ記憶から遠ざかってしまうかもしれないが、もしいつか再会することになれば、そのときは記憶に残っている「原印象」を基に接したり会話したりすることになる

第一印象というのは、付き合いが長くなるにつれて「第一」ではなくなり、それまでの印象は会うたびに塗り替えられていく。第一印象の第一は一番ではなく、「最初の」という意味である。だから、一度だけ会っておしまいなら、その一回きりの印象、すなわち第一印象――あるいは最終印象――によって人物のすべてを描いたり全体像を語ったりすることになる。但し、何度か会う関係になれば、再会するたびに第二印象、第三印象……第X印象を抱くことになるから、印象は会うたびに更新されていく。

「あいつ、こんな性格じゃなかったはずなのに……」とあなたが感じる。だが、それは必ずしも実際にあいつの性格が変わったことを意味しない。ほとんどの場合、あなたのあいつに対する印象が変わったのである。あいつの印象は良い方にも悪い方にも変容するだろう。だからと言って、あいつが良くなったり悪くなったりしているわけではない。むしろ、前に会った時からのあなたの見方・感じ方が変わったと言うべきかもしれない。


二者間においてどのようにお互いが印象を抱くかは興味深い。お互いが正真正銘ののままの状態で対面することはほとんど稀である。ABの印象を抱く時点で、BAの印象を抱いている。ABに抱く印象には、BAを見ての反応が含まれている。つまり、ABから受ける印象はすでに「Aという自分を経由」しているのである。ABの関係は出合った瞬間から相互反応関係になっていて、独立したABという状態ではないのだ。あなたが彼に抱いた印象は、あなたに反応した彼の印象にほかならない。鏡に向かった瞬間、鏡の向こうの自分がこちらの自分を意識しているという感覚は誰にもあるだろう。あれとよく似ているのである。

第一印象の良い人と良くない人がいる。一度きりの出会いでは決定的になる。しかし、何度も会うごとに良い人だったはずがさほどでもなく、逆に良くなかった人が好印象を回復していくことがある。黙して接していたり傍観していたりするだけなら、印象変化は立ち居振る舞いによってのみ生じる。それはビジュアル的もしくは表象的なものにすぎない。見掛けの印象にさほど興味のないぼくは、多少なりとも踏み込んだ対話や問答を積み重ねて印象を実像に近づける。いや、実像など永久にわからないことは百も承知だ。しかし、お互いに対話の中に自分を語り込まねば印象はいつまでも浮ついてしまう。

沈黙は決して金などではない。むしろ「金メッキ」でしかない。かと言って、沈黙の反対に雄弁を対置させるつもりもない。ぼくが強調したいのは、自分らしく問い自分らしく答え、自分らしく自分を語り込んでいく対話の精神である。表向きだけの付き合いなら装えばいいだろうし、束の間の関係なら形式的に流せばいいだろう。本気で人間どうしが付き合うのなら、ハッピーに空気を読むだけではなく、棘も荊も覚悟した時間と意味の共有努力が必要だろう。

自分を語るのではなく、自分を「語り込む」のである。語りと語り込みの、関与の違い、まなざしの違い、相互理解の違いはきわめて大きい。

自分は線、他者は点

年に千人近くの人たちと「初対面」する。「一対多」で出会ってそのままおしまいというケースがほとんどだが、一対一の接し方をする人たちも二、三百の数にのぼる。ぼくをよく知る人たちは誰も信じてくれないが、根が人見知りするほうであり、かつてはそれが苦だったのであまり人付き合いを好まなかった。職業柄それではいけないと一念発起し、人見知りしないように意識変革して現在に至ったというわけである。

初対面の人と話をするとき、その人にまつわるいろんな想像が浮かぶ。だが、その人が発する情報やその人から受け取る記号がどんなにおびただしくても、所詮その人はぼくにとって〈点存在〉でしかない。その人の今という点しか扱いきれない。居合わせる知り合いがその人の点を膨らませてくれることもあるが、それでもなお、点はあくまでも点であり、彗星の尾のようにその人の過去の線がただちに見えてくるわけではない。

その人が知人になる。やがて親しくなる。するとどうだろう、点存在だったその人が、知り合った時点にまで遡れる〈線存在〉になってくる。場合によると、その人の未来へ延びる線までが浮かんできたりもする。言うまでもなく、線存在への接し方は点存在に比べて密度が高い。接線は接点よりも接する部分が大きいのは言うまでもない。


しかし、点存在が例外なく線存在になると思いなすのは楽観的だ。ぼくの線存在としての意識に比べれば、どんなに親しくなった知人も点存在の域を出ていないと言うべきだろう。ぼく自身は過去を背負った線存在、他者は現時点においてのみ対峙する点存在――こんな関係図が見えてくる。ただ、この関係図は相手にも当てはまる。つまり、相手も自分を線存在ととらえ、ぼくを点存在のように扱っているのである。

人は自分を過去から現在に至る動的文脈の中に置く。そのくせ、他人のことになると前後関係のない点、つまり静止存在としてしか見ない。第三者の目には、どちらも点存在として居合わせているかのように映っているだろう。つまり、「線存在としての意識」だけをお互いに持ちながら、そこで繰り広げられているのは「点存在としての関係」に止まっているのである。出会った縁を忘れ、昨日までの経緯をお互いにおもんぱかることもない希薄な関係。記憶や思い出しとは無縁な、デジタルで一過性の関係。それは一期一会とは似て非なるもの。

自分だけを線存在として意識するエゴイズムすら消え去ろうとしている。「他者は点、自分も点」への関係変化を強く実感してしまう今日この頃だ。全過去を背負った人間として線存在を実践する、相手との関係の記憶をしっかりと思い起こす――こうしてはじめて関係は深まる。束の間の点としておざなりに他者に向き合う習慣と決別するには、尋常でない努力が必要なのだろう。