観察は個性を投影する

企画力と言うと、情報収集や編集や構成ばかりがクローズアップされる。ところが、こうした技術に先立つものがある。カントが経験的認識の前に〈ア・プリオリな概念〉として時間と空間を置いたように、企画者は企画に先立って時間的空間的な日常に目配りする必要がある。考えることに先立つこと、考えることよりもたいせつなことは、習慣形成された観察なのである。

しかし、観察――とりわけ視覚に強く依存した観察――に見誤りはつきものである。そうでなければ、たとえばエッシャーのだまし絵などは成立しなくなるだろう。ぼくたちはよく見ているようで実は見ていない。「百聞は一見にしかず」と言うけれど、一見そのものが危ういのである。見慣れた対象を流していることが多いし、あまり強く意識することもない。だから、普段の気づきは鋭敏ではなく、かなりいい加減なものになっている。「この目で見た」という確信ほど危ういものはないのである。

それでも、環境適応しなければならない宿命を背負っているかぎり、感覚を研ぎ澄まして観察するしかない。周辺の物事に目を凝らすこと、なじみのある街中の光景に目を配ること、ありふれた人の動きを注視することが観察行動であり、こうした行動を抜きにして何かに着眼することなどできるはずもない。ぼくの知るかぎり、よき観察者でない者がよき企画者になったためしはない。こういう話をすると、素直な人は観察することの意義を理解してくれる。だが、観察の話はこれでおしまいというほど浅くはない。


「ようし、観察するぞ」とりきむ企画の初学者は、ありのままの現実を正しくとらえるのが観察だと思ってしまうのである。観察は現実の細密な写実画であるのだと勘違いする。よくよく考えてみれば、写実画にしてもありのままの現実の投影であるはずもない。現実と観察にはつねに誤差が存在する。そして、この誤差は決して排除すべきものではなく、存在して当然なのである。

それゆえに、現実と観察の誤差を恐れる必要などさらさらない。繰り返すが、実像とイメージで再現された像の間には誤差やズレがある。誰が観察しても同じなら、その仕事を誰かに一任すればいい。しかし、そんな観察など何の値打ちもないだろう。個性は観察に介入し、観察時点で観察対象と自分は一つになろうとしているのだ。

写実的観察という、ありもしない仕事にこだわるのをやめよう。観察結果は印象的でも抽象的でもいい。勇気をもって主体的かつ個性的に観察すればいい。独自の解釈や表現なくして、そもそも観察行為などありえないのである。よく「客観的な観察」と言われるが、異口同音に「そうだ!」という観察などは数値の中にしかない。それでもなお、その数値がありのままの現実の一部始終を示している保証はない。数値でさえ、対象を好都合に切り取っていることが多いからである。

自分を語り込む

挨拶とほんのわずかな会話を交わしただけ。しかも、それが初対面だったとしよう。そして、それっきりもう会うこともなさそうだとしよう。こんな一過性の関係では、その時の第一印象が刷り込まれる。やがて印象も薄れ記憶から遠ざかってしまうかもしれないが、もしいつか再会することになれば、そのときは記憶に残っている「原印象」を基に接したり会話したりすることになる

第一印象というのは、付き合いが長くなるにつれて「第一」ではなくなり、それまでの印象は会うたびに塗り替えられていく。第一印象の第一は一番ではなく、「最初の」という意味である。だから、一度だけ会っておしまいなら、その一回きりの印象、すなわち第一印象――あるいは最終印象――によって人物のすべてを描いたり全体像を語ったりすることになる。但し、何度か会う関係になれば、再会するたびに第二印象、第三印象……第X印象を抱くことになるから、印象は会うたびに更新されていく。

「あいつ、こんな性格じゃなかったはずなのに……」とあなたが感じる。だが、それは必ずしも実際にあいつの性格が変わったことを意味しない。ほとんどの場合、あなたのあいつに対する印象が変わったのである。あいつの印象は良い方にも悪い方にも変容するだろう。だからと言って、あいつが良くなったり悪くなったりしているわけではない。むしろ、前に会った時からのあなたの見方・感じ方が変わったと言うべきかもしれない。


二者間においてどのようにお互いが印象を抱くかは興味深い。お互いが正真正銘ののままの状態で対面することはほとんど稀である。ABの印象を抱く時点で、BAの印象を抱いている。ABに抱く印象には、BAを見ての反応が含まれている。つまり、ABから受ける印象はすでに「Aという自分を経由」しているのである。ABの関係は出合った瞬間から相互反応関係になっていて、独立したABという状態ではないのだ。あなたが彼に抱いた印象は、あなたに反応した彼の印象にほかならない。鏡に向かった瞬間、鏡の向こうの自分がこちらの自分を意識しているという感覚は誰にもあるだろう。あれとよく似ているのである。

第一印象の良い人と良くない人がいる。一度きりの出会いでは決定的になる。しかし、何度も会うごとに良い人だったはずがさほどでもなく、逆に良くなかった人が好印象を回復していくことがある。黙して接していたり傍観していたりするだけなら、印象変化は立ち居振る舞いによってのみ生じる。それはビジュアル的もしくは表象的なものにすぎない。見掛けの印象にさほど興味のないぼくは、多少なりとも踏み込んだ対話や問答を積み重ねて印象を実像に近づける。いや、実像など永久にわからないことは百も承知だ。しかし、お互いに対話の中に自分を語り込まねば印象はいつまでも浮ついてしまう。

沈黙は決して金などではない。むしろ「金メッキ」でしかない。かと言って、沈黙の反対に雄弁を対置させるつもりもない。ぼくが強調したいのは、自分らしく問い自分らしく答え、自分らしく自分を語り込んでいく対話の精神である。表向きだけの付き合いなら装えばいいだろうし、束の間の関係なら形式的に流せばいいだろう。本気で人間どうしが付き合うのなら、ハッピーに空気を読むだけではなく、棘も荊も覚悟した時間と意味の共有努力が必要だろう。

自分を語るのではなく、自分を「語り込む」のである。語りと語り込みの、関与の違い、まなざしの違い、相互理解の違いはきわめて大きい。