政治風土雑感

投票.pngのサムネール画像一人ひとりは真剣に演じているつもりなのだろう。それぞれの劇団も本気で演じようとしているのだろう。こんなふうに百歩譲っても、真剣で本気の部分を全体として眺めると「茶番劇」が浮き彫りになってくるから不思議だ。不思議を感じるのは無論ぼくたちの理解不足のせいではなく、役者たちの芸の無さ、役柄認識の甘さゆえである。

テレビのニュース番組でキャスターが党名一覧のパネルを見せる。じっくりと見せてくれるのだが、あまりにも数が多いから、七つか八つまで数えたところで画面が切り替わる。とにかく、平成241121日現在、15の党が確認されている。もう党名のネタも尽き果てたかのようで、「反TPP・脱原発・消費増税凍結の党」まで誕生した。こうなれば、これから誕生する党はマニフェストの文言をトッピングよろしく並べていくことになるに違いない。かつて苦笑いしてしまったが、「みんなの党」がまともな党名に見えてくるから、これまた不思議である。

二大政党時代の到来を高らかに予見し、「必然!」とさえ太鼓判を押した政治評論家は慧眼不足を大いに反省しなければならない。かつてこの国に二大政党時代らしき時期がなかったわけではない。だが、長い歴史の中では一瞬の出来事であった。別に二大政党時代を待望しなければならない理由もない。世界的に見れば英米を除く大半の先進国には多党が存在しているのだから。そうそう一党独裁もある。
ただ、わが国の多党ぶりは乱立と形容されるように、節操がなさすぎるのだ。節操がないのは、選挙戦を勝つための卑近な術をこね回すからにほかならない。たった一つの政策で折り合わないという理由から党を離脱したり新党を旗揚げしたりする一方で、複数の政策において相違があるのに、妥協して統合するということが起こってしまう。折り合うためには「条件」が必要だ。なるほど、条件さえつければ両極だってくっついてしまうだろう。こうして、立党の理念や哲学は条件づけという妥協の産物によってものの見事にリセットされてしまう。
つまるところ、同質性の高いわが国では、エリートもそうでない者も差がないように、多様な意見が飛び交っているように見えても、実はみんな似たり寄ったりの考え方から抜け出せないのである。大同小異などキレイごとで、得策と見れば大異の溝すら簡単に埋めてしまう。要するに、ワンパターンな考え方しかできないから小異で差異化しようとしているにすぎない。たとえ15党が乱立しても、発想に大胆さなどなく、せいぜい「1℃前後の温度差」違いなのである。多党化現象は選択肢の豊かさを意味するのではない。ただただ潔い覚悟の無さを物語っている。
《続く》

マニフェストで見えないもの

政権公約よりも「マニフェスト」が常用語になった。流行語大賞に輝いたのが2003年。流行語だけに終わらず何とか定着したのをひとまず良しとすべきだろう。それでもなお、政党がマニフェストを公表したからと言って、大騒ぎするほどのことはない。政治を司るプロフェッショナルとして第一ステップをクリアしたという程度のことである。

企画の仕事をしていれば、「企画書」は一種の義務であり必須の提言である。なにしろ、企画書の一つも提出しないで仕事をもらえるわけがない。企画書は「これこれのプランを実施するとこれこれの成果が得られるであろう」という蓋然性を約束するもので、一種のマニフェストと呼んでもさしつかえない。あくまでもシナリオで、「こう考えてこう実行していく」という意思表明であって、「絶対成功」の保証はない。無責任な言いようかもしれないが、やってみて初めて成否がわかるものだ。

研修講師も、たとえばぼくの場合なら「ロジカルコミュニケーション研修」や「企画研修」の意図・ねらい(期待できる効果)・概要・タイムテーブルを事前に提出する。これも特定団体に向けたマニフェストである。空理空論はまったく通用しない。具体的に、二日間なら二日間の、講義と演習の想定プログラムをしっかりとしたため、それが円滑に進むべく運営しなければならない。政党と違って講師は一人だ。マニフェストと党員である自分の考えに「若干のニュアンスの違いがある」などと言って、逃げることはできない。責任者は自分だけである。ステージが違いすぎる? そんなことはない。何事も一人でやり遂げるのは尊いことだ。


政権公約検証大会なるものが開かれて、8団体が議論をしてコメントを出した。小説や論文の「評論」みたいなものである。自民・民主ともに「構想力が欠如」と批判されている。団体のご意見を丸々素直に受け止めたら投票に出掛ける気にはなれない。いやいや、選挙民にとっては、両党プラス他党のマニフェストに目を通せばいいわけで、評論に敏感になる必要はない。何よりもまずぼくたちは原文の小説や論文を読むべきであって、最初に評論に目を通すべきではない。仕事上は上司や得意先の顔色を見なければいけないが、マニフェストの吟味は、誰の影響も受けずに自分の意見を構築できる絶好の機会ではないか。

しかし、マニフェストは政党の政権公約である。政権公約とは、政権を握るという前提の公約である。政権が取れなければ、大半の公約内容は実現しにくいだろう。政権党に反対しながら政権取りに失敗する党が公約を果たせるのは、その政権党と一致する政策においてのみという皮肉な結果になる。さらには、政党の公約であって個人の公約ではないから、マニフェストから個人の力量なり人物を判断するのは困難である。結局、政治家個人を知ることができるのは、従来からのファンであり、その個人に近しい有権者に限られる。

四年前の総選挙で敗れたある候補者。今日からリベンジをむき出しにして立ち向かう。その候補者の周辺筋から聞いたところによると、前回の選挙に負けた直後、大声で有力支持者を叱責した。「お前の運動が足らんから、こうなったんだ!」と怒鳴り倒したらしい。皆がみなそんな下品な言を吐かないと思うが、十人中二、三人はやりそうである。怒鳴るからダメと決めつけられないし、マキアヴェッリもつべこべ言わないだろうが、その程度の度量でも政治に携われてしまうのが情けない。マニフェストで見えない「人間」にどう判定を下すか――ぼくはこちらへの意識のほうが強い。