もはや手に負えない

耳を疑った。新型のスマートフォンでソフトが2万種類もダウンロードできるというのである。もっとすごいのは、一番よく売れているタイプなら18万種類に達するという。使いこなせばすごいことになると喧伝される。たしかに使いこなせばすごいことになるだろう。

昨日『招かれざるバージョンアップ』について書いた。ぼくたちの手に負えないほどソフトや製品が進化し続けている。実際に日々使いこなす機能はおおむね基本的なものに限られていて、十中八九そうした機能だけでも十分に便宜を受けることができる。だが、高機能・多機能が描き出す夢の世界はどんどん膨らむ。ところが、その世界をじっくりとクローズアップして見えてくるのは、ソフトが主役の生活やビジネスシーンであって、ぼくの目にはそれを使っている人間がなかなか見えてこない。たぶんぼくの居場所が最先端ソフトと無縁であるからなのだろう。

現実となりつつあるこの未来光景は、何かに酷似している。そう、すでに1980年代にぼくたちを手招きしたオフィスオートメーション時代の予兆にそっくりなのである。当時、創造的な仕事を手に入れたはずのぼくたちにはかつてない効率性と余暇時間が約束された。スピード、短縮、高性能などの威勢のよいキーワードが飛び交い、整然としたペーパーレスオフィスが描き出された。それから30年、さらに進化したIT環境に置かれているはずのぼくたちは、依然として同じ時間働いているし、休暇の取り方は下手だし、小さな機器に向かってキーボードを叩きながらせっせと書類をプリントアウトしている。


伝書鳩と携帯電話には画然とした違いがあるだろう。その違いは馬車と自動車以上の相貌差異に思える。しかし、正直なところ、ぼくの使っているPCと携帯はぼくの期待以上にすでに十分に多機能かつ高機能なのである。いや、事はソフトだけの話ではない。どんなに情報が膨大しても、ぼくには一日24時間しかないのだ。毎朝一紙にざっと目を通すだけでも半時間を要し、ネット上には何万年生きても追いつかないほどの情報が溢れている。

音楽CD600枚ほど所有している。すべてのCDを再生してはいるが、過去何十年もかけて買い集め、そのつど聴いてきた結果である。今からこれらすべてのCDを再聴するとなると、一日一枚の調子で楽しんでも二年近くかかる勘定である。蔵書になると、おびただしい冊数を廃棄したが、それでもなおオフィスと自宅に2500冊ずつ所蔵している。絶対に不可能なペースだが、仮に一日に一冊再読しても15年近くかかってしまう。もちろん、ぼくは三度食事をするし、誰かと会って対話もするし、出張にも出掛け、オフィスで仕事もせねばならない。できれば7時間は眠りたいし、他にもしたいことが山ほどある。地デジもBSもケーブルテレビもおびただしいチャンネルと、休むことなく番組を提供してくれているが、週に三つ四つの番組を視聴するのがやっとだ。

アナログ書籍から電子ブックになっても、ポータビリティ以外の事情は変わらないだろう。繰り返すが、ぼくたちの生は有限であり、一年は365日なのであり、一日は24時間なのである。どんなに多機能・高機能になっても、自分へのインプット・記憶にはアナログ的過程を経なければならない。電子ブックと脳を直接ケーブルでつないでダウンロードできるのならばともかく、媒体が何であれ読まねばならない。デジタル化しても見なければならないし、アナログ処理しなければならない。

多品種大量ソフトの時代になっても、ぼくたちに便宜をはかってくれるのはわずか一握り分のソフトにすぎない。便利な知へのアクセスと己の知のサクセスをゆめゆめ混同してはならないのだろう。 

招かれざるバージョンアップ

バージョンアップの恩恵にいろいろと浴してきたから、ことさらその便宜に意見するのを少々はばかってしまう。コンピュータソフトの改訂を重ねる意に用いたのがバージョンアップの始まりだが、今では広くどんなことにも使われる。ぼくの場合、テキストや講座のバージョンアップという使い方をする。「あの店はランチをバージョンアップしたね」などと時たま耳にする。言うまでもなく、改訂、つまり改め直すのはよい方向への変革である。ランチのバージョンアップと言う時、それはうまくなったか分量が増えたかのどちらかを意味する。

いかにも英語らしく響くが、「バージョンアップ」という語は、固有名詞化したものはいざ知らず、英語にはない和製語である。一般的な英語表現は「アップグレード(upgrade)」である。それにしても、バージョンアップということばは、何かしらよりよいものに変わっていきそうな予感を秘めている。どこの誰が太鼓判を押したのか知らないが、そこはかとなく権威の雰囲気を醸し出している。このことばのマジカル効果はなかなかのものである。

IT関連の知人友人もいて話をいろいろと聞くが、どちらかと言えば、ぼくは最新ソフト情報には疎い。それでも、仕事柄、現状機能はそれなりに使いこなしている。講師業を営んでから二十年以上になるが、当初は手書きのレジュメを配付していた。次いでOHPの時代に入り、ワープロ専用機でテキストを編集し、OHPシートでも活字を使うようになった。およそ十年ほど前から研修施設内にもPC用のプロジェクターが設置されるようになり、半数以上の講師は徐々にパワーポイントによるプレゼンテーションをおこなうようになった。ぼくはしばらく様子を見ていて、ギリギリまでOHPを使っていた。OHPをパワーポイントに切り替えるのに少し手間取ったが、6年くらい前からパワーポイントで講義している。


ところが、研修施設の受講生が実習で使うPCにはバージョン2007が搭載されている。講義では持参のノートパソコンを使うから問題はない。しかし、研修指導するときに、受講生が使っているパワーポイントをうまく扱えないのである。使い慣れた機能に辿り着くための「入口」がだいぶ違っていて、即座に見つからない。ちなみに、キャリアが浅い割には、ぼくのパワーポイント技術を若い受講生たちが認めてくれている。受講生にはパワーポイント経験のない人たちが半数以上いて、発表の助言やサポートをするのだが、その時に2007で速やかに指導してあげることができないのである。

おそらくあと何年かの現役生活をぼくは2003で凌いでいきそうな気がしている。一念発起して奮い立てば新しいソフトに挑戦できるとは思うが、仕事が遅々として進まない状況に妥協できるかどうか。携帯電話についても同じことが言える。スマートフォンなどの新しい機器には好奇心があるほうなのだが、この齢にしてあまり新しいものへの志向性が強いのも困りものなのだ。新ソフトとぼくが慣れ親しんでいる旧ソフトとの間にややこしくない互換性があるかぎり、ソフト保守主義を貫こうと覚悟を決めている。 

ふと、この道はいつか来た道ではないかと考える。自由に温度設定してカスタマイズできる冷蔵庫のフリールームを使っていない。洗濯機の乾燥機能はここのところ稼動していない。携帯電話もテレビもハードディスクも大半の機能を活用していない。新機能や高機能が謳われるたびにぼくたちは心惹かれて手に入れるのだが、おそらく大半の消費者は必要最低限の機能を使うに止まっている。どんなにときめくバージョンアップ機能であれ、一日24時間で使えるものには限度があるのだ。

さらにふと想い起こす。良かれと思ってテキストや講義内容をバージョンアップしたら、主催者側から文句を言われたことがある。同年度に同一研修希望者が多い時は、たとえば7月と12月などの二回にグループを分けて実施する。7月に実施して振り返り、わかりにくそうだったことを改め新しい事例に差し替えたりする。12月に実施する研修では20パーセント程度バージョンアップしていたりする。「受講内容が変わると均一教育にならないから、勝手に変えてもらっては困る」というわけだ。

「昨年のものをバージョンアップしようと思っているのだが……」と申し出ても、「昨年と同じで結構」と返されるケースが二回に一回。先方にも三年計画などがあって、同一テーマ、同一研修、同一内容などの趣旨がある。バージョンアップがいつでもどこでも歓迎されるわけではないのである。

自由裁量と義務づけ

まったくうろ覚えなので、内容を詳細に描写することはできないし、ストーリーが間違っているかもしれない。エピソードを通じて伝えたい趣旨だけを汲んでいただきたい。たしか十代の後半だったと思う。テレビでヨーロッパ封建社会の中世を舞台にしたコメディータッチの洋画を見た。当時は今以上に洋画が放映されていた。その映画では小村の領主の代官が「新税」の考案を担当している。中世封建社会では、騎士階級が領主となって農民を支配していたのはご存知の通り。

代官は住民の動きをつぶさに観察していて、何かにつけて新税を適用しようと画策する。小船に乗ろうとしたら「ボート税」、農民が歩いたら「歩行税」という具合だ。税徴収のアイデアが浮かばなくなったら、挙句の果てに「空気税」まで導入しようとする。生きているかぎりは誰だって呼吸はしている。呼吸をするということは、領主が支配するこの村の空気を摂取していることになる。ゆえに空気税。代官が二酸化炭素に注目していれば、世界初の「CO2排出税」が誕生していたかもしれない。

記憶の底辺からぼくがこの話を思い出したのはほかでもない、通称「コンビニカット」を掲げる低料金理容店への洗髪台設置義務づけが加速していて、なんと21の道県ですでに条例化されているというのだ。仕掛けたのは約75千人の「従来型理容店」の店主が組織している全国理容生活衛生同業組合連合会。長ったらしい名称なので、「全理連」と呼ばれている。「カット専門店は洗髪しない。代わりに掃除機のような装置で毛を吸引する。全理連には飲食店からクレームが寄せられている。散髪後の客の毛が食べ物に落ちて不衛生だ、という苦情。ゆえに、衛生水準維持のために洗髪台は不可欠」――これが、条例化を加速させている直接的な動機の要旨である。

洗髪台を備えて、散髪・髭剃り・シャンプー・ドライヤー・整髪をセットメニューにしている店が従来型理容店に多い。この業態を「従来型」と呼ばねばならない時点で、時代が変わったことをぼくは嗅ぎ取る。回転寿司が主流になった結果、従来の寿司店の呼称に困った覚えがあるが、これによく似ている現象だ。ある知人が言っていた、「子どもをカウンターだけの高級寿司店に連れて行ったら、『回らないところはイヤ!』と叫びました」。回転寿司に対してどう呼べばいいのか。従来型寿司店? それとも非回転系寿司店? あるいは、高級時価寿司店か、頼みもしない付き出し有料寿司店?


「今日はどうしておきましょう?」と従来型理容店の店主が尋ね、「今日はカットと髭剃り。この後、風呂に行くので洗髪も整髪もいらない」と答えた時代があったではないか。洗髪が絶対のメニューであるはずがない。もっと言えば、条例は洗髪設備を義務づけるものであって、節約を心掛けている客に洗髪を強要することになる。仮にセットで定額であっても、その金額さえ払えば、ぼくは洗髪をパスすることはできるはずである。「洗髪はいらない」という客のニーズに反して、洗髪を義務づけることなど絶対にできないだろう。

洗髪しないで食事に行くのが不衛生でけしからんと言うのなら、それはコンビニカット店の問題ではなく、マナーの話にすぎない。洗髪をしないで散髪後に食事に行くのは客なのである。自宅で自分のハサミでカットして洗髪しないまま食事に行くのも、肩にフケがついたまま食事に行くのも、汚れた服を着て食事に行くのも、あるいは食べている寿司の味が台無しになるほどヘビーな香水をつけたおばさんがカウンターで隣りに座るのも、すべてマナーの問題なのであって、何から何まで条例を作られては、冒頭の映画とまったく同じストーリーになってしまう。

自由裁量のもとに良識を働かせるだろうという前提が市民社会にはある。それがゆゆしきルール違反になる場合のみ規制なり義務づけが必要となる。観光シーズンと出張が重なるとき、ホテルのビュッフェには数百人もの観光客が入れ替わり立ち代わりお気に入りの料理を皿に取り食べている。あの光景を見れば、舞う綿埃や唾液の飛沫や自然脱毛する髪などの中途半端でないことは一目瞭然だ。デパートの地下しかり。飲食店からの苦情に基づいて全理連が動いたというのが事実であれば、飲食店は今後、訪れる客の直前の行動をすべてトレースするべきだろう。散髪に行って洗髪しない客のために洗髪台を強制するのなら、散髪にも行かず何日も洗髪しないで飲食店にやってくる客にはどんな対策を取るのか。

一見公共の利益に適うような論理のようだが、市場競争力のためのロビー活動に見える。中世の時代のみならず、現代でも私利私欲は理不尽を正当化しようとする。まるで過剰に税徴収するお代官様と同じ。全理連と呼ぶのなら、そこにもう少しましな「理」を構築してほしいものだ。なお、ぼくは千円カットの代弁者ではない。休日に自宅近くの店に行ったことはあるが、帰宅してシャンプーし、それから夕食に出掛けた。この程度の良識さえあれば、裁量に任せればよい。何でも義務、何でも条例というのは社会の幼児化を物語り、やがて善良な顧客を愚民視することにつながる。特定業界内の業態間競争という事情で済む話ではない。 

「義理チョコ」の是非

「義理チョコの是非」を本気で問うことは絶対にない。結論から言うと、是でも非でもなく、好きか嫌いかの話にすぎないと思っている。たとえ百害一利であろうと、はたまた百利一害であろうと、一人ひとりが義理チョコを贈るか贈らないか、あるいは貰うか貰わないかを、自分自身で判断するしかない。また、貰った義理チョコに対して一ヵ月後にお返しをするかしないかも男性諸君の判断に委ねるしかない。

バレンタインデーが近づいてくると、「バレンタインデーなんかいらない」という論題や「バレンタインデーの義理チョコをやめるべきである」という論題を思い出す。ディベートの議論のテーマを論題と呼ぶが、バレンタインデーとチョコレートは入門者向けの格好の価値論題になってくれる。実際、かつてぼくの2日間ディベート入門研修の初日に実施する「ミニディベート」では、バレンタインデーをネタにした論題をよく扱った(なお、ミニディベートとはぼく独自の簡易ディベートの命名で、ふつうは「マイクロディベート」と呼ばれている)。

バレンタインデーの由来にまで遡って論争するまでもないだろう。また、いつ義理チョコが始まったかを追及しても意味がない。国や地方自治体、あるいは職場で義理チョコを制度にしているわけではないから、嫌なら習慣に縛られなければいい。そう、義理チョコの是非は政策論ではないのだ。だいたいがチョコレートを贈るのに「本命」も「義理」もないだろう。ダイヤの指輪を義理でプレゼントする男性はいないだろうし、一人の愛する女性に贈るときに「本命ダイヤ」ということばが彼の脳裏をよぎることもあるまい。職場の好きな人にチョコを贈っていたが、その人だけに贈ると目立つので、カモフラージュするためにその他の男性にも配った。それを義理チョコと呼ぶようになっただけの話ではないか。お中元・お歳暮もよく似たものである。


繰り返すが、義理チョコの是非は政策論ではない。広く容認された社会的慣習やしきたりでもない。あくまでも個人の判断に委ねられる年に一回のパーソナルイベントにすぎない。ゆえに、是非を議論するのなら、価値論でなくてはならないだろう。価値論は「本来白黒のつかないことを、白黒をつけるべく相反する議論を交わす」。最終的には本人が決めればいいのだが、せっかくだから遊び心で是非の白黒をつけようじゃないか――こんなふうに構えて議論するならいい。アームチェアーに座ってのディベートならともかく、実社会では成人が真顔で義理チョコの是非を論争したり論評したりしないほうがよろしい。あまりにも幼すぎる。

新聞に次のような四十過ぎの男性の投稿があった。

「『義理チョコ』をもらった男性が甘いものが嫌いだったり、お返しとかで経済的にも精神的にも負担をかけたりする場合があるからです。(中略)バレンタインデーにチョコを贈るのは製菓会社の商戦と割り切り、商魂に踊らされた贈り物、特に『義理チョコ』の習慣はやめるべきではないでしょうか。」(傍線岡野)

反論の内容よりも、下線部の問いかけが詮無いことなのである。制度でも何でもないのだから、投稿者が何と言おうと、義理チョコの習慣をやめるかやめないかは当事者たちが決めればいいことだ。いや、この投稿者だって「やめるべき」という個人的な意見を述べたにすぎないという見方もあるだろう。それならば、「製菓会社の商戦」とか「商魂に踊らされた贈り物」などという社会的な理由にまで論点を広げなくてもいい。バレンタインデーシーズンに限らず、製菓会社はいつでも商戦を繰り広げているし、商魂に踊らされた贈り物を持ち出すのなら、ビールも海苔もハムも同じだ。そもそも企業は商戦と商魂によって商売を成立させているのである。甘いものが嫌いな男性にチョコレートを贈るように、アルコールを飲まない人にビールを贈ることだってある。それが社交や交際の常である。

義理チョコ。贈りたければ贈ればよろしい。貰いたければ黙って貰えばよろしい。経済的・精神的負担になるなら贈らねばいいし、お返しが経済的・精神的負担になるならば貰わねばよろしい。そんなことをすると職場の人間関係がギスギスするなら、つべこべ言わずに、その程度の人間関係の職場だと割り切って義理チョコを贈り贈られ続ければよろしい。なお、聞くところによると、バレンタインデーが日曜日だとほっとする人が多いそうだが、案外その点にこそ義理チョコへの本意がありそうだ。   

適者生存について

オフィスのぼくの椅子の後ろの本棚に、ジェームズ・アレンの『「思考」が運命を変える』がずいぶん以前から収まっている。最近はこの手の生き方の手引き書をあまり読むことはないが、若い頃はデール・カーネギーなどを英文でよく読んだものだ。アレンの本も二、三冊読んだ記憶がある。「思考が運命を変える」という主張に対するぼくのスタンスは賛否五分五分。思考要因もあるが、環境や風土などの構造要因もあって、思考もその枠内で決定されるはずとも考えている。

その本のまえがきには次のように書かれている。

進化論には「適者生存」という考え方があるが、思考や行動においても、よい思考や行動が環境にもっとも適した「適者」として生き残り、悪い思考や行動は滅んでいく。

人類の歴史全体で見れば適者生存してきたかもしれない。また、好ましい思考や行動をする者が適者として残ってほしいという願望もある。だが、悲しいかな、現実が必ずしもそのようになってはいない。馬鹿げた思考をしたり愚かな行動に出たりする者が案外うまく立ち回って生き残り、適者を従えて威張ったりしているではないか。アレンは「原因と結果の法則は完璧な法則」と言うが、部分的・個別に見れば、好ましくない原因が成功という結果をもたらしているケースが結構目立つのだ。


というふうに、一見アレンにイチャモンをつけたようだが、原因と結果の法則がほぼ完璧に当てはまる例がある。それは飲食業界である。「まずくてぼったくり」は不適店であり必ず淘汰され、「うまくてリーズナブル」は生き残る。顧客獲得競争にあって、前者は滅びてしまうのである。年が明けてから、出張も少ないので、プチマーケティング研究を兼ねてオフィス近くの飲食店をつぶさに観察し、実際にランチに立ち寄ってもみた。この界隈で創業してから23年目、飲食店事情には店舗側のオーナーや料理人以上に精通していると自負している。

アレンの適者生存論が見事に当てはまる。勝ち組と負け組の鮮明な構図が浮かび上がるのだ。現在は勝敗が明確になって、負け組が閉店・廃業しつつある。つまり、店舗減少期に差し掛かり、少数の勝ち組が生き残ってそれらの店に客が集中している状況だ。競合激化から寡占共存の様相を呈している、と言ってもよい。隣のビルの地下のテナントなどはこの一年で三回変わった。現在の店も風前の灯、まもなく消えそうな雰囲気だ。おそらく、しばらくは少数の勝ち組だけが客の常連化に成功し、客を奪い合うのではなく分かち合って繁栄していくのだろう。勝つ者は鬼のように勝ち続け、負ける者はあっけなく滅びてゆく。

ところで、朝青龍はどうだったのだろう。最後の一事は論外だが、ある価値観から見た好ましくない行動の数々にもかかわらず、彼は頂点に君臨してきた。そういう意味では絵に描いたような「最適者生存」の例であった。だが、意に反して相撲界引退という幕切れは、彼が結果的に適者ではなかったことを意味する。彼に同情することはないかもしれないが、記者会見を見ていて思ったのだ。世界に出て行き活躍しているわが国のアスリートたちの、いったい誰があのような場面でその国の言語で質疑応答がこなせるのか。わずかに中田がイタリア語でヒーロー会見したのを知っているだけである。

見誤ってはいけない。顔は日本人のようで同じアジア人と思ってしまうだろうが、彼は騎馬民族の末裔、大草原で生まれ育ったモンゴル人なのである。思考構造は日本人とはだいぶ違うのだ。その彼の言語能力にぼくは舌を巻く。問われているのは、彼の品格や身の振り方なのではなく、相撲界という鎖国社会の中途半端な規範主義なのではないか。国技なのか国際的格闘技か? 日本固有の古典的興行なのかオープンなスポーツなのか? 自らの適者生存の危うさに気づかねばならないのは、相撲協会のほうだろう。  

「どうぞ戦ってください」

年明けの一月中旬にして、本年度流行語大賞の有力候補に躍り出た。「どうぞ戦ってください」は、「信じているということは、幹事長続投ということでよろしいか?」という記者の質問への答えの一部だ。正確に引用すると、「幹事長、辞めるつもりはないと、そのように申していますから、私も小沢幹事長を信じています。どうぞ戦ってくださいと、そう申し上げています」と首相は言ったのである。

下野した党は、検察への戦闘宣言だとざわめいているが、首相の言から「民主党が党を挙げて検察と戦う」などというニュアンスはぼくには伝わってこない。感じるのはむしろ、われ関せずの冷ややかさであって、「小沢さん、孤軍奮闘してください。陰ながら見守っていますから」と聞こえてくる。応援するとも言っていない。党の問題ではなく、どこまで行ってもあなたの問題ですよ、というのが本意ではないか。

結局、どこの党の誰がこの国のリーダーになっても、起こる問題も解決への姿勢もコメントも、予想される収束も同じなのだろう。言い逃れ、責任のとり方、常套句など、政権が変わるたびに毎度同じものを見聞きする。先日テレビ番組で、鳩山由紀夫から歴代総理を遡っていくクイズがあった。麻生太郎、福田康夫、安倍晋三、小泉純一郎、森喜朗、小渕恵三、橋本龍太郎、村山富市、羽田孜、細川護熙、宮澤喜一、海部俊樹、宇野宗佑、竹下登、中曾根康弘、鈴木善幸、大平正芳、福田赳夫……。際限はあるが、まだまだ続くのでここでやめるが、これだけ日替わり定食みたいに変わっていたら、変化こそ不変のような法則を感じ取ってしまう。


福田赳夫が67代で42人目の首相。就任が1976年だ。以来、鳩山氏まで19人の総理大臣が名を連ねる。福田氏と同時期の1976年、英国ではジェームズ・キャラハンが首相だった。次いでマーガレット・サッチャー、ジョン・メージャー、トニー・ブレアと続き、現在はゴードン・ブラウンだ。わずか5人である。わが国では首相になるべき人材が豊富だったのか、それとも英国の4倍分ほど希釈する程度のポジションだったのか。間違いなく言えることは、「1976年まで首相を遡って答えよ」というクイズやテストは英国では出題されないだろう。

米国大統領を同時期まで遡ってみた。バラク・オバマ、ジョージ・W・ブッシュ、ビル・クリントン、ジョージ・HW・ブッシュ、ロナルド・レーガン、ジミー・カーター(19771月就任)の以上6名。こちらもテスト問題になりにくい。ちなみにわが国の初代首相伊藤博文から数えて鳩山由紀夫は60人目で、第93代内閣総理大臣である。この間、124年。アメリカの初代大統領ジョージ・ワシントンから220年、現在のオバマは44代目だ。一国のリーダーがわが国ほど安売りされている国も珍しい。

「官僚主導から政治主導へ」と言ってみたところで、在任期間が短ければ職務に精通している暇はないだろう。首相でこれだから他の大臣ならなおさらである。ぼくの知る大企業では、同一職場での在職期間の長い派遣社員のほうが正社員よりも仕事をよく知っている。これとよく似た状況だ。皮肉ったり苦笑している場合でないのかもしれない。ここ最近の歴代首相の「お坊ちゃまぶり」には呆れ返るばかりである。ことばに力と心がこもっていないのは言うに及ばず、なにかにつけて態度が他人事なのである。困ったものだ。 

会話に飢える人々

ものの売り買いにともなうことばのやりとりは、たとえば昭和30年代では現在よりも多かったはずだ。家族団欒にともなう談話と並んで、買物に際しての会話は日々のコミュニケーションにあって質と量のいずれも重要であった。町内では角のタバコ屋に喫茶店、駄菓子屋に金物店、二筋ほど向こうの商店街には食材の店が立ち並んだ。会話なしに買物はできなかった。いや、ものを売ったり買ったりする行為自体がコミュニケーションのレールの上を走ることにほかならなかった。

昨日こんな話を聞いた。スーパー入口前の駐輪場で高齢の女性客と、これまた還暦を過ぎている駐輪整理係の女性が立ち話をしていた。店内で買物をすること10分弱、外に出ると駐輪場では二人が寒風の中でまだ話し込んでいたそうだ。聞き耳を立てれば、次のような声が聞こえてきたという。「一人暮らしのうえに、商店街のないこの界隈ではコンビニやスーパーばかり。ただ商品を選んで黙ってお金を出してお釣りをもらうだけ。形だけの愛想があるだけで、話す機会などまったくない」。

少し考えさせられた。核家族化が当たり前になって一人暮らしの高齢者が増えた。家庭での会話は当然消えてしまっている。かつて毎日通った商店街は重く翳り、昔なじみがどんどん廃業していく。足腰が弱って商店街を歩く元気もない。便利なスーパーで日々少量の食材をまかなうのもやむをえない。レジで立ち話はないだろうし、別のお客さんとの世間話もありそうもない。先の駐輪場係の女性が面倒がらずにお客さんと立ち話をした背景には、彼女にも会話への飢えがあったに違いない。これは高齢者限定の話ではない。


身近な会話が消えた。町内や街中から「話のある買物光景」が消えた。とはいえ、しーんと静まり返っているわけではない。潤いのあるやりとりに代わって、処理手続のための雑音は増幅している。最近のお笑い芸人がコンビニのネタを披露し観客が笑いころげる。店員のマニュアルトークが不自然であり常識から外れているからである。多数の人々がそう感じているから舞台上で取り上げられると笑う。しかし、慣れは恐い。現実のコンビニに行けば、そのようなトークで平然と買物を済ませてしまうのだ。

魅力ある街と人間味という観点から、ぼくはコンビニと自動販売機の廃止論をずっと唱えてきた。メリットとデメリットを天秤にかけて議論する猶予はない。一切合財の経済効果や便宜性や雇用などの条件も考慮しない。ひたすらデメリットだけを取り上げれば、まず第一に、コンビニも自販機も美しくないのである。街の景観価値を高める存在ではない。第二に、売り手が商売の工夫をしないのである。商品について知らなくても売れてしまうのだ。第三に、会話の不在である。会話なんていらないという買い物客がいるのを知っているが、沈黙の売買関係はまるで覚醒剤の取引みたいではないか。

自販機に音声合成の仕掛けをしてもムダである。それこそ処理手続が最大関心事であることの証になっている。コンビニ店員のほとんどが音声合成的に決まり文句を告げる。コンビニはかぎりなく大型自販機へと変貌していく。いつぞや酒屋に行き、新製品のビールの味を尋ねれば、二代目らしき若い主人が「私は酒を飲まないんで、わからない」と答え、「じゃあ、○○をください」と言えば、「冷えたのがないので、表の自動販売機で買ってください」と言われた。なるほど、これだって会話にはなっている。但し、処理手続の会話だ。こうして、商売から味が消え、関係の妙が消え、街は会話と景観を失う。  

何々主義はすべて「ご都合主義」

「この店の焼肉は大阪一ですよ」などとうそぶく人がいる。まるで大阪にある焼肉店をすべて食べ歩いた結果のミシュラン認定かのようだ。まずありえない。行きつけのいくつかの店の味を比較して「ここが一番うまい」と言っているにすぎないのである。だが、ひとり彼のみを槍玉にあげるわけにはいかないだろう。ぼくもあなたも、限られた経験を大風呂敷にして、何事かを確定的であるかのように主張する癖をもつはずだ。事は食べ物だけにかぎらない。

変なことば遣いになるが、安定した推論はむずかしい。ぼくたちの推論は不安定に偏っているのが常で、おおむね自らが望むように推論しているのである。「こうあってほしい」という期待が推論する方向を決めてしまっている。「この店の焼肉が大阪一であってほしい」が先にあって、その主張が導けるように推論していくのだ。情報収集の段階から、ぼくたちは自分の考えに合っていて自分の都合によい情報を選ぶ傾向を示す。都合の悪い情報からは目線を逸らす。

おいしいところを中心に推論するように人は縛られている。その縛りを解きほどこうとするのが脱偏見努力なのだが、どんなに頑張っても何らかの偏見は残る。長年にわたる思考や経験によって培われたものの見方がそうやすやすと変わることはない。偏りや歪みを正したいと思っても、そもそも何が偏りで何が歪みかすら認識できないだろう。「正しい見方」と考えているイメージそのものが、すでに偏っていて歪んでいるかもしれない。都合のよい情報と不都合な情報に等距離で接するのは至難の業なのである。


すべての何々主義は偏している。思考であれ思想であれ、主義は不利情報に対して見て見ぬ振りをし、理解可能で自分にとってありがたい情報を中心に論を組み立てる。おもしろいことに、何がしかの主義に強く染まっている人間ほど、不利情報が増えれば増えるほど躍起になって主義を貫くことだ。彼らは有利情報・不利情報100の状況に直面しても動じない。すべての何々主義は「ご都合主義」ということばで一括りにできる。

コップに水が半分入っている。これを「まだ半分ある」と構えるのが楽観主義者、「もう半分しかない」と嘆くのが悲観主義者。よくご存知の、オプチミストとペシミストを比較する名言だ。両者ともに同じコップの中の同じ量の水を見ているにもかかわらず、見方が正反対になるのは眼前の情報以外の「ものの見方」に縛られているからにほかならない。

楽観的状況にあって楽観主義者になるのではなく、悲観的状況にあって悲観主義者になるのでもない。何々主義者だから何々のようにものを見るのである。それが証拠に、主義とは無縁の犬や猫にとっては水は水であり、水量の多寡に一喜一憂するとは思えない。

これだけで終わるなら、わざわざ有名なコップの水の話を持ち出さない。実は、楽観主義者と悲観主義者以外に第三の男がいたのである。二人のコメントを聞いた彼はつぶやいた。「いずれにしても、水の量はコップの体積の半分ということだね」。主義に囚われない冷静な男? いや、そうではない。彼のことを「合理主義者」または「科学主義者」と呼ぶのである。彼もまた、ある種のご都合主義者にすぎない。

人の企て、人の営み

講師ばかりが集う年一回の会合があった。「業界」の集まりにはほとんど顔を出さないが、例の事業仕分けで仕分け人を務めた方の講演があると聞いて出席した。子細は省略するが、舞台裏の話も聞けて大いにためになった。「予算は事業につぎ込むのではなく、人に託すもの」とぼくは常々考えている。どんなに崇高な理念を掲げ緻密に練り上げられた事業であっても、資金運用の才覚がない人材が担当していては話にならない。事業が金を食い潰すのではない。金をムダに遣うのもうまく活用するのも人である。こんな思いをあらためて強くした。

人と金の関係のみならず、この地球上で生じる自然現象の一部も含めた出来事や生業なりわいは人が企てるものだ。そして、人が営んでいるものでもある。一人一人は自分を非力だと思っているが、非力の集合と総和は想像を絶するエネルギーとして世界の動因になっている。社会や国家をうまく機能させているのも人なら、危うくしているのも人である。ここでの人とは、匿名の人間集団なのではない。個々の人間のことだ。個人の企て、個人の営みが成否の鍵を握っている。

「企業は人なり」の主語と述語を入れ替えて、「人が企業なり」とするのが正解なのだろう。「人間は万物の尺度である」とプロタゴラスが語ったとき、人類全般ではなく、一人一人の考え方や生き方が念頭にあったはずである。幸せも不幸も、仕事の成否も、社会の良し悪しも、すべて個人の仕業なのだ。このように考えるのでなければ、ぼくたち一人一人は当事者としての自覚もせずに、無責任を決めこんで生き続けていくだろう。


リーマンショックも自分のせい、長引く不況も一人一人のせい。こう思いなしておかないと個人としての対策も行動も取りようがない。理不尽を批判するのは大いに結構だが、同時に他人事ではなく己にも責任の一端があることを肝に銘じておかねばならない。自分のせいではなく他人のせいなのだと誰もが信じていたら、いったいどこの誰が有効な対策を立ててくれるのか。他力を過大評価しすぎることなく、また自力を過小評価しすぎることなく、企て営む。

過ぎ行く年を大いに振り返り反省はするが、来年の抱負について多くを語らない。来年こうしようと雲の上の可能性のようなことを決意表明したものの、叶わなかったときの後悔とマイナスエネルギーが大きすぎるからである。理想が低くて夢のない人間なのか? いや、そうではない。理想や夢の前に、確実にできそうなことを日々着実にこなそうと思うばかりである。この延長線上にしか理想も夢もない。

誰もが知っているにもかかわらず、日々流されて忘れてしまう古典のことばがある。ほとんど真理とも思える二つの箴言は二千数百年も前に語られた。生活と仕事をすっぽりと包み込んでいる市場経済を、ぼくたち一人一人がどのように生きるかのヒントになってくれるはずだ。デルフォイの神殿に祀られたアポロンの神に捧げた箴言、それはソクラテスが終生強く唱え続けたものであった。

汝自身を知れ。

身の程を超えるな。

控えめな情報、強い意見

目を一度通している新聞を一ヵ月分まとめて再び拾い読みして、おもしろそうな記事があれば切り抜く。「おもしろそう」のレベルを相当上げておかないと、何でもかんでも気になってクリッピング作業が負担になる。三週間分なら5つ、6つの記事がよい。なぜクリップするのかとよく人に聞かれるのだが、残しておいて仕事に役立てようという魂胆で切り抜くのではない。ぱっと見ておもしろそうな記事を、切り抜きながら読み返しているのである。読み返しと切り抜きは一つの行為になっている。

ある記事のくだりに「レストランで必ず出てくるグリッシーニ(イタリアのスティック状のパン)は、店によっておいしさが違った」とある。たまたまグリッシーニのことを知っていて自宅でも時々口にするぼくと、まったく知らない人とでは、この情報への反応はだいぶ違うはずだ。人はまったく知らないことでも信じたり疑ったりすることはできるが、疑うにしても何が間違っているかを指摘することはできない。ただ怪しいと感じるだけである。

たとえば、一週間で百万円が倍になる新しい金融商品のことをまったく知らなくても、危険センサーが働いて怪しいと疑うことはできる(危険センサーがまったく機能しないため詐欺の被害者になる人たちも少なからずいるが)。しかし、上記のグリッシーニの情報にはさしあたっての危険はなさそうだから、「ああ、そうなのか」と読み流しはしても、強く疑うことはないだろう。正しいか誤りかと言えば、この情報は間違っている。「必ず出てくる」と、きっぱりと表現したために生じた誤りである。


グリッシーニは食事の前の「おつまみ」だ。パンの一種ではあるが、長さ2025cmの太いポッキー状のクラッカーを想像すればいい。ぼくの経験では、グリッシーニを出す店のほうが少なく、どこのレストランでも「必ず出てくる」ものではない。この体験的情報を「必ず」で紹介してしまうと、虚偽になりかねない。なお、「店によっておいしさが違った」は著者の意見なので、こちらはどんなに強く主張してもらってもいい。但し、「店によっておいしさが違った」と言うと、グリッシーニが店ごとの自家製のように聞こえる。レストランで出すのはほとんどの場合、数本単位で包装してある市販品だ。おっと、グリッシーニ論ではなかった。

情報というものは、何から何まで調べて用いるわけではない。だから、体験ならその範囲で表現し、情報のサンプルが少なければ控えめに一般化するのが望ましい。つまり、経験であれ引用や知識であれ、情報を持ち出す時点では「過度の確信」を込めてはならないのである。学者が発表したり論文を書いたりするように神経質になることはないが、自分が例外的または特権的に知りえていることを紹介するときは慎重であるべきなのだ。

これに対して、情報から推論して導き出す意見は、説明や理由がつくかぎり、好きなだけ強調すればいいのである。いや、そもそも「弱い意見」や「軽い意見」や「とりあえず意見」などの控えめな意見があってはならない。流行語を借りれば、「草食系意見」は断じてありえないのだ。意見はすべて包み隠さず明快で、大いに強くなければならない。声の大きさではなく、毅然とした強さだ。情報ばかりが強気に威張っていて、声の消え入りそうな意見で収束する話しぶりが最近目立つが、嘆かわしいかぎりである。