もはや手に負えない

耳を疑った。新型のスマートフォンでソフトが2万種類もダウンロードできるというのである。もっとすごいのは、一番よく売れているタイプなら18万種類に達するという。使いこなせばすごいことになると喧伝される。たしかに使いこなせばすごいことになるだろう。

昨日『招かれざるバージョンアップ』について書いた。ぼくたちの手に負えないほどソフトや製品が進化し続けている。実際に日々使いこなす機能はおおむね基本的なものに限られていて、十中八九そうした機能だけでも十分に便宜を受けることができる。だが、高機能・多機能が描き出す夢の世界はどんどん膨らむ。ところが、その世界をじっくりとクローズアップして見えてくるのは、ソフトが主役の生活やビジネスシーンであって、ぼくの目にはそれを使っている人間がなかなか見えてこない。たぶんぼくの居場所が最先端ソフトと無縁であるからなのだろう。

現実となりつつあるこの未来光景は、何かに酷似している。そう、すでに1980年代にぼくたちを手招きしたオフィスオートメーション時代の予兆にそっくりなのである。当時、創造的な仕事を手に入れたはずのぼくたちにはかつてない効率性と余暇時間が約束された。スピード、短縮、高性能などの威勢のよいキーワードが飛び交い、整然としたペーパーレスオフィスが描き出された。それから30年、さらに進化したIT環境に置かれているはずのぼくたちは、依然として同じ時間働いているし、休暇の取り方は下手だし、小さな機器に向かってキーボードを叩きながらせっせと書類をプリントアウトしている。


伝書鳩と携帯電話には画然とした違いがあるだろう。その違いは馬車と自動車以上の相貌差異に思える。しかし、正直なところ、ぼくの使っているPCと携帯はぼくの期待以上にすでに十分に多機能かつ高機能なのである。いや、事はソフトだけの話ではない。どんなに情報が膨大しても、ぼくには一日24時間しかないのだ。毎朝一紙にざっと目を通すだけでも半時間を要し、ネット上には何万年生きても追いつかないほどの情報が溢れている。

音楽CD600枚ほど所有している。すべてのCDを再生してはいるが、過去何十年もかけて買い集め、そのつど聴いてきた結果である。今からこれらすべてのCDを再聴するとなると、一日一枚の調子で楽しんでも二年近くかかる勘定である。蔵書になると、おびただしい冊数を廃棄したが、それでもなおオフィスと自宅に2500冊ずつ所蔵している。絶対に不可能なペースだが、仮に一日に一冊再読しても15年近くかかってしまう。もちろん、ぼくは三度食事をするし、誰かと会って対話もするし、出張にも出掛け、オフィスで仕事もせねばならない。できれば7時間は眠りたいし、他にもしたいことが山ほどある。地デジもBSもケーブルテレビもおびただしいチャンネルと、休むことなく番組を提供してくれているが、週に三つ四つの番組を視聴するのがやっとだ。

アナログ書籍から電子ブックになっても、ポータビリティ以外の事情は変わらないだろう。繰り返すが、ぼくたちの生は有限であり、一年は365日なのであり、一日は24時間なのである。どんなに多機能・高機能になっても、自分へのインプット・記憶にはアナログ的過程を経なければならない。電子ブックと脳を直接ケーブルでつないでダウンロードできるのならばともかく、媒体が何であれ読まねばならない。デジタル化しても見なければならないし、アナログ処理しなければならない。

多品種大量ソフトの時代になっても、ぼくたちに便宜をはかってくれるのはわずか一握り分のソフトにすぎない。便利な知へのアクセスと己の知のサクセスをゆめゆめ混同してはならないのだろう。