時間の目測感覚

「時間がわかる」のは大人の証である。時間という、見えない何か――おそらく概念――についての感覚を子どもたちに語り教えることははなはだむずかしい。毎日食べて遊んで学び、何年もかけて他者とともに生きていくうちに、生活と心身のリズムが一つになって時間を認識するようになる。ぼくたちは時計によって具体的に時間を認識するが、時計がなくても時間感覚は身に染みついてくるようになる。やがて瞬間瞬間の連なりを時間の流れとして感じる。

今日が月曜日だとしよう。そして、仕事の期限が金曜日の正午だとしよう。このとき、四日間と数時間という時間の目盛は万人に同じである。しかし、こと時間の目測ということになると、能力や段取りとも相まって、人それぞれの感覚が生まれてくる。あまり仕事上手でない人間が「まだだいぶ時間がある」と考えたり、処理能力の高い者が期限の目印をごく間近に見ているということがありうる。

歩いて5分の距離を「遠い」と感じたり、何十キロメートルを「近く」と感じたりする。誰かが言っていたが、オーストラリアで隣の牧場でパーティーがあるから行こうと誘われたので気楽に応じて出掛けたら、車を飛ばして1時間もかかったらしい。ぼくも、10年ほど前に帯広に滞在した折り、帯広の知人の「もう一泊して陸別の別荘に行きませんか」という申し出にオーケーしたことがある。とても近いと言われたからだが、実際はたぶん100キロメートル以上で、2時間半ほどかかったような気がする。


二段一気に上がれると見込んだ階段なのに、実際には一段半しか足が上がっていない。若かりし日々の駆け上がりの記憶、老いかけている硬い足の筋肉という現実。身体的な運動神経の現実を脳が目測違いしているのである。人柄がよくて人懐こいAさんに気軽に親しく声を掛けたら、怪訝な顔をされた。親近感と礼儀の目測を誤ったらしい。テリトリー感覚の相違かもしれない。距離と同じく、時間の目測感覚も人によってだいぶバラつきがある。

時間の目測間違いには想定間違いという甘さも含まれる。3日後にできると思っていた仕事だが、ふいの来客とクレーム対応に追われて、結果的に5日後になったなどというケースだ。さらに、リズムも時間の目測に影響を与える。生活リズムと仕事リズムである。そして、このリズムは性格、ひいては楽観主義や悲観主義などの人生観によって大いに左右されると思われる。新幹線にギリギリに乗り込む者はいつもたいていそうなるし、半時間以上余裕をもって喫茶してから早めに指定席に着く人はいつもそうしている。

「楽観主義者はドーナツを見るが、悲観主義者はドーナツの穴を見る」という表現がある。時間感覚に置き換えるとき、時間を少なめに感じるほうが仕事のミステイクや遅延は少ないだろう。実際、時間はたっぷりあるようで、あっという間に過ぎていく。ゆったりと過去を回顧したり未来に想いを馳せるのも悪くないが、こと仕事に関しては身を引き締めるように時間を目測すべきだろう。なお、楽観主義者がドーナツを、悲観主義者がドーナツの穴を見るが、ドーナツをさっさと食べてしまうのが現実主義者である。

利を捨て理を働かせる

喉元過ぎれば熱さを忘れると揶揄される国民性だ。立ち直りの見事さは、そこそこ反省が済めばケロリとしてしまう気質に通じることもある。凶悪犯が手記を書けば、あれだけ煮えくりかえっていた怒りや憎しみをすんなりと鞘に収め、節操もなくその手記を読んで涙する。そして、まさかまさかの「あいつもまんざらではない」という評価への軌道修正。最新の記憶が過去の記憶よりもつねに支配的なのである。楽観主義と油断主義が紙一重であること、寛容の精神が危機を招きかねないことをよくわきまえておきたい。

推理について書いてからまだ二十日ほどしか経っていない。現在遭遇している危機を見るにつけ、真相はどうなのか、いったいどの説を信じればいいのか、ひいてはしかるべき振る舞いはどうあるべきなのかについて、いま再び考えてみる。原発にまつわる事象を、現状分析、対策、権威、専門知識、情報、はては文明と人間、科学、生き方など、ありとあらゆることについて自問する機会にせねばならない。いま考えなければ、二度と真剣に考えることなどないだろう。

推理とは何かをわかりやすく説いている本があり、こう書いてある。

「理のあるところ、つまり真理を、いろいろの前提から推しはかること。(中略)推理の結果でてきた結論は、推しはかりの結果ですから、100パーセントの信頼性をもたないのです」(山下正男『論理的に考えること』)

前提を情報と考え、結論を真実と考えればいい。いったい事実はどうなっているのかと推理する時、ぼくたちは様々な情報を読み解こうとするのである。


一般的には、一つの情報よりも複数の情報から推しはかるほうが、あるいは主観的な情報よりも権威ある客観的な情報から推しはかるほうが、推理の信頼性は高くなると思われている。ぼくもずっとそう思っていた。多分に未熟だったせいもある。だが、現在は違う。毎度権威筋の証言を集めて推理するまでもなく、まずは自分自身の良識を働かせてみるべきだと思うようになった。極力利己を捨て無我の目線で推理してみれば、事態がよくなるか悪くなるか、安全か危険か、場合によってはどんな対策がありうるかなどが素人なりに判断できるのである。

原子力推進派であろうと反対派であろうと、原発がエアコンのように軽く扱えるものでないことを承知している。また、原発から黒煙が出ていたという事実を目撃した。さらに、つい先日まで放射能の汚染水が海へ流れ出ていたという情報を同じく認知している。放射能基準値の数倍が百倍になり千倍になった。何万倍と聞かされて驚き、数日後には電力スポークスマンが「億」とつぶやいた。「嘘でしょう?」と誰もが思っただろうが、たしかに瞬間そんな数値を記録したようである。やがて七百五十万倍だったかに訂正されたものの、数値が尋常ではないことは明らかだ。

利を捨てて見れば、上記の情報を前提にして好ましい結論を導けるはずはないのである。推理の結果、安全か危険かの二者択一ならば、「危険」と言うのが妥当だ。しかも、高分子ポリマーは権威的で信頼性が高そうに見えるが、おがくずと新聞紙のほうはやむにやまれぬ、自暴自棄の対策に見えてしまう。たとえ専門的に効果的な処理であるにしても、知り合いの銭湯のオヤジさんと同じ材料を使っていてはかなり危ういように思われる。

流言蜚語や噂などと権威筋のコメントが似たり寄ったりだと言う気はない。しかし、推理と伝播の構造にさしたる大差はないようにも思われる。しかるべき情報から信頼性の高い推理をおこなおうとする責任者なら、まず第一に利害や利己から離れてしかるべきである。もし専門家の意見に私利がからむとすれば、これはデマと同種と言わざるをえない。自然のことわりがもたらした惨事に対して、人類がを働かせて方策を打ち立てるべきだろう。

何々主義はすべて「ご都合主義」

「この店の焼肉は大阪一ですよ」などとうそぶく人がいる。まるで大阪にある焼肉店をすべて食べ歩いた結果のミシュラン認定かのようだ。まずありえない。行きつけのいくつかの店の味を比較して「ここが一番うまい」と言っているにすぎないのである。だが、ひとり彼のみを槍玉にあげるわけにはいかないだろう。ぼくもあなたも、限られた経験を大風呂敷にして、何事かを確定的であるかのように主張する癖をもつはずだ。事は食べ物だけにかぎらない。

変なことば遣いになるが、安定した推論はむずかしい。ぼくたちの推論は不安定に偏っているのが常で、おおむね自らが望むように推論しているのである。「こうあってほしい」という期待が推論する方向を決めてしまっている。「この店の焼肉が大阪一であってほしい」が先にあって、その主張が導けるように推論していくのだ。情報収集の段階から、ぼくたちは自分の考えに合っていて自分の都合によい情報を選ぶ傾向を示す。都合の悪い情報からは目線を逸らす。

おいしいところを中心に推論するように人は縛られている。その縛りを解きほどこうとするのが脱偏見努力なのだが、どんなに頑張っても何らかの偏見は残る。長年にわたる思考や経験によって培われたものの見方がそうやすやすと変わることはない。偏りや歪みを正したいと思っても、そもそも何が偏りで何が歪みかすら認識できないだろう。「正しい見方」と考えているイメージそのものが、すでに偏っていて歪んでいるかもしれない。都合のよい情報と不都合な情報に等距離で接するのは至難の業なのである。


すべての何々主義は偏している。思考であれ思想であれ、主義は不利情報に対して見て見ぬ振りをし、理解可能で自分にとってありがたい情報を中心に論を組み立てる。おもしろいことに、何がしかの主義に強く染まっている人間ほど、不利情報が増えれば増えるほど躍起になって主義を貫くことだ。彼らは有利情報・不利情報100の状況に直面しても動じない。すべての何々主義は「ご都合主義」ということばで一括りにできる。

コップに水が半分入っている。これを「まだ半分ある」と構えるのが楽観主義者、「もう半分しかない」と嘆くのが悲観主義者。よくご存知の、オプチミストとペシミストを比較する名言だ。両者ともに同じコップの中の同じ量の水を見ているにもかかわらず、見方が正反対になるのは眼前の情報以外の「ものの見方」に縛られているからにほかならない。

楽観的状況にあって楽観主義者になるのではなく、悲観的状況にあって悲観主義者になるのでもない。何々主義者だから何々のようにものを見るのである。それが証拠に、主義とは無縁の犬や猫にとっては水は水であり、水量の多寡に一喜一憂するとは思えない。

これだけで終わるなら、わざわざ有名なコップの水の話を持ち出さない。実は、楽観主義者と悲観主義者以外に第三の男がいたのである。二人のコメントを聞いた彼はつぶやいた。「いずれにしても、水の量はコップの体積の半分ということだね」。主義に囚われない冷静な男? いや、そうではない。彼のことを「合理主義者」または「科学主義者」と呼ぶのである。彼もまた、ある種のご都合主義者にすぎない。