利を捨て理を働かせる

喉元過ぎれば熱さを忘れると揶揄される国民性だ。立ち直りの見事さは、そこそこ反省が済めばケロリとしてしまう気質に通じることもある。凶悪犯が手記を書けば、あれだけ煮えくりかえっていた怒りや憎しみをすんなりと鞘に収め、節操もなくその手記を読んで涙する。そして、まさかまさかの「あいつもまんざらではない」という評価への軌道修正。最新の記憶が過去の記憶よりもつねに支配的なのである。楽観主義と油断主義が紙一重であること、寛容の精神が危機を招きかねないことをよくわきまえておきたい。

推理について書いてからまだ二十日ほどしか経っていない。現在遭遇している危機を見るにつけ、真相はどうなのか、いったいどの説を信じればいいのか、ひいてはしかるべき振る舞いはどうあるべきなのかについて、いま再び考えてみる。原発にまつわる事象を、現状分析、対策、権威、専門知識、情報、はては文明と人間、科学、生き方など、ありとあらゆることについて自問する機会にせねばならない。いま考えなければ、二度と真剣に考えることなどないだろう。

推理とは何かをわかりやすく説いている本があり、こう書いてある。

「理のあるところ、つまり真理を、いろいろの前提から推しはかること。(中略)推理の結果でてきた結論は、推しはかりの結果ですから、100パーセントの信頼性をもたないのです」(山下正男『論理的に考えること』)

前提を情報と考え、結論を真実と考えればいい。いったい事実はどうなっているのかと推理する時、ぼくたちは様々な情報を読み解こうとするのである。


一般的には、一つの情報よりも複数の情報から推しはかるほうが、あるいは主観的な情報よりも権威ある客観的な情報から推しはかるほうが、推理の信頼性は高くなると思われている。ぼくもずっとそう思っていた。多分に未熟だったせいもある。だが、現在は違う。毎度権威筋の証言を集めて推理するまでもなく、まずは自分自身の良識を働かせてみるべきだと思うようになった。極力利己を捨て無我の目線で推理してみれば、事態がよくなるか悪くなるか、安全か危険か、場合によってはどんな対策がありうるかなどが素人なりに判断できるのである。

原子力推進派であろうと反対派であろうと、原発がエアコンのように軽く扱えるものでないことを承知している。また、原発から黒煙が出ていたという事実を目撃した。さらに、つい先日まで放射能の汚染水が海へ流れ出ていたという情報を同じく認知している。放射能基準値の数倍が百倍になり千倍になった。何万倍と聞かされて驚き、数日後には電力スポークスマンが「億」とつぶやいた。「嘘でしょう?」と誰もが思っただろうが、たしかに瞬間そんな数値を記録したようである。やがて七百五十万倍だったかに訂正されたものの、数値が尋常ではないことは明らかだ。

利を捨てて見れば、上記の情報を前提にして好ましい結論を導けるはずはないのである。推理の結果、安全か危険かの二者択一ならば、「危険」と言うのが妥当だ。しかも、高分子ポリマーは権威的で信頼性が高そうに見えるが、おがくずと新聞紙のほうはやむにやまれぬ、自暴自棄の対策に見えてしまう。たとえ専門的に効果的な処理であるにしても、知り合いの銭湯のオヤジさんと同じ材料を使っていてはかなり危ういように思われる。

流言蜚語や噂などと権威筋のコメントが似たり寄ったりだと言う気はない。しかし、推理と伝播の構造にさしたる大差はないようにも思われる。しかるべき情報から信頼性の高い推理をおこなおうとする責任者なら、まず第一に利害や利己から離れてしかるべきである。もし専門家の意見に私利がからむとすれば、これはデマと同種と言わざるをえない。自然のことわりがもたらした惨事に対して、人類がを働かせて方策を打ち立てるべきだろう。

推理にともなう責任

ローマ法に由来して生まれた格言に「立証の責任は、否認する者にではなく、主張する者にかかる」というのがある。ディベートでも、最初に主張する命題を肯定する者が立証責任を負うことになっている。もし証明が十分でなければ、「不確実または明白でないものは存在しない」という取り決めによって却下される。要するに、否認されるまでもなく、証明不十分の時点で責任を果たしていないのである。他方、否認する者はなぜ否定するのかと証明する必要はない。

ディベートの肯定側への点数がからいとよく指摘される。ぼくからすると、そう指摘するあなたがたが甘すぎる、ということになる。立証する側が仕事をしていなければ、極端なことを言うと、否認する側は何もしなくていいのである。自滅している相手に追い討ちをかけることはない。このことは稟議書や企画の提案書を出すことにも通じる。稟議も企画も未来の推理シナリオである。その推理に一点でも曇りがあれば、認証することはできない。少なくとも、提示され承認を求められる意思決定者にとっては、自身が設定している基準をクリアしてもらわねばならない。

論理学における〈推論〉――あるいは〈演繹的導出〉――では、「ある前提をもとにして結論が明るみに推し出されること」をいう。前提の真偽や結論の真偽はさておき、前提から結論を導く「推論という道筋」の信頼性を保証するのが論理の仕事である。これに対して、〈推理〉とは推測であり予測である。いろいろな前提――データや兆候や情報と呼ばれる諸々の与件――から真理を推し量ることだ。推理していることの信頼性は定かではないのである。


「うまくいきますか?」と聞かれて、「わかりません」とぼくは答える。但し、それでは無責任なので、「うまくいくようにシミュレーションしてはいます」と付け加える。マーケティングや販売促進でアイデアを提案するときのぼくの基本スタンスである。推論としてはロジカルに組み立て説明もできる。しかし、このアイデアが成功へと導かれるかどうかは推理の域を出ない。だから、ぼくは正直に言う。極論家だが、案外謙虚なパーソナリティでもあるのだ。

もう一年半になるが、『想定が現実を待っている・・・』というブログを書いた。今回も、マグニチュード9の大地震に対して、専門家は「想定している三陸沖地震」ではないとぬけぬけと言った。想定イコール真理であって、今回の地震は真理ではないと聞こえてくるようではないか。その3日後の静岡県東部の地震に対しても、「想定されている東海地震とは関係ない」と気象庁は言った。ぼくたちが必要とするのは専門家の想定ではない。専門家の来るべき直近の天災予知である。そこに推理を働かせてほしい。そして、推理をするかぎり、その推理がことわりを外したり予見できていない時は、素直に説明責任を果たすべきなのだ。

未来に関わる推理は、拠り所とする前提次第だ。そして、前提をどんなに読み込もうが組み合わせようが、そこから推し量れることが真理とはかぎらないのである。参考にはなるし啓発的でもあるが、彼らは真理を語っているのではない。市場動向も景気動向も、はたまた将来のIT技術動向も、語り手がたとえプロフェッショナルであっても、当てにはならないということを再認識しておこう。本物のプロフェッショナルなら、推理に見合った責任を必ず果たすはずである。