推理にともなう責任

ローマ法に由来して生まれた格言に「立証の責任は、否認する者にではなく、主張する者にかかる」というのがある。ディベートでも、最初に主張する命題を肯定する者が立証責任を負うことになっている。もし証明が十分でなければ、「不確実または明白でないものは存在しない」という取り決めによって却下される。要するに、否認されるまでもなく、証明不十分の時点で責任を果たしていないのである。他方、否認する者はなぜ否定するのかと証明する必要はない。

ディベートの肯定側への点数がからいとよく指摘される。ぼくからすると、そう指摘するあなたがたが甘すぎる、ということになる。立証する側が仕事をしていなければ、極端なことを言うと、否認する側は何もしなくていいのである。自滅している相手に追い討ちをかけることはない。このことは稟議書や企画の提案書を出すことにも通じる。稟議も企画も未来の推理シナリオである。その推理に一点でも曇りがあれば、認証することはできない。少なくとも、提示され承認を求められる意思決定者にとっては、自身が設定している基準をクリアしてもらわねばならない。

論理学における〈推論〉――あるいは〈演繹的導出〉――では、「ある前提をもとにして結論が明るみに推し出されること」をいう。前提の真偽や結論の真偽はさておき、前提から結論を導く「推論という道筋」の信頼性を保証するのが論理の仕事である。これに対して、〈推理〉とは推測であり予測である。いろいろな前提――データや兆候や情報と呼ばれる諸々の与件――から真理を推し量ることだ。推理していることの信頼性は定かではないのである。


「うまくいきますか?」と聞かれて、「わかりません」とぼくは答える。但し、それでは無責任なので、「うまくいくようにシミュレーションしてはいます」と付け加える。マーケティングや販売促進でアイデアを提案するときのぼくの基本スタンスである。推論としてはロジカルに組み立て説明もできる。しかし、このアイデアが成功へと導かれるかどうかは推理の域を出ない。だから、ぼくは正直に言う。極論家だが、案外謙虚なパーソナリティでもあるのだ。

もう一年半になるが、『想定が現実を待っている・・・』というブログを書いた。今回も、マグニチュード9の大地震に対して、専門家は「想定している三陸沖地震」ではないとぬけぬけと言った。想定イコール真理であって、今回の地震は真理ではないと聞こえてくるようではないか。その3日後の静岡県東部の地震に対しても、「想定されている東海地震とは関係ない」と気象庁は言った。ぼくたちが必要とするのは専門家の想定ではない。専門家の来るべき直近の天災予知である。そこに推理を働かせてほしい。そして、推理をするかぎり、その推理がことわりを外したり予見できていない時は、素直に説明責任を果たすべきなのだ。

未来に関わる推理は、拠り所とする前提次第だ。そして、前提をどんなに読み込もうが組み合わせようが、そこから推し量れることが真理とはかぎらないのである。参考にはなるし啓発的でもあるが、彼らは真理を語っているのではない。市場動向も景気動向も、はたまた将来のIT技術動向も、語り手がたとえプロフェッショナルであっても、当てにはならないということを再認識しておこう。本物のプロフェッショナルなら、推理に見合った責任を必ず果たすはずである。