自由裁量と義務づけ

まったくうろ覚えなので、内容を詳細に描写することはできないし、ストーリーが間違っているかもしれない。エピソードを通じて伝えたい趣旨だけを汲んでいただきたい。たしか十代の後半だったと思う。テレビでヨーロッパ封建社会の中世を舞台にしたコメディータッチの洋画を見た。当時は今以上に洋画が放映されていた。その映画では小村の領主の代官が「新税」の考案を担当している。中世封建社会では、騎士階級が領主となって農民を支配していたのはご存知の通り。

代官は住民の動きをつぶさに観察していて、何かにつけて新税を適用しようと画策する。小船に乗ろうとしたら「ボート税」、農民が歩いたら「歩行税」という具合だ。税徴収のアイデアが浮かばなくなったら、挙句の果てに「空気税」まで導入しようとする。生きているかぎりは誰だって呼吸はしている。呼吸をするということは、領主が支配するこの村の空気を摂取していることになる。ゆえに空気税。代官が二酸化炭素に注目していれば、世界初の「CO2排出税」が誕生していたかもしれない。

記憶の底辺からぼくがこの話を思い出したのはほかでもない、通称「コンビニカット」を掲げる低料金理容店への洗髪台設置義務づけが加速していて、なんと21の道県ですでに条例化されているというのだ。仕掛けたのは約75千人の「従来型理容店」の店主が組織している全国理容生活衛生同業組合連合会。長ったらしい名称なので、「全理連」と呼ばれている。「カット専門店は洗髪しない。代わりに掃除機のような装置で毛を吸引する。全理連には飲食店からクレームが寄せられている。散髪後の客の毛が食べ物に落ちて不衛生だ、という苦情。ゆえに、衛生水準維持のために洗髪台は不可欠」――これが、条例化を加速させている直接的な動機の要旨である。

洗髪台を備えて、散髪・髭剃り・シャンプー・ドライヤー・整髪をセットメニューにしている店が従来型理容店に多い。この業態を「従来型」と呼ばねばならない時点で、時代が変わったことをぼくは嗅ぎ取る。回転寿司が主流になった結果、従来の寿司店の呼称に困った覚えがあるが、これによく似ている現象だ。ある知人が言っていた、「子どもをカウンターだけの高級寿司店に連れて行ったら、『回らないところはイヤ!』と叫びました」。回転寿司に対してどう呼べばいいのか。従来型寿司店? それとも非回転系寿司店? あるいは、高級時価寿司店か、頼みもしない付き出し有料寿司店?


「今日はどうしておきましょう?」と従来型理容店の店主が尋ね、「今日はカットと髭剃り。この後、風呂に行くので洗髪も整髪もいらない」と答えた時代があったではないか。洗髪が絶対のメニューであるはずがない。もっと言えば、条例は洗髪設備を義務づけるものであって、節約を心掛けている客に洗髪を強要することになる。仮にセットで定額であっても、その金額さえ払えば、ぼくは洗髪をパスすることはできるはずである。「洗髪はいらない」という客のニーズに反して、洗髪を義務づけることなど絶対にできないだろう。

洗髪しないで食事に行くのが不衛生でけしからんと言うのなら、それはコンビニカット店の問題ではなく、マナーの話にすぎない。洗髪をしないで散髪後に食事に行くのは客なのである。自宅で自分のハサミでカットして洗髪しないまま食事に行くのも、肩にフケがついたまま食事に行くのも、汚れた服を着て食事に行くのも、あるいは食べている寿司の味が台無しになるほどヘビーな香水をつけたおばさんがカウンターで隣りに座るのも、すべてマナーの問題なのであって、何から何まで条例を作られては、冒頭の映画とまったく同じストーリーになってしまう。

自由裁量のもとに良識を働かせるだろうという前提が市民社会にはある。それがゆゆしきルール違反になる場合のみ規制なり義務づけが必要となる。観光シーズンと出張が重なるとき、ホテルのビュッフェには数百人もの観光客が入れ替わり立ち代わりお気に入りの料理を皿に取り食べている。あの光景を見れば、舞う綿埃や唾液の飛沫や自然脱毛する髪などの中途半端でないことは一目瞭然だ。デパートの地下しかり。飲食店からの苦情に基づいて全理連が動いたというのが事実であれば、飲食店は今後、訪れる客の直前の行動をすべてトレースするべきだろう。散髪に行って洗髪しない客のために洗髪台を強制するのなら、散髪にも行かず何日も洗髪しないで飲食店にやってくる客にはどんな対策を取るのか。

一見公共の利益に適うような論理のようだが、市場競争力のためのロビー活動に見える。中世の時代のみならず、現代でも私利私欲は理不尽を正当化しようとする。まるで過剰に税徴収するお代官様と同じ。全理連と呼ぶのなら、そこにもう少しましな「理」を構築してほしいものだ。なお、ぼくは千円カットの代弁者ではない。休日に自宅近くの店に行ったことはあるが、帰宅してシャンプーし、それから夕食に出掛けた。この程度の良識さえあれば、裁量に任せればよい。何でも義務、何でも条例というのは社会の幼児化を物語り、やがて善良な顧客を愚民視することにつながる。特定業界内の業態間競争という事情で済む話ではない。