ブランド信奉の反省

まったく他人のブログをチェックしていないが、天まで届くほどの記事がすでに書かれ、現在書かれつつあり、そして明日も明後日も書かれるのだろう。

その動画はすでに先週の時点でYou Tube検索三千万件という。そう、すでにご存知だろう、あのスーザン・ボイルの仰天歌唱力の話である。「人は第一印象で決まる」とか「人は見かけがすべて」という類いの主義主張をよく耳にし、その種の本もちらほら目にするが、急激に曇った自論に少しばかり反省を加えておくべきだろう。ブランド信奉者、いや狂信に近いブランド絶対主義者に対しては、心中静かに「ざまあみろ」と囁いておくことにする。

番組の中で女性審査員がいみじくも吐露したように、誰もが風貌、立ち居振る舞いから彼女を小馬鹿にしていた。レ・ミゼラブルの『夢やぶれて』を彼女が数秒歌った直後、会場の空気と観衆の価値判断は一瞬のうちに「コペルニクス的転回」を遂げた。価値などというものが存在に帰属する絶対的なものではないことを証明してくれた。最近めったにお目にかかれない恰好の事例である。

同時に、潜在するものは凡人などには見えないことも明らかにしてくれた。人はどんなにすぐれた価値にも、それが潜在しているかぎりめったに気づかない。情けないことに、”ブランド”なりの顕在化した現象(=表象的な記号)によってしか本質をつかめないのである。歌声を発する直前までのスーザン・ボイルにブランドは付与されていなかった。彼女が潜在的に有していた価値は、あの時点では無価値だったのである。裏返せば、本物ならば――したたかな価値が備わっているならば――記号としてのブランドなど不要なのである。ブランドは、自分の眼力に自信を持つことのできない人たちが求める道しるべにすぎない。

実力がありながら過小評価に苦しんでいる人にとっては、勇気と自信に火を点してくれた一件になった。刻苦精励して本物を目指している人、わずかな照明が当たるのを辛抱強く待とうではないか。いや、少しでも機会があるのならば、それを生かそうではないか。もし本物ならば、他者はブランドを超越した評価を下してくれるものだ。「無名の本物は過大評価のブランドを凌駕する」。ぼくにとって新しい格言が生まれた。結局自分自身に言い聞かせているのだろうが……。

「何が~か?」と「~とは何か?」

先日テレビを見ていたら、ハンバーガーショップの女子店員が「このバーガーはヘルシーです」と言っていた。かねてから「ヘルシー」が本来の「健康的」という意味から逸れて「ファッション」として使われていることには気づいていた。その店員の言い分は、「牛肉が入っていなくて野菜のみのバーガーだからヘルシー」というものである。

ところが、料理番組などではアシスタントが「豚肉を使っているのでヘルシーですね」と、料理の先生に同調する。裏読みすれば、「それは豚肉であって、牛肉ではない」という意図なのだろう。つまり、バーガーショップの店員も料理番組のアシスタントも「牛肉がヘルシーではない」という点で意見が一致している。世界には牛肉を大量に消費する食文化も存在するが、その文化圏ではヘルシーでないものを食しているというわけか。

ひとまず寿命の長短などという野暮な話を横に置いて、日々の食事や材料のヘルシー度について考えてみる。

豚肉が牛肉に比べてヘルシーだからという主張は、トンカツ定食の大がビフカツの小よりもヘルシーを証明するものなのか。あるいは、サラダたっぷりの「非牛肉バーガー」を頬張っていれば、少量の焼肉に舌鼓を打つよりもヘルシーで居続けることができるのか。そんなバカな話はない。菜食主義が肉食主義よりもヘルシーであるならば、世界中に棲息する動物にあっては草食動物が肉食動物よりヘルシーということになる。繰り返すが、長寿とヘルシーを同列で語ることなどできない。ヘルシーだからと言って長寿とはかぎらないし、高齢化社会がヘルシーを基盤にしているとも思えない。


「何がヘルシーか?」と考えるから、都合よく自店のメニューを正当化してしまうのだ。野菜たっぷりがヘルシー、豚肉がヘルシー、さらには豆腐や煮魚がヘルシー……。よく目を凝らしてみれば、ここで言っているのは個々の素材のヘルシー度にすぎない。これは、ギアが上質、ボルトが上質、ネジが上質、歯車が上質というように、個物に格付けしているだけの話だ。これら個々の部品が良質、ゆえに、すべてを組み合わせた一つの統合体も良質とは限らない。つまり、「ヘルシーな野菜バーガー」を食べている人間そのもののヘルシーさの高さは保障されていない。

いやと言うほど、やれ豆乳だ、やれ納豆だ、いやバナナだと単品絶賛する愚を目撃してきたことを忘れてはならない。せめて「何と何を組み合わせればヘルシーになるのか?」というイマジネーションを働かせることはできないのか。

むしろ問うべきは「ヘルシーとは何か?」のほうである。ここまでヘルシーということばをやむなく使ってきたが、それが健康的を意味するにせよ、健全や無事を意味するにせよ、ヘルシーの本質をうやむやにして食品と結びつけて一喜一憂しても始まらない。ヘルシーの本質には、それぞれの生き物ごとの「食性に素直」ということがあるはずだ。それを「旬の食生活」と呼んでもいい。ライオンが草食動物を糧として生きていくのが食性であり、トキはドジョウや小さな虫を糧にして生きている。

人類、いや、わかっているつもりの日本で棲息する人々に限定しておこう。この風土で暮らすぼくたちは雑食という食性を維持してきた。それが「ヘルシー」なのである。

「~とは何か?」という本質的な問いを、「何が~か?」にすり替えてわかったような気になっている。「文房具とは何か?」が作用や目的や質料や形相などの本質を明らかにしようとしているのに比べて、「何が文房具か?」がいかに浅い問いかがわかるだろう。「ホッチキスが文房具」「水性ボールペンが文房具」「手帳が文房具」……これだけでいいのである。そこに知識はあるが、思考の足跡は微塵もない。  

「一人歩き」を見直す

「一人歩き」と言っても、実際の歩行とは関係ない。使い慣れたマーケティング用語が勝手に一人歩きしてしまっている話。

「市場の動きをよく見て」「顧客の立場から言うと」「ニーズはいったい何か」……こんな言い回しが比較的多く飛び交う環境にいる。振り返ってみると、自分自身がこうした表現の発信者であることも少なくない。ところが、ここ数年、講演や会議や打ち合わせで、この種のことばを使うにつけ聞くにつけ、何かが引っ掛かってしかたがない。

その引っ掛かりが、暗黙の前提や相互了解から来ているらしいことがわかった。いちいちことばで説明しなくても、「市場は存在」し、当然ながら「顧客の立場は存在」し、「ニーズも存在」する。マーケッターや企画者はほとんど疑念もなく、このような姿勢を共有している。そして、お互い十分にわかったつもりになって、もはや定義や存在を再確認しようとはしない。気がつけば、概念が一人歩きしているではないか。

マーケティング、いや、もっとくだけて「商売」と言ってもいいだろう。ひょっとしてあなたは、商売に理屈を持ち込んで議論しても勝ち目がないことを知っているがゆえに、「商売は理屈じゃない」という持論側に立たされてはいないだろうか。なるほど、「商売は実践あるのみ」という定説には逆らいにくい。しかしながら、それは市場も顧客もニーズもわかっているからこその実践なのであって、そうではない状況では理屈や理論なくして商売を考えることはできない。理屈がなくても今日一日の商売は実践できるが、理屈を抜きにしては明日以降の商売は語れない。

ぼくたちは、市場について、顧客について、ニーズについて、「理屈抜きに」――あるいは「もはや問う必要もないほどに」あるいは「さも当然かのように」――よくわかっているのだろうか。非力を認めざるをえないが、たぶんノーである。


通常数百個しか売れない商品が「どういうわけか」1万個売れた。望外の幸せはマーケティング的に説明がつくか? それは市場が成長した証か? この市場には魅力があるのか? 自社に参入適性はあるのか? ここで言う市場とは1万人の人々から構成される場か? 機会か? それともニーズか? そうでなければ、いったい何なのか? その商品によって1万人のユーザーはどんなニーズを満たしたのか? 1万人に共通する顧客特性はどう割り出すのか? 割り出せはしない、しかし特性がバラバラだということはわかった、では、それはいったいどんな次の手を示唆しているのか? ニーズは一様だったのか? そのニーズはどうすれば知りうるのか、アンケートで聞いてみればわかるのか? 「なぜこの商品をお求めになりましたか?」と訊ねて、消費者はその「なぜ」を的確な言語で表現できるのか? 仮に文章で書いてくれたとして、それをそのまま鵜呑みにできるのか? あるいは、その文章から市場の、顧客の、ニーズの何を読み取るのか?

機関銃の弾のごとく”?”を連ねてみたが、考えてみれば、市場の、顧客の、ニーズの何が真であるか、ほんとうにぼくたちはわかっているのだろうか、いや、わかることができるのだろうか。「どこまで行ってもわからない。わからないからこそ、徹底的に客観的に問うべきだ」。こう考えて、マーヴィン・バウワーは「マーケティングとは一言で言えば、『客観性』だ」と達観したのだろうか。

客観性は主観性と二項対立の関係にある。絶対的な客観性ならば、主観性を消去しなければならない。それは「無我」を意味する。マーケティングとは無我の心境なのか。自分が考える市場や顧客やニーズと、実体としての市場や顧客やニーズは一致しているのか。こんな視点に立つと、まるで「現象学」みたいになってしまうが、主客の一致などというものが商売に存在するのか、ひいては「顧客のニーズを踏まえて」とか「顧客サイドに立って」などということが実際にありうるのかどうかは、あらためて問い直すべきテーマだろう。

何が真理かは、結局マーケッター自身が自分の眼力によって見極めるしかない。市場や顧客やニーズのところに真理があるのではなく、したがって、調査はもちろんのこと、客観的視点にも限界があり、ゆえにマーケッターは市場や顧客やニーズを自分のアタマの中で想定し、編集し、構築、検証、再構築するしか法はない。現在、ぼくはこの方向性で「概念の一人歩き」に見直しを加えつつある。

リーダーのことばが色褪せる

人物と言論を切り離して考えるのはむずかしい。だが、できればそうするのが理想である。どんなにダメのレッテルを貼られた人間でも、その意見に傾聴に値するものがあれば認め、あるいは共感すればいい。さもなければ、いい人だからいいことを言っている、悪い人だから悪いことを言っているという、幼稚で短絡的な結論に至ってしまう。このあたりの話は、3ヵ月ほど前に「自分を棚に上げる風潮」と題して一度取り上げた。

このように考えないと、輝かしい金メダリストのスポーツ語録が、万が一彼もしくは彼女が後年法を犯したとたんに失墜してしまうことになる。もちろんスポーツだけにとどまる話ではない。一度コテンパンにやられた歴史上の偉人たちの金言・格言は輝きを失い、いやそれどころか闇に葬られてしまうことになる。つまり、古典的な価値など、すべて死滅することになるだろう。時代を超え人格や人間性を超えて、彼らの言わんとしたことを人物の盛衰や顛末とは無関係に眺めることは重要である。


とは言うものの、そんなに冷静で物分かりのいい見方が誰にでもできるわけではない。坊主憎けりゃ袈裟まで憎んでしまうのが人のさがというものだ。嫌いな人間や憤りを覚える人間が、どんなにためになる話をしようが、天使のような心を見せようが、生理が受けつけぬ。これが偽らざる思いかもしれない。

かなり前の話だが、”フォーチュン誌”1995320日号に次のようなインタビュー記事の一節がある。

“There’s no magic. What will make all the difference in business will be how well you train your work force, how well you motivate―and how well you empower.”
(手品なんてない。ビジネスで差がつくのは、いかにうまく人材を訓練し、いかに動機付け、そしていかに権限を与えるかなのだ。)

企業論である。なかなかの慧眼ではないか。いったい誰のことば? 何を隠そう、経営破綻問題でいま脚光を浴びているクライスラー社の当時のCEO、イートン氏の自信に溢れた信念である。「おたくの会社、ほんとにそうやって人材を育ててきたの?」と、嫌味の一つも言いたくならないか?

まだある。当時その巨大企業の会長の任にあったリード氏は、1999年に自社の変革シナリオとして下記の5項目を高らかに謳った。

1.コスト削減
2.リストラ(組織集中と分社化)
3.強いメニュー
4.情報公開
5.顧客

なるほど。常識的だが、立派な企業はそういうところに落ち着くのかと納得する。で、どこの会社の話?  これまた経営危機に直面しているシティバンクだ。

イートン氏やリード氏の仕事ぶりと現在の両企業の経営状況との因果関係を判ずる手立てはない。人物と言論の関係は、企業と言論の関係にも通じる。一つの失態は清く正しく美しい理念やスローガンを一夜にして色褪せたものにする。


仮に、経営破綻で喘ぐ現在のCEOなりチェアマンが同様の内容を経済誌のインタビューに答えたとしたら、何をほざいているんだ! と凄まじい批判を浴びるに違いない。リーダーたちの言葉は成否と大いに関わっている。いや、実は関わりなどないかもしれないが、耳にするぼくたちが成否という視点からの発想でしか価値を見極められないのだ。

言葉が色褪せたり輝いたりするのは、時代のせいであるものの、おそらく大半は言動不一致に平然と澄まし顔している輩のせいである。と同時に、ぼくたちも一喜一憂の癖と想像力の限界からくる先入観を反省すべきだろう。 

「知らないこと」を知る

十数年前、東京で「ディベート入門」の講演をした。そのときのレジュメが残っていて、「由来」から始まっている。初物を学ぶ人たちを対象にするとき、ズバリ本陣に切り込むのか、はたまた外堀を埋めるのかに悩む。それでも、最終的にはきっぱりと聴衆の層によって決める。まだキャリア不十分の若手にはストレートにハウツーから入る。仕事や他分野で経験や実績のあるビジネスパーソンに対しては、敢えて迂回して本題に近づいていく。

その講演でディベートの由来を冒頭に置いたのは、キャリア豊富な聴衆への敬意のつもりであった。古代ギリシャのソフィストであるプロタゴラスの話を少し、それからアリストテレスの弁論術から「相反する命題のいずれをも説得できる技術」についても触れた(ディベートの肯定側と否定側は相反している。論者はいずれの立場でも議論する必要があるので、この話は初心者には重要なのだ)。

反応もよく、まずまず順調に話を進めていき途中休憩となった。熱心に聴いてくれていた――少なくともぼくにはそう見えた――数歳年長の経営者が歩み寄ってきて、ぼくにこう言った。「先生、アリストテレスの話なんて興味ないですよ。あんなのいらないです。わたしたちはビジネスに役立つディベートを学びたいんですから」。その会合の重鎮ゆえか、その人は聴衆全員を代弁するかのようにコメントした。講演の後半も残っているので議論せず、ありがたく拝聴しておいた。

この人が何かにつけて一言批評を垂れる癖の持ち主であることを知ったのは後日のこと。その後も何度か会い話をするうちに、「知らないこと」にケチはつけるが、知ろうと努力しない人であることもわかった。


何でもかんでも知ることはない。ディベート初心者が直感的に「アリストテレスはいらない」と判断を下してもいいだろう。その代わり、知らないことはいつまで経っても知らないままだ。「知らないこと」を知ろうとする背後には好奇心もあるが、縁という要素もある。「縁あって」ぼくのディベート入門の話を聴きに来られたのだから、行きがけの駄賃のごとくちょっと齧っておけばいいのではないか、とぼくは考える。

さて、「縁あって」ここまで読んでくださったのなら、ついでにアリストテレスの話に耳を傾けるのはどうだろう(『弁論術』第23章 説得推論の論点)。

証明の主眼とする説得推論の一つの論点は、相反するものに基づいてなされる。すなわち、何かと反対なものに、その何かが持っている性質とは反対の性質が属しているかどうかを調べ、もし属していなければその命題を否定し去り、属しているなら是認するようにしなければならない。例えば、「節制あることはよいことである。なぜなら、放埓ほうらつであることは害をもたらすから」という命題がそうである。

むずかしいことが書いてある。〈節制⇔放埓〉が相反する価値である。節制の正反対の放埓が「害」であるならば、節制はその反対の性質である「益」をもたらす、ということだ。アリストテレスの本意と少しそれるかもしれないが、わかりやすく応用してみよう。「清潔な店は成功する。なぜなら、不潔な店は失敗するからである」。「清潔な店は成功する」と言われてみると、なるほどそうかもしれぬと思う。しかし、不潔な店でありながら失敗せず、それどころか繁盛している屋台だってある。とすれば、「清潔」は店が成功する絶対要因ではないことがわかる。

店のビジネスのあり方を考えるヒントになるではないか。「アリストテレスなんていらん」と言い放ったあの人は、ビジネスに役立つディベートを主張した。何のことはない、一工夫すればビジネス命題にもなるではないか。無関係で役立たないように見えても、知は必ずどこかで繋がっている。   

理由づけできること、できないこと

199519日のノートに、あるテレビ番組の話を書いている。ゲストは画家のヒロ・ヤマガタだった。「ヒロさんは、なぜこのような色づかいをされるのですか?」と聞き手が尋ねた。

自慢するほどの腕ではないが、絵を描くのが趣味の一つであるぼくからするときわめてナンセンスな質問である。この問いに対して、ヒロ・ヤマガタはしばし戸惑ってから、こう返した。

「そんなこと考えたこともない。芸術家なんて誰もそんなこと考えて描いてはいないんじゃないか」。案の定である。「なぜ納豆が好きなんですか?」と聞かれて、「好きだからです」以外にどう答えるべきなのか。「あのネバネバ感がたまらないんです」という答えが欲しいのか。よしんばその答えを引き出したからといって、その理由にたまげたり感心していったいどうなるものでもないだろう。

納豆が好きなのも、ある種の色づかいをするのも、もはや習性というものである。いまさら意識の世界に引っ張り出されてしかるべき理由を述べよと迫られても困るのだ。

誰もかれもが哲学や思想があって何かをしているのではない。何かしていることにつねに理由があるわけでもない。説明できるとかできないのほかに、説明して意味があることと意味がないこともある。ヒロ・ヤマガタがその気になれば、「そうですね、この種の色づかいのきっかけは……」と説明しようと思えばできたかもしれない。しかし、仮に説明したとしても聞き手のアナウンサー、あるいはカメラの向こう側の視聴者にどれほどの意味や発見があるというのだ。

☆     ☆     ☆

「沢尻さ~ん、ハワイはどうでしたぁ~?」と尋ねて、芸能レポーターはどんな答えを引き出したいのか。あんたが聞かれたら、立ち止まってゆっくり説明するとでも言うのか。ありえない。質問を無視して通り過ぎるのみである。万に一つ、「よかったです」と返事してもらって狂喜乱舞するはずもない。それは想定内の回答に他ならない。

ヒーローインタビューのあの切なさ、気まずさ、凍りつく空気はどうだ。「いいホームランでした!」とマイクを向けられて、無言でうなずくか「はい」か「ありがとうございます」以外に何があるのか。「ツーアウト、二塁、1点リードされているあの場面。どんな気持でバッターボックスに入りましたか?」 この種のインタビューはいい加減にしてほしい。このくだらぬ問いが、「何とかしようと思っていました」「来た球を思い切って打つつもりでした」などの陳腐な受け答えを招いているのである。

ある種の意思決定が下された事柄については理由が存在するだろう。その理由が予想しにくい類ならば聞けばいい。また、尋ねるだけの価値もあるかもしれない。しかし、何でもかんでも安易に「なぜ」と連発するのは聞き手として失格である。インタビューで5W1Hを押さえるのは、新聞記事を書くのと同様に常套手段である。だが、そのWのうち、Why(なぜ)とHow(どのように)はここぞというときの伝家の宝刀でなければならないのだ。

結果論から学習すべきこと

有名タレントを起用してさんざんコマーシャルを流してきたけれど、今期にかぎって言えば、ほぼすべての有力家電メーカーは赤字計上することになる。テレビ画面の美しさを訴求してきたカリスマロック歌手もカリスマ美人女優も、コマーシャルメッセージがここまで色褪せるとは想像しなかっただろう。変調経済は因果関係を狂わせる。

「しこたま金をつぎ込んでバカらしい。タレントのコマーシャル効果について見直すべきだ。企業は大手広告代理店に踊らされている」という具合に、結果論を繰り出すのは簡単である。言うまでもなく、結果論とは原因を無視することだ。なぜそうなったのかを棚上げにして、いま目の前にある現実のみを議論する。因果関係の「因」を無視して「果」のみを、すごいだとかダメだとか論うのである。

結果論は楽な論法である。「結果論で言うのじゃないけれど、金本は敬遠すべきだったねぇ」とプロ野球解説者がのたまう――あれが結果論。人は結果論を語るとき、「結果論ではないけれど」と断る習性を見せる。


結果論から言えば、タレントに巨額のコストをかけてもムダだったということになる。くどいのを承知で繰り返すと、原因と結果の関係を無視して結果だけを見るならば、大物歌手も大物俳優も宣伝効果がなかったことになる。こうした結果論がまずいのならば、いったいどんなすぐれた別の方法がありうるのかをぜひ知りたいものである。結果論で裁かれるのもやむなしだ。

ぼくは大企業、中堅、中小企業のすべての規模の企業に対して、広告やマーケティングや販売促進の仕事をしてきた(話を簡単にするために、まとめて粗っぽく「広告」と呼ぶ)。景気の良い時も悪い時も、つねに感じていたことが一つある。それは、広告費は効果とは無関係に膨らむということだ。「消費者への情報伝達機能」としてすぐれた広告にするための知恵は投資に見合う。それ以外はすべてコストなのである。

知名度が導入時や一時的な客寄せパンダ効果につながることは認める。しかし、よくよく考えてみれば、知名度を利用する広告ほど知恵のいらないものはない。ほんとうの広告の知恵とは、無名タレントで有名タレント効果を生み出すことであり、極力コストを抑えて広告費を消費者に押し付けないことなのだ。有名タレントのギャラの十分の一、いや百分の一の費用で編み出せるアイデアはいくらでもある。

結果論による批判を真摯に受け止めようではないか。かつての「負けに不思議の負けなし」にすら疑問を投げ掛けねばならなくなった時代だ。そう「勝ちも負けも不思議だらけ」。人類の洞察力の危うさが問われている。結果論から学習すべきこと――それは、いつの時代も、知恵でできる可能性を一番に探ることなのである。 

辛さ控えめのプロフェッショナリズム

引き続きプロフェッショナルの話。昨日登場したオーナーシェフは他人に対して頑固であり、客の思いと無縁のところでこだわりが強かった。何のことはない、結局は自分自身に一番甘い仕事人だったわけである。

過激であることを控えた、ソフト路線のプロを望んでいるのではない。くどいようだが、理想を高いところに据えた頑固やこだわりは大いに結構なのである。しかし、その意識のどこかに消費者に向けられたホスピタリティやエンターテインメントの精神を湛えておかねばならない。プロはアマチュアに対してやさしくなければならない。そうであるために、己に一番厳しく、次いで周囲のプロに厳しく、さらに取引先のプロにも厳しくあらねばならない。

従来から、マーケティングでは市場での売買関係を「B to B」と「B to C」というとらえ方をする。“Business to Business”、つまり「プロがプロに売る関係」と、“Business to Consumer”、つまり「プロがアマチュア(=最終消費者)に売る関係」である。付け加えるならば、プロがらみの活動には”B & B”というのもあるとぼくは考えている。かつての漫才師と同じ名前だが、「プロが集まる集団(会社・業界団体)」のことだ。その集団そのものにおいて、プロが弱腰になりお互いに甘くもたれ合ってお付き合いをするようになってきた。


プロフェッショナルの技に対して同業のプロフェッショナルの物分りが良すぎる。「ちょっと甘いんじゃないか」と、最近つくづく思う。プロどうしがお互いの仕事を十分に吟味せず、安直に褒め合うのである。たとえばお笑いコンテストでは、審査員格のベテラン芸人は若手芸人を見る機会がほとんどない(売れ筋芸人は仕事に忙しくて他人の芸など見ていない)。だから初耳のネタに大笑いしている。素人はしょっちゅうお笑い番組を見ているので、耳が肥えている。そのネタは何度も聞いて飽きた。だからクスッとも笑わない。テレビでアマチュアが笑っているのは、ディレクターが手を回すからである。

プロがプロに甘すぎる。褒められたら、お中元お歳暮を贈るように褒め返す。お笑い業界だけではない。政治家がお互いを「先生」と呼んで持ち上げ、経営者どうしが相手に賛辞を送り、料理人は仲間がこしらえるB級グルメに舌を巻いている。もちろん彼らの間の慣習的な社交辞令を割り引かねばならないが、もたれ合い・傷のなめ合いという印象が強い。ありとあらゆる業界で「プロによるプロに対する甘い採点」が目立っている。

三十代の頃には義理で異業種交流会に顔を出したが、今では時間のムダだったと思っている。どこかの教科書から抜き書きしてきたようなありきたりの講演を聞き、立食パーティーで「今後ともよろしく」と名刺を交換して、何だかうまくいきそうな気になっている。これごときを人脈形成と勘違いして小躍りしている。異業種交流会は「異業種他流試合」でなければならない。プロの技と意識を鍛錬する真剣勝負の「異種格闘技」にせねばならないのだ。


どうやらそれぞれの業界で底辺からプロフェッショナル精神が薄らぎつつあるようだ。スタッフが長続きしない、厳しいとすぐにやめる、顔色を見て過剰に気遣いする……。会議で「薄利多売」という四字熟語が通じないから使わないようにする。そんな弱腰だから、社員のボキャブラリーは増えないしコミュニケーションも上達しない。設定ハードルも激辛ではなく辛さ控えめだから簡単にクリアできる。それでプロになった気になっている。

ぼく自身が携わっている社会人教育についても触れておこう。研修は「大半の講義内容を受講生が理解できる」という前提で成り立っている。指導者側は受講生の現レベルより低めに講義を設定する。したがって、「わかりやすかった、勉強になった」と満足するのは、講義が簡単かつすでに自分が知っていることを確認できたからに他ならない。

極力やさしく説明しているつもりだが、ぼくが取り上げる内容は自他共に認める「難解」を特徴としている。受講生への真のホスピタリティは「難しかった、骨太だった」という印象を与えることだと思っているからだ。今の自分より高いところや自分の守備範囲にないことへの希求が弱すぎるから、伸び悩むのである。それを解消するために、職場から離れて、義務教育でもない研修を受ける。だからこそ、その研修に高度な内容を盛り込み、プロフェッショナルとして貪欲な知的刺激を求めるきっかけにせねばならないと思う。社会人教育はB to Bなのだ。

多くの研修が講義内容を低レベルに設定しているのは、指導者側の勉強不足・能力不足に加えて、それを許してしまう学び手の「わかりやすさ」への願望ゆえである。今日の教育マーケティングが「学び手の成長を遅らせる」という悪しき戦略に手を染めているのは否めない。

プロ意識のメンテナンス

そのイタリアンレストランにはもう二年近く行っていない。一時期は週に一回ランチに通い、夜も何度か利用した。だが、突然行かなくなった。近寄らなくなった理由は複数あるが、突き詰めれば「オーナーシェフのプロ意識の欠如」ということになるだろう。

 数回足を運んだ時点で、彼が相当な頑固者であることはわかった。しかし、オーナーが頑固であること自体は店から遠ざかる決定的な原因にならない。彼以上に頑固で何事にも強烈なこだわりを持っているシェフならどこにでもいる。頑固やこだわりは自分自身や素材やレシピやスタイルに向けられているかぎり、何の問題もない。むしろプロフェッショナルとしては必須の性格と言ってよい。

相当親しくなったので、彼のためになればと思い時折アドバイスをするようになった。自分で言うのも変だが、決して常連顔をしようとしたのではなく、純粋に成功してほしいという思いからである。時にはマーケッターとして、時にはこの界隈で二十年間ランチを食べてきた者として、時には惜しまれながら廃業していった数多くの飲食店の目撃者として……。ぼくは何回かにわたって次のような質問をしたり指摘をしたりした。括弧内が彼の反応である。

この界隈にはイタリアンの店が他に5店舗あり、フレンチも加えると8店舗になる。知っているか? (二つは知ってますよ) どちらかの店で食事をしたか? (自分も仕事をしているから行けないですね) 二筋向こうのA店は日曜日も営業しているから、一度行ってみたら? (子育てで行けないし興味もないです) あなたの店は本場仕込みの手打ちパスタが売りだが、お客さんの好みはいろいろだから乾麺も使ったら? (いや、手打ち麺でいきますよ) 日本人は乾麺のアル・デンテ(固ゆで)好みが多いと思うけど……? (そういう人は他の店に行けばいいでしょ) この間、何々という料理を食べたけれど、一度試してみたら? (あれって、そんなにおいしくないけどなあ) 来月からイタリアに行くけれど、何か欲しいものや情報はない? (そんなにしょっちゅう飛行機に乗っていると、いつか墜ちますよ)


頑固とこだわりが顧客にとって棘にならなければそれでよし。しかし、この最後の対応は残念ながら棘になった。それまで諸々の気がかりを許容してきたのだが、すべてがマイナスに転じた瞬間であった。イタリアンなのに音楽が合っていない、アニメのフィギュアで店を飾っている、愛想がよくない、ワインの品揃えが少ない……味がいいという理由で、すべてOKにしてきたんだけどなあ。

それでもトータルすれば、客の反応はややプラスなのだろう。それが証拠に、店は存続している。おそらく一定の固定客があるに違いない。

ぼく自身は手打ち麺が好物である。たしかにイタリアの食文化の中心であるトスカーナ州(たとえばフィレンツェ)やエミリア・ロマーニャ州(たとえばボローニャ)では手打ちが主流だ。ボローニャ名物ミートソースが平たい麺にまつわりつくボロネーゼは絶品である。しかし、フィレンツェでもボローニャでも普通にアル・デンテのパスタも用意している。目の前の客の、この程度の要望に応えたからといって、プロのプライドに傷などつくものか。

プロ意識、大いに結構である。プロフェッショナリズムが不足しがちな現在、さすがプロという人たちに出会いたい。しかし、時に応じて客観的な光を自ら求める努力をしておかないと、知らず知らずのうちに共感性に乏しいプロ意識を培養してしまうことになる。一事が万事にならぬよう、プロ意識にも定期的なメンテナンスが必要である。

無知よりも危うい「小知」

正確な定義もせずに「少知しょうち」という造語を使っていた。文字通り「少しだけ知識がある状態」をそう呼んでいた。しかし、同じ読み方で「小知」という、わずかな才知やあさはかな知恵を意味することばがちゃんとあるので、ニュアンスはやや違うのだが、最近はこちらのほうを使うようにしている。この小知には「大知だいち」という、一見対義語らしきことばも存在する。但し、こちらは博識という意味ではなく、見通しや見晴らしのよい知見のことだ。

あるテーマについて対話をしてみようではないか。あるいは第三者として討論に耳を傾けてみてもいいだろう。大知と博識の人はおおむね議論に強いことがわかる。議論に強い人とは、自分の主張をきちんと唱えるのもさることながら、何よりも相手の主張を検証して反駁するのに秀でている。検証反駁とはフィルターをかけることであり、知識が豊富な人ほど各種フィルターを手持ちにすることができる。

一般的には知識がより多いほうが有利に議論を運べる。しかし、この法則は「無知vs小知」の議論にはそのまま当てはまらない。ぼくの経験上、小知は無知を相手にほとんど勝てないのだ。小知の中途半端な分別は、厚かましさと居直りの無知によって完膚なきまでに叩かれる。言うまでもなく、小知は大知や博識にも歯が立たない。つまり、小知は誰にも勝てない。まるでどこかの会社の中間管理職みたいだ。では、「小知vs小知」の闘いはどうなるのか? そんな見せ場もない議論はおもしろくないから誰も関心を示さない。ゆえに、決着がどのようにつくかは本人どうししかわからない。


無知よりは努力もし謙虚でもあるだろうに、なんとも気の毒な小知である。事は知識だけに限らない。少考は無思考より危ういし、わかった気になることはまったくわかっていないことよりも危うい。小知は新しい知を遠ざけ、少考は熟考につながらず、わかった気になることは成長の妨げになる。

「大知へと開かれた、発展途上のささやかな知」を小知と呼んでいるのではない。たとえ今のところ低いレベルにあっても、学習している知はそれなりの強さを発揮できるものだ。ここで問題視している小知は、成熟の様相を呈しながら停滞してしまっている小知のことである。これでは大知や博識に見破られるし、無知からは知ったかぶりを暴かれる。

ぼくの読書三昧構想に応じて、年末に「しっかりと本を読みます」とぼくに決意表明をして正月を迎えた小知の男性がいる。年明けに会って聞いてみた、「どう、本はよく読めた?」と。小知は答えた、「思ったほど読めなかったですが……」。じっくり聞いてみれば、「思ったほど」ではなく、まったく読んでいないことが判明した。決意表明した手前、見栄を張ったのだ。小知特有のさもしい心理である。

小知が無知にも大知にもかなわないのは、無知のように「知らないことを公言できる素直さ」もなく、大知のように「どこまで学んでも人間は無知かもしれないという悟り」もないからである。小知は無知からも大知からも同じ質問をされる――「では、そこんとこ詳しく聞かせてもらえますか?」 この問いに小知はことばを詰まらせる。