「何が~か?」と「~とは何か?」

先日テレビを見ていたら、ハンバーガーショップの女子店員が「このバーガーはヘルシーです」と言っていた。かねてから「ヘルシー」が本来の「健康的」という意味から逸れて「ファッション」として使われていることには気づいていた。その店員の言い分は、「牛肉が入っていなくて野菜のみのバーガーだからヘルシー」というものである。

ところが、料理番組などではアシスタントが「豚肉を使っているのでヘルシーですね」と、料理の先生に同調する。裏読みすれば、「それは豚肉であって、牛肉ではない」という意図なのだろう。つまり、バーガーショップの店員も料理番組のアシスタントも「牛肉がヘルシーではない」という点で意見が一致している。世界には牛肉を大量に消費する食文化も存在するが、その文化圏ではヘルシーでないものを食しているというわけか。

ひとまず寿命の長短などという野暮な話を横に置いて、日々の食事や材料のヘルシー度について考えてみる。

豚肉が牛肉に比べてヘルシーだからという主張は、トンカツ定食の大がビフカツの小よりもヘルシーを証明するものなのか。あるいは、サラダたっぷりの「非牛肉バーガー」を頬張っていれば、少量の焼肉に舌鼓を打つよりもヘルシーで居続けることができるのか。そんなバカな話はない。菜食主義が肉食主義よりもヘルシーであるならば、世界中に棲息する動物にあっては草食動物が肉食動物よりヘルシーということになる。繰り返すが、長寿とヘルシーを同列で語ることなどできない。ヘルシーだからと言って長寿とはかぎらないし、高齢化社会がヘルシーを基盤にしているとも思えない。


「何がヘルシーか?」と考えるから、都合よく自店のメニューを正当化してしまうのだ。野菜たっぷりがヘルシー、豚肉がヘルシー、さらには豆腐や煮魚がヘルシー……。よく目を凝らしてみれば、ここで言っているのは個々の素材のヘルシー度にすぎない。これは、ギアが上質、ボルトが上質、ネジが上質、歯車が上質というように、個物に格付けしているだけの話だ。これら個々の部品が良質、ゆえに、すべてを組み合わせた一つの統合体も良質とは限らない。つまり、「ヘルシーな野菜バーガー」を食べている人間そのもののヘルシーさの高さは保障されていない。

いやと言うほど、やれ豆乳だ、やれ納豆だ、いやバナナだと単品絶賛する愚を目撃してきたことを忘れてはならない。せめて「何と何を組み合わせればヘルシーになるのか?」というイマジネーションを働かせることはできないのか。

むしろ問うべきは「ヘルシーとは何か?」のほうである。ここまでヘルシーということばをやむなく使ってきたが、それが健康的を意味するにせよ、健全や無事を意味するにせよ、ヘルシーの本質をうやむやにして食品と結びつけて一喜一憂しても始まらない。ヘルシーの本質には、それぞれの生き物ごとの「食性に素直」ということがあるはずだ。それを「旬の食生活」と呼んでもいい。ライオンが草食動物を糧として生きていくのが食性であり、トキはドジョウや小さな虫を糧にして生きている。

人類、いや、わかっているつもりの日本で棲息する人々に限定しておこう。この風土で暮らすぼくたちは雑食という食性を維持してきた。それが「ヘルシー」なのである。

「~とは何か?」という本質的な問いを、「何が~か?」にすり替えてわかったような気になっている。「文房具とは何か?」が作用や目的や質料や形相などの本質を明らかにしようとしているのに比べて、「何が文房具か?」がいかに浅い問いかがわかるだろう。「ホッチキスが文房具」「水性ボールペンが文房具」「手帳が文房具」……これだけでいいのである。そこに知識はあるが、思考の足跡は微塵もない。